第332話 イェルナクの交渉失敗(1)

統一歴九十九年四月三十一日、午後 - セーヘイム迎賓館/アルトリウシア



「今、何と!!」


 到底信じられぬ…イェルナクはそう言いたげであった。


「うむ?

 アルトリウシア平野での貴軍の捜索活動は許可できないと言ったのだが?」


 エルネスティーネの実弟でありアルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニア軍団長レガトゥス・レギオニスアロイス・キュッテルはすました表情のまま繰り返し告げた。

 今日の午前、ティトゥス要塞カストルム・ティティで緊急で開かれた会議でなされた決定は、いずれもイェルナクの提示した要求に対して否定的な回答ばかりであった。そしてその決定をイェルナクに伝える役を引き受けたのがアロイスだった。

 イェルナクが軍使レガトゥス・ミリタリスである以上、それに直接相対する実務者は軍人が務めるのが慣例である。そして、イェルナクと同格以上の軍人の中で一番暇なのは自分だ…そう考えたアロイスが自らその役を買って出たのだった。


 実際のところ、アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの軍人たちは自分たちの業務で手一杯だったし、サウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの軍人が出てくるのは筋違いだ。そしてアロイスの率いるアルビオンニア軍団はまだ少数の先遣隊しか到着していない上に、その先遣隊は現場指揮官の下でアイゼンファウストで作業に就ている。アロイスは今のところする事が…より正確にはしなければならない事が…無いのだ。


「お待ちください、キュッテルアロイス閣下。

 ダイアウルフが五頭、アルトリウシア平野に居るのですよ?

 それが…それが万が一セヴェリ川を越えてアルトリウシアに入れば領民たちはどうなるのですか!?」


 おそらく遠吠えを聞かれたという騎兵隊長ドナートからの報告を受けたイェルナクはこれを逆手にとった妙案を思いついた。ダイアウルフが逃げた…そう告げれば、聞かれた遠吠えは逃げたダイアウルフのものであり、ハン支援軍アウクシリア・ハンが無断でアルトリウシア平野で活動していたわけではないという説明をすることができる。そして、それらを捜索する許可を貰えたなら、ハン支援軍は「逃亡したダイアウルフの捜索」を名目にして、アルトリウシア平野で大っぴらに活動することが出来る。アルトリウシア平野からアルトリウシアを偵察することもできるし、アルトリウシア平野で狩猟をさせることで食料や毛皮などを収穫することも可能となる。

 アルトリウシア平野はどうせ無人の原野なのだ。まして逃げ出したダイアウルフという脅威を突きつけられれば、簡単に許可は下りるに違いない。だが、イェルナクの目論見はいきなり外れてしまった。


「ダイアウルフがセヴェリ川を越えてくることはないだろう。

 我々はセヴェリ川を天然の堀として防御態勢を整えている。」


「い、いったいそれはどのような!?」


 イェルナクは思わず前のめりになって疑問を投げかけた。数マイルにも及ぶ防御正面にダイアウルフが突破できないほど厳重な防衛体制を敷くなど、今のアルトリウシアにできるとは思えない。


「…防衛上の秘密について話すわけにはいかないな。」


 アロイスがフッと笑いながら言うと、イェルナクはわずかに悔し気な様子をにじませながら。前のめりになった状態を元に戻す。


「で、ですがキュッテルアロイス閣下。

 たとえたったの五頭とは言え、放置すれば野生化するでしょうし、アルトリウシア平野で繁殖もしてしまうかもしれません。五頭にはオスもメスも両方いるのですからな。」


「貴軍にとっては、むしろその方が良いのではないか?

 餌代もかからずにダイアウルフが増えてくれるのだろう?」


 表面上は穏やかだが、わずかばかり揶揄からかうようなニュアンスを含ませてアロイスがそう言うと、イェルナクはムキになったように前のめりになった。


「冗談ではありません。

 私はレーマ帝国インペリウム・レーマの一臣民として、同じ帝国の民の安全をおもんぱかって御忠告申し上げているのですよ!?」


「お気持ちはありがたいが、アルトリウシアの防衛はアルトリウシア子爵の領分だ。それにアルトリウシア平野にダイアウルフが居るとしても、それがアルトリウシアに来るとは限らん。」


「ヘルマンニ卿からアイゼンファウストで遠吠えが聞こえたと伺いましたぞ!?

 アイゼンファウストの近くにダイアウルフが来ているという何よりの証拠ではありませんか!」


「その遠吠えは自分も直接聞いたが、聞こえたのはその時の一回だけだった。

 それ以降は聞いていないから、おそらく離れたのだろう。」


「…ま、また来るかもしれません。」


「それに対する備えは既にある。貴公が心配することではない。」


 アロイスはあくまでも落ち着いた調子で食い下がるイェルナクを退けた。イェルナクとしてもこうまで言われてはそれ以上何も言うことは出来ない。


「ぐ…分かりました。

 では、それ以外の回答もお伺いできますかな?」


 イェルナクは身を起こし、姿勢を整えるとテーブルに置かれていた茶碗ポクルムを手に取り、香茶をすする。少し興奮しすぎた…イェルナクは自分が取り乱したていたことを振り返り、自戒する。


「もちろんだ。

 次に、建設資材の提供であったな…これも受け入れることは出来ない。」


「何故です!?」


 少し大きい声を出してしまったが、これはイェルナクもさほど意外とは思っていなかった。むしろ想定の範囲ではあった。想定の範囲内での最悪ではあったが。


「理由は二つだ。一つは、まず建築資材はすべてアルトリウシアの復旧復興に最優先で投じられている。冬までに、焼け出されたすべての住民たちに住居を用意してやる必要があるのだ。

 第二に、エッケ島はアルトリウシア子爵の領分だ。ハン支援軍に勝手に軍事施設を作られるのは困る。」


「我々の下にもアルトリウシア住民がおります。その住民のための住居を用意するために建築資材は必要です。

 それにエッケ島に防御施設を整備するのはアルトリウシアにとってもアルビオンニアにとっても益のあることです。

 どうかご再考いただきたいものですな。」


 イェルナクは背を背もたれに預けるように上体を後ろに下げながら顎を引き、上目遣いでアロイスを見つめる。その顔にはどこか不敵な笑みが浮かんでいた。


「まず、その住民は可及的速やかに解放されるべき者たちだ。その者たちの住居はすでに我々がアルトリウシアに用意している。

 それにエッケ島の防衛施設はアルトリウシアを防衛するために在るべきであって、エッケ島そのものを防衛するために設けられるべきではない。そのようなもの、アヴァロニウス・アルトリウシウス閣下はお求めにならないのだ。

 そもそも、名簿はいつになったらできるのだ!?」


 人質解放の前提として、まず誰が捕えられているかを名簿で知らせるということになっている。名簿を渡せば名簿に記された人物はほぼ無条件で介抱せざるを得なくなるだろう。イェルナクは名簿作成を意図的に遅らせることで人質解放を引き延ばしていた。

 イェルナクは悪びれもせずに愛想笑いを浮かべたまま、お手上げだとでも言わんばかりに両手を広げて見せた。


「名簿についてはもちろん現在作成しておりますとも!

 ただ、私一人でやっておるものですから、なかなか終わりません。私は他にもいろいろやらねばならない身ですから…」

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