第331話 祭儀の代行者

統一歴九十九年四月三十一日、昼 - ティトゥス要塞ルクレティウス邸/アルトリウシア



 午前中の会議を終えたアルビオンニア侯爵夫人エルネスティーネ・フォン・アルビオンニアとアルトリウシア子爵ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウスは連れ立ってルクレティウス・スパルタカシウスのもとへ赴いた。

 半身の利かないルクレティウスはベッドの上で山のように積まれたクッションに背中を預けることで上体を起こし、寝室クビクルムへ案内されてきたエルネスティーネたちを迎える。


 開け放たれた窓の向こうでは相変わらず雨が降り続き、庭園ペリスティリウムの向こう側の壁をわずかに滲ませている。天気は悪いが寒くはない。アルトリウシアの雨は暖気を伴うことが多く、雨が降る日は晴れた日よりも暖かいからだ。季節のわりに暖かい風は過度な湿気とあいまって、今朝まで寒かったからと下手に服を着こんでいたりすると、ジットリと汗ばんできそうな独特な空気を作り出す。

 今日は暖かいが雨が降り続くだろうと予想した神官らの配慮から、朝から薄着で過ごしていたルクレティウスには眠気を誘うほど心地よく感じられるが、吹く風が運んでくる雨の臭いは未だ強い。多分、今日の雨はまだまだ降り続くだろう。


「さて、多忙を極めるはずのお二人がこのような時間に参られたのだ、何か重要な案件でも持ち上がりましたかな?」


 一通りの挨拶を交わし、ルクレティウスのベッドの脇に腰かけた二人の領主に神官たちが淹れたての香茶と茶菓子を差し出したところで、ルクレティウスは切り出した。

 ルクレティウスは今のような自由の利かない身体になって以来、事実上引退したような状態になっている。神官としての仕事は留学先のレーマから神学校を中退して戻ってきた娘のルクレティアがほとんど引き継いでいて、その他の雑務も周りの下級神官や従者たちがやってくれている。

 領主が神官に用があるとすれば娘のルクレティアを訪れるはずだが、ルクレティウスを訪ねてきたということは何か特殊な事情が持ち上がったという事だろう。


「ええ、そうです。ご息女ルクレティアの事で…」


 エルネスティーネが少し深刻そうに切り出すと、ルクレティウスもさすがに心がざわめくのを抑えきれない。


「ルクレティアがどうかしましたか?」


 香茶が湯気を立て続けている茶碗ポクルムを無意識にギュッと握りしめ、不安な表情でエルネスティーネに視線を向ける。ルクレティウスのその様子に、ルキウスはオホンと咳ばらいをした。


「エルネスティーネ、私が話すよ。

 いや、別にご息女ルクレティアに何かあったというわけではないのです。」


 ルキウスがルクレティウスを落ち着かせるように穏やかな口調でそう言うと、ルクレティアはルキウスの顔を見開いた目で見ながら香茶を一口すすった。


ご息女ルクレティアは今のところ何も問題はないよ。ただ、次のケレース神殿のご息女ルクレティア以外にしていただけないかと御相談したいのですよ。」


 ルキウスは少しためらいがちにそう言うと、ルクレティウスはスゥーっとため息を吐くように長く息を吐いた。


「なるほど、そういうことですか…」


「ええ、そうなのです。」


 ルクレティウスは考え込むように脇に視線を逸らすと再び香茶を啜る。それを見てエルネスティーネとルキウスも同時に香茶を啜った。

 香茶は《レアル》から持ち込まれたモノではなく、この世界ヴァーチャリアの固有種の植物の葉から作られたものだ。味は癖になるような渋みがあって甘味のようなものはほとんどなく、味だけで言えばさほど美味いというようなものでもないのだが、その香りには緊張をほぐして精神を安定させる効果があると言われている。このため、緊張を強いられることの多い貴族ノビリタス、官僚、神官、商人といった人たちの間で好まれている。


ルクレティアをアルビオンニウムへ行かせたくない…ということは、それだけ巫女サセルダとして忙しいと、そういうことですかな?」


 ルクレティウスにとって娘のルクレティアの事は何よりも気にかけていることだった。その様子はルクレティアやルクレティア付きの侍女たちからの手紙で、一応毎日のように知らされてはいるのであらかた知っている。

 ルクレティウスが知る限り問題は何も起きてはいない。そして、来月のも、ルクレティアがそのまま行うことになっていたはずであり、それはルクレティア本人からの手紙でもそうなっていた。

 だが、手紙には書きたくても書けないこともあるものだ。ルクレティウスだってそれくらいは知っている。マニウス要塞カストルム・マニまでは馬車で半日とかからない距離だが、寝室から出ることさえままならないルクレティウスにとっては遠い地平の果てにも等しい。こうして領主が二人連れ立って相談に来たということは、それなりに深刻な案件が浮上したか、緊急を要する事情が生じたということなのだろう。


「そのように解釈していただいて結構。かなうものならば、今以上に巫女として…いや、聖女サクラとして忙しくなっていただきたいくらいなのです。」


 ルクレティウスはルキウスの顔を見た。ルクレティウスのその表情には何の感情も浮かんでいないように見える。ルクレティウスは手の中の茶碗に視線を落として話始める。


アレルクレティアからは毎日のように手紙を貰っています。

 どうもアレルクレティアは、降臨者様との距離を縮めることに焦っておるようですな。アルビオンニウムへ行かずに済むというのであれば、喜ぶことでしょう。ですが・・・」


 そこまで話すと再び香茶を口元に運び、目線だけをルキウスに向けた。


「それでもアルビオンニウムへ行くと決まっていた。本人もそれを承知しておりました。なのに急にルクレティアをアルビオンニウムへ行かせたくないという…何かあったというのなら、教えていただきたいものですな。」


 ルクレティウスはそう言って香茶を啜り、茶碗を降ろした。顔はまっすぐルキウスに向けられている。


「ご息女に問題が生じたわけではない。それは本当ですスパルタカシウスルクレティウス卿。

 ただ、我々の方に懸念があるのです。」


「懸念とは?」


降臨者リュウイチ様が、どうもお出かけになりたがっておられるようなのです。」


 ルキウスとルクレティウスは束の間、無言のまま見つめあい、そしてエルネスティーネを含めた三人同時にため息を漏らす。そして三人同時に香茶を啜った。


「つまり、アレルクレティアに降臨者様を抑えさせようというわけですか?」


 ルクレティウスが片側の口角をわずかに吊り上げて半分笑う様に言うと、ルキウスは首肯した。


「言ってしまえばそういう事です。」


降臨者リュウイチ様は慈悲深く、そして寛容なお方です。

 こうして私共の事情をかんがみ、あの狭い陣営本部プラエトーリウムに自ら閉じこもってくださっています。ですが、どれだけ慈悲深く寛容なお方であろうとも、さすがに半月以上も一所ひとところに閉じこもっておられては気も滅入りましょう。」


「実際、不覚にも降臨者リュウイチ様を一人きりにしてしまったあの夜、降臨者リュウイチ様は誰にも気づかれることなく陣営本部を抜け出された。」


 そしてリュキスカをさらって来てしまった…というくだりを、ルキウスはあえて省略した。ルクレティウスの方も、「それなら今回はリュキスカが居るから大丈夫だろう」とは言わなかった。もしそれを言ってルクレティアがアルビオンニウムへ赴くことになるとしたら、それはルクレティアにとって望ましくない結果しかもたらさないであろう事は考えるまでもない。ライバルリュキスカにわざわざ得点をくれてやるようなものだ。


「なるほど、わかりました。アレルクレティアに何かあったわけではないということは。」


 ルクレティウスがそう言うと、エルネスティーネとルキウスはホッと胸をなでおろした。しかし、そうなると問題が一つ、別の問題が浮かび上がってくる。エルネスティーネは早速その問題を切り出した。


「では、ルクレティアの代わりの人選を決めねばなりません。

 今、アルビオンニウムにはサウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの部隊が駐留しておりますので、派遣する神官にこちら側の護衛を付けないわけにはいきませんから、早めに日程などの調整をしなければなりません。」


 アルビオンニウムは一昨年放棄されて以来、誰ひとり住んでいない無人の廃墟となっている。だが、今回の降臨を受け、降臨跡の長さのためにサウマンディアから神官と護衛のサウマンディア軍団の部隊とが駐留していた。

 この異なる属州からの神官と部隊の派遣は越境行為であり、本来ならあり得ないことではあった。だが、今回はメルクリウス捕縛作戦の事前の取り決められていた緊急対応に位置付けられていたため、アルビオンニア側からの代表権を与えられていたアルトリウスの承諾を得たことで法的問題は生じていない。

 ただ、それはそれとして異なる属州の軍と接する事となれば、それなりの外交儀礼等果たさねばならない面倒も生じてくる。


「人選なら既に決まっております。」


 茶碗を見つめながらルクレティウスは左右の眉毛をヒョイと持ち上げて言った。


「おお、それは話が早くて助かります、スパルタカシウスルクレティウス卿」


「どなたがアルビオンニウムへ参られるのですか?」


 ルキウスとエルネスティーネが喜色ばんで問いかけるとルクレティウスは二人に顔を向けて朗らかに告げた。


「私ですよ。」

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