第332話 イェルナクの交渉失敗(1)
統一歴九十九年四月三十一日、午後 - セーヘイム迎賓館/アルトリウシア
「今、何と!!」
到底信じられぬ…イェルナクはそう言いたげであった。
「うむ?
アルトリウシア平野での貴軍の捜索活動は許可できないと言ったのだが?」
エルネスティーネの実弟であり
今日の午前、
イェルナクが
実際のところ、
「お待ちください、
ダイアウルフが五頭、アルトリウシア平野に居るのですよ?
それが…それが万が一セヴェリ川を越えてアルトリウシアに入れば領民たちはどうなるのですか!?」
おそらく遠吠えを聞かれたという騎兵隊長ドナートからの報告を受けたイェルナクはこれを逆手にとった妙案を思いついた。ダイアウルフが逃げた…そう告げれば、聞かれた遠吠えは逃げたダイアウルフのものであり、
アルトリウシア平野はどうせ無人の原野なのだ。まして逃げ出したダイアウルフという脅威を突きつけられれば、簡単に許可は下りるに違いない。だが、イェルナクの目論見はいきなり外れてしまった。
「ダイアウルフがセヴェリ川を越えてくることはないだろう。
我々はセヴェリ川を天然の堀として防御態勢を整えている。」
「い、いったいそれはどのような!?」
イェルナクは思わず前のめりになって疑問を投げかけた。数マイルにも及ぶ防御正面にダイアウルフが突破できないほど厳重な防衛体制を敷くなど、今のアルトリウシアにできるとは思えない。
「…防衛上の秘密について話すわけにはいかないな。」
アロイスがフッと笑いながら言うと、イェルナクはわずかに悔し気な様子をにじませながら。前のめりになった状態を元に戻す。
「で、ですが
たとえたったの五頭とは言え、放置すれば野生化するでしょうし、アルトリウシア平野で繁殖もしてしまうかもしれません。五頭にはオスもメスも両方いるのですからな。」
「貴軍にとっては、むしろその方が良いのではないか?
餌代もかからずにダイアウルフが増えてくれるのだろう?」
表面上は穏やかだが、わずかばかり
「冗談ではありません。
私は
「お気持ちはありがたいが、アルトリウシアの防衛はアルトリウシア子爵の領分だ。それにアルトリウシア平野にダイアウルフが居るとしても、それがアルトリウシアに来るとは限らん。」
「ヘルマンニ卿からアイゼンファウストで遠吠えが聞こえたと伺いましたぞ!?
アイゼンファウストの近くにダイアウルフが来ているという何よりの証拠ではありませんか!」
「その遠吠えは自分も直接聞いたが、聞こえたのはその時の一回だけだった。
それ以降は聞いていないから、おそらく離れたのだろう。」
「…ま、また来るかもしれません。」
「それに対する備えは既にある。貴公が心配することではない。」
アロイスはあくまでも落ち着いた調子で食い下がるイェルナクを退けた。イェルナクとしてもこうまで言われてはそれ以上何も言うことは出来ない。
「ぐ…分かりました。
では、それ以外の回答もお伺いできますかな?」
イェルナクは身を起こし、姿勢を整えるとテーブルに置かれていた
「もちろんだ。
次に、建設資材の提供であったな…これも受け入れることは出来ない。」
「何故です!?」
少し大きい声を出してしまったが、これはイェルナクもさほど意外とは思っていなかった。むしろ想定の範囲ではあった。想定の範囲内での最悪ではあったが。
「理由は二つだ。一つは、まず建築資材はすべてアルトリウシアの復旧復興に最優先で投じられている。冬までに、焼け出されたすべての住民たちに住居を用意してやる必要があるのだ。
第二に、エッケ島はアルトリウシア子爵の領分だ。ハン支援軍に勝手に軍事施設を作られるのは困る。」
「我々の下にもアルトリウシア住民がおります。その住民のための住居を用意するために建築資材は必要です。
それにエッケ島に防御施設を整備するのはアルトリウシアにとってもアルビオンニアにとっても益のあることです。
どうかご再考いただきたいものですな。」
イェルナクは背を背もたれに預けるように上体を後ろに下げながら顎を引き、上目遣いでアロイスを見つめる。その顔にはどこか不敵な笑みが浮かんでいた。
「まず、その住民は可及的速やかに解放されるべき者たちだ。その者たちの住居はすでに我々がアルトリウシアに用意している。
それにエッケ島の防衛施設はアルトリウシアを防衛するために在るべきであって、エッケ島そのものを防衛するために設けられるべきではない。そのようなもの、アヴァロニウス・アルトリウシウス閣下はお求めにならないのだ。
そもそも、名簿はいつになったらできるのだ!?」
人質解放の前提として、まず誰が捕えられているかを名簿で知らせるということになっている。名簿を渡せば名簿に記された人物はほぼ無条件で介抱せざるを得なくなるだろう。イェルナクは名簿作成を意図的に遅らせることで人質解放を引き延ばしていた。
イェルナクは悪びれもせずに愛想笑いを浮かべたまま、お手上げだとでも言わんばかりに両手を広げて見せた。
「名簿についてはもちろん現在作成しておりますとも!
ただ、私一人でやっておるものですから、なかなか終わりません。私は他にもいろいろやらねばならない身ですから…」
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