第333話 イェルナクの交渉失敗(2)

統一歴九十九年四月三十一日、午後 - セーヘイム迎賓館/アルトリウシア



「貴公が一人でやっているだと!?」


「恥ずかしながら我がハン支援軍アウクシリア・ハンに文字の読み書きができる者は十人とおりません。ましてラテン語やドイツ語を解するものは私一人しかおらんのです。」


 イェルナクはおどけるように笑顔のまま両肩をあげて見せた。そしてイェルナクの言った事は事実だった。ハン族でまともに読み書きのできる人間はわずかばかりの王族男子のみであり、族長のムズクやイェルナク本人を含めても十人といない。そしてラテン語とドイツ語の両方を解するのはイェルナク一人しかいなかった。


「ならば事務処理の出来る人員を貸し出そうか?」


「それには及びません!

 ご心配なく、名簿はもうすぐ出来上がります。

 ああ、紙とインクが無くなりそうなので、それだけ分けていただきたいですな。」


「紙とインク?」


「ええ、何せ我々は本当に着の身着のままで脱出してきたので…」


「それぐらいは構わんだろう。ヘルマンニ卿にでも頼むと良い。」


 何を詰まらんことを…と、呆れるようにアロイスが言うとイェルナクは慇懃いんぎんに礼を言う。


「ありがとうございます。

 では、私をサウマンディウムへ送る船については?」


「それも却下だ。」


「まさか!何故ですか!?」


 これはイェルナクにとって全くの予想外だった。正直言って建築資材の調達はイェルナク自身も無理だと思っていた。アルトリウシアが復旧復興に力を入れていることは承知していたし、それを理由に断ってくるのは明白だった。それでもなお要求したのは、相手にこちらの要求を一度突っぱねさせることで、別の要求を認めさせようという思惑があったからである。

 アルトリウシア平野での捜索活動も建築資材も拒否したのだ、船の手配ぐらいは認めるだろう…すっかりそのつもりでいたイェルナクだったが、まるっきりアテが外れてしまい愕然とする。


「わ、私は軍使レガトゥス・ミリタリスとしてサウマンディウムへ赴くのですよ?

 軍使の通行を阻むことなど…」


 狼狽を隠せないイェルナクにアロイスは半笑いを浮かべながら言った。


「別に阻んではいないだろう?

 貴公がサウマンディウムへ行くのは勝手だ。我々の知ったことではない。

 我々はただ、我々で貴軍に船を用意してやる必要はないと判断しただけだ。」


「それは詭弁ではありませんか!」


「何を言う!?

 貴軍はアルトリウシアから貨物船クナールを七隻も奪っていて、しかもそれを操るのに十分な水兵も捕えているではないか!?」


「ぐっ…か、彼らは…」


「彼らは自分の自由意思で貴軍に協力しているのであろう?」


 アロイスに反論する術をイェルナクは持たなかった。実際のところ、捕えている水兵たちに船を任せてサウマンディウムへ行けばいいだけの話である。それをあえてしないのは、彼らの叛乱を恐れたからだった。


 ある日、水兵たちの監視をしているゴブリン兵が聞いてしまったのである。

 船にハン族の偉いさんが乗っていたら、海の真ん中で船を置いて一斉に逃げよう。ハン族あいつらは外海では満足に船を操れないし泳ぐこともできない。自分たちは奴らを見捨てても事故だったと言い訳できる…ブッカ水兵たちの話を聞いたゴブリン兵は上司に報告し、それはイェルナクらにも伝えられていた。

 ハン族は泳げないし、船を操るのも苦手だ。アルトリウシア湾のような穏やかな内海ならともかく、潮の流れの複雑な外海では櫂を漕いで行ける範囲までしか行けない。陸地が見えなくなれば間違いなく位置を見失い、二度と戻れなくなるだろう。ましてやサウマンディウムへ行く途中で通らねばならないアルビオン海峡は、並の船乗りでも航行の難しい世界有数の海の難所である。途中で泳ぎの達者なブッカ達が船を捨てて逃げ出したら、ハン族は船と共に絶望するしかないのである。

 イェルナクがセーヘイムに船を頼んだのは、捕えた水兵たちが信用できないからに他ならなかった。


 だが、そんなことは口に出して言えることではない。彼らは名目上、自由意思でハン支援軍に協力していることになっているからだ。協力者が反乱を起こすかもしれないなどとは、言えるわけもない。


「まあ、トゥーレスタッドを通るサウマンディウム行きの船に便乗させてもらうか、手紙を預けるくらいはできるのではないか?」


 黙り込んでしまったイェルナクにアロイスが呆れながら言うと、イェルナクは渋々といった感じで「わかりました」と告げた。


「ま、下手に逆恨みなどしないでいただきたいな。

 ヘルマンニ卿とてアルトリウシア再建に向けて全力を尽くしておられるのだ。水兵たちすら、今はおかで働いていて、今は一兵とて外したくないのが現状なのでな。」


 どうやら一仕事終えたと思い、気を緩めたアロイスはそう言いながら香茶を口に運ぶ。最初啜ろうかと思ったが、すでにぬるくなってしまっていたのでそのままゴクリと飲み干す。

 イェルナクはその様子をジッと見ていたが、思い立ったように背を伸ばしアロイスに向き合う姿勢を示す。


「そういえば、例の調査はどうなっておりますか?」


「例の調査とは?」


 唐突に話題が切り替わったことにアロイスは面食らった。


「とぼけないでいただきたい。降臨者に関する調査ですよ。」


 イェルナクは反撃のつもりだったかもしれないが、これは既に想定され事前に対応を用意されていた質問だったので、アロイスは落ち着いた様子のまま答える。


「それは調査中だ。」


「いつまでかかっているのですか!?

 本当に調査しているのですか!?」


「詳細は自分も知らないな。だが、ウァレリウス・サウマンディウスプブリウス伯爵が責任をもって調査を実施しておられる。」


 調査などしていない。しているわけがない。なぜなら降臨者はアルトリウシアで匿われているのだから、調査しているフリをして時間を稼ぐはずだ。都合の悪い事情をつつかれれば困るだろう。ごまかそうとしてボロを出せば、それをネタに侯爵家や子爵家に優位に立てる。

 イェルナクはそういう腹積もりだったが、プブリウスの名が出てきたことでイェルナクは驚いた。


「ウァレリウス・サウマンディウス伯爵が!?

 何故です?アルビオンニア侯爵夫人ではなく!?」


 ディンキジクはサウマンディアもアルビオンニアとグルになっていると主張していたが、イェルナクは信じていなかった。確かに、ハン支援軍にわざと隙を見せて暴発させる陰謀はあったかもしれない。今、振り返ってみればあまりにも蜂起するのに都合のいい条件が整いすぎていた。その後のアルビオンニア側の対応も、事前に準備されていたのではないかと思えるほど早すぎた。

 サウマンディアからの派兵が早すぎたのも確かにそうだが、しかしハン族があの日『バランベル号』から見た《火の精霊ファイア・エレメンタル》と思しき炎とそれを操っているであろう降臨者に、サウマンディアが絡んでいるとは思わなかった。もし、サウマンディアが絡んでいるとすれば、降臨者をアルトリウシアへ運ぶわけがないからだ。

 ハン支援軍を暴発させる陰謀…それと降臨者を隠蔽しているのは別の事情であろう…イェルナクはそう考えていた。であるならば、降臨者について調査しろと要求されて、ウァレリウス・サウマンディウス伯爵に馬鹿正直に通報するとは考えにくい。


「今回のメルクリウス捕縛作戦の総責任者はウァレリウス・サウマンディウス伯爵なのだから、伯爵が指揮をとるのは当然だろう?

 第一、貴公の言い分では、侯爵夫人マルキオニッサはメルクリウス団と結託してレーマ帝国に謀反を企てている容疑者ではなかったのか?」


「ぐっ!?」


 エルネスティーネとルキウスが謀反を企てている…その報告は帝都レーマへ派遣したアーディンに託したものだ。アーディンにはアルビオンニアに謀反の疑惑があるという報告を、サウマンディア貴族と皇帝インペラトル元老院議員セナートルたちに告げるように指示してある。そして、イェルナクはあえてこちらではアルトリウシア側の誰にもそのことを告げていない。にもかかわらずアロイスの口からそれが出たということは、アルトリウシアにいる連中はサウマンディアから知らされているということだ。


 これは…いよいよディンキジクの予想が現実味を帯びてきたという事か!?


 イェルナクは香茶の残りを一気に飲み干した。


「ウァレリウス・サウマンディウス伯爵が調査に当たっておられるというのであれば、我々ハン支援軍としてはそれを信じて待つほかありませんな。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る