アルビオンニウムへ

第334話 マッド・ゴーレム

統一歴九十九年四月三十一日、夕 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 結局、未明から降り続く雨は今日一日降りやまぬようだ。いい加減に陽も傾く時間帯だが、雨の勢いに変わりはない。強く振っているわけでもないが、絶えることなく降り続く雨はありとあらゆるものを重くしっとりと湿らせている。秋ということもあって気温が抑えられているからいいが、これがもう少し暖かければ汗をジットリと滲ませていたことだろう。


 曇ってさえいなければまだ明るいはずの時間帯ではあったが、開け放たれた窓から入る陽の光もだいぶ弱くなり、老人でなくとも文字の読み書きがつらくなり始めたことで、ヴァナディーズは本日の授業を切り上げることにした。


「ふぅ~…やっぱり午後はあまり時間が取れないわね。」


 薄暗い部屋の中でルクレティアと二人、勉強道具を片付けながら独り言ちる。

 現在、ヴァナディーズは午前中は侯爵公子カールの勉強、午後はルクレティアの勉強を見ている。ルクレティアは午前中にリュキスカの魔力制御の訓練、午後はヴァナディーズに勉強を教えてもらっている。

 だが、午前と午後では取れる時間の長さが違ってくる。午前は被保護民クリエンテス表敬訪問サルタティオを受けるのでない限り、朝食イェンタークルム後からお昼ぐらいまで三時間くらいの時間が取れる。しかし午後は、リュウイチの昼食ブランディウムに付き合い、その後風呂場バルネウムで汗を流してから、夕食ケーナの準備が始まるまでの約二時間か、頑張っても二時間半ぐらいしか時間が取れないのだ。


 この世界ヴァーチャリアは電気の照明があるわけではない。照明はロウソクや油を燃やすランプ、あるいは松明たいまつ篝火かがりびなどの焚火に頼るほかない。いずれにせよ、無駄な照明を使うのは大変な贅沢なのである。

 よって、日常の生活は照明を使わなくて済むよう、太陽に合わせて営むのが普通であり、食事も洗濯も掃除も基本的にすべて陽の光のあるうちにすべて済ませなければならない。当然、風呂も日中に入るものなのだ。

 貴族ノビリタスともなれば、贅沢に照明を焚いて夜遅くまで酒宴コミッサーティオに興じることもあるが、ああいった社交は貴族にとっては生活とは別次元の重要な営みである。社交のために金をかけることは必要だし許されることなのだが、風呂に入るといった私的な行為を照明代費やして夜中にするなど、まず考えられることではない。それは途方もない無駄であり、許されざる贅沢と言える。馬鹿げてさえいる。

 結果、ルクレティアは勉学の時間を削られざるを得ないのだった。彼女に勉強を教えなければならないヴァナディーズにとって、目下の課題はどれだけ効率よくルクレティアの授業を進めるかであった。


「カール閣下と時間を入れ替えてもらうわけにはいかないものねぇ」


 カールは午前中はヴァナディーズに勉強を教えてもらい、午後は体力を回復するためのトレーニングをしている。ただ、体力がないため時間いっぱいまで運動は出来ず、結構な時間を昼寝に費やしている。

 午前と午後を入れ替えても問題なさそうに思えなくもないが、仮に午前にトレーニングをすると、午後は疲れ切ってしまって勉強にならないだろうという判断から午前をカールの勉強時間に充てざるをえないのだ。


「リュキスカ様の様子はどう?

 もし訓練を短くできるなら短くしていただいて、昼前にお風呂入ってしまえば午後の時間を増やせるのだけど?」


 午前中のリュキスカの訓練を早く終わって昼前に風呂に入れば、リュウイチとの昼食が済んでからすぐに勉強に入れる。そうすれば午後でも十分な時間が取れるのではとヴァナディーズは提案したが、ルクレティアは驚いた。


「そしたらヴァナディーズ先生はいつお風呂に入るの?」


「私は昼食に付き合う必要ないもの、昼食の時間に入っちゃうわよ。

 どうなの?リュキスカ様は?」


 ルクレティアはウーンと唸り声をあげて考え込んだ。


「調子よくないの?」


「いえ、すごく訓練ははかどっているわ。びっくりするくらいよ。筋が良いのね。

 なんか、赤ちゃんにオッパイあげても魔力酔いしにくくなってきたんですって。」


「本当に!?」


 ルクレティアの説明を聞いてヴァナディーズは驚きの声をあげる。最初に聞いていた予想では、訓練の効果が出始めるまでに半月くらいはかかるかもしれないとのことだったからだ。訓練を始めてからまだ一週間しかたっていないのに既に効果が出はじめているとすれば、かなり驚異的なスピードである。


「あくまでも、“しにくくなった”っていうだけで、しなくなったわけじゃないのよ?

 でも、以前よりもオッパイをたくさん飲めるようになったらしいわ。やっぱり最後は魔力酔いで顔が真っ赤になるらしいけど。」


「あれ、離乳食を始めるって話じゃなかった?」


「そうだけど、いきなり全部を切り替えるのは無理よ!

 だいたいあの赤ちゃん、労咳ろうがいだったせいか月齢の割に成長が遅いみたいなんだもの。本当なら離乳食を始めるのももっと待った方がいいくらいだわ。」


「じゃあまだオッパイで育ててるの?」


「そうよ、離乳食はちょっとずつ様子を見ながらやってるみたいだけど、今は未だオヤツにもならないくらい。

 事情が事情だから乳母も用意できないし…」


 秘匿性を考えると安易に外部から乳母を入れることは出来ない。入れるとすれば事情を既に知っている人でどうにかするしかないだろうが、既に事情を知ってる中で母乳が出る女性はエルネスティーネしかいない。さすがに侯爵夫人マルキオニッサに乳母をやってもらうわけにもいかないだろう。彼女には領主としての仕事があったし、乳母役をやるくらいなら自分の娘にまず与えるだろう。


「ということは、当面は無理かしらね…」


 参った…という風にヴァナディーズはため息をついた。その時、窓の外からカールのものとおぼしき叫び声が聞こえた。それに続いて、ズゥン!ズズゥン!と地響きを伴う低く鈍い衝撃音が鳴りひびく。

 ルクレティアとヴァナディーズは互いに顔を見合わせた。聞こえてきた音が空耳か何かの聞き間違いではないかと疑ったからだったが、どうやらお互いの反応を見る限り聞き間違いなどではないらしい。

 二人は無言のままパッと立ち上がって部屋から出た。


 部屋から出ればそこは庭園ペリスティリウムを囲む列柱郭ペリスタイルの二階部分だ。そこから庭園全体を見下ろすことができる。

 そこから見下ろす二人の目には高さ一ピルム半(約二・八メートル)~二ピルム(約三・七メートル)にはなろうかという人の形をした泥の塊だった。頭、肩、背中の部分に何故かいくつもの花が咲いている。そしてそれはヨロヨロと動いていた。


「ウソ!?」

「な、なにこれ?」


「スゴイ!凄いですリュウイチ様!!」


 二人が度肝を抜かれて立ちすくんでいると、下の方からカールの歓声が聞こえてきた。声のする方を見ると、カールが列柱郭の柱の一つにしがみ付くように立ったまま、泥の巨人を見上げて興奮して声をあげている。その周囲にはカール付きの侍女たちが顔を青ざめさせて立ちすくんでいた。他の部屋からもルクレティア付きの侍女やリュウイチの奴隷たちが何事かと驚いてわらわらと集まってきており、そしてやはり同じように泥の巨人に気付いて驚き、立ちすくんでしまっている。

 ルクレティアはハッと我に返り、下にいる者たちに大声を張り上げる。


「こ、これは何事ですか!?」


「おおっ、ルクレティア様ぁー!!」


 泥の巨人の近くにいたリュウイチの奴隷の一人、リウィウスが気づいて手を振る。


「リ、リウィウス!?

 これはいったい何の騒ぎで…なに!?」


 ルクレティアが質問を言い切る前に泥の巨人がズゥン、ズズゥンと足音を響かせながらルクレティアの方を振り向き、ルクレティアは思わず言葉を飲んで後ずさった。


『ルクレティア!こっちにおいで!!』


 リュウイチに言われ、ルクレティアは思わずヨロヨロと壁に手を突きながら歩き出す。気づけば泥の巨人の足元、先ほどまで巨人の陰に隠れて見えなかった位置にリュウイチが立っていた。

 泥の巨人は動きを止めたまま、目も鼻も口もないがおそらく顔にあたるであろう部分をルクレティアの方へ向けている。


「リュ、リュウイチ様、これは一体どうしたんですか!?」


 階段を下りて庭園に直接面する一階回廊ペリスタイルまで出たルクレティアは、泥の巨人を見上げたままリュウイチの方へ歩きつつ声をあげて質問すると、リュウイチより先に興奮したカールが答えた。


「ルクレティア!ゴーレムだよ!ゴーレム!!

 凄い!リュウイチ様が出したんだ!!」

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