第330話 脅威の評価

統一歴九十九年四月三十一日、午前 - ティトゥス要塞司令部/アルトリウシア



 未明から降り始めた雨は最初こそ霧雨のような弱い雨だったが夜明けとともに次第に強まり始め、今はサァーっと静かではあるが途切れない雨音を響かせる程度の勢いにまでなっていた。厚く垂れこめた雲は鉛のようなくすんだ灰色で空を塗りつぶし、そこから降り注ぐ雨は窓から望む西山地ヴェストリヒバーグの山なみをぼやけた青い影の塊に変貌させている。

 道行く人々は頭に何か被って雨を凌いでいるが、通行人の数は減っていない。雨が降るのが当たり前なアルトリウシアでは、雨をイチイチいとうていては生活などできなくなってしまう。だから、あきらかなにわか雨なら雨宿りしたり雨が止むまで待ったりもするが、そうではないなら多少の雨は無視するのが当たり前になっていた。


 その静かに振り続ける雨の中、マニウス要塞カストルム・マニから軍団レギオーの関係者らが続々とティトゥス要塞カストルム・ティティに集結しつつあった。要塞正門ポルタ・プラエトーリアを潜って中央通りウィア・プラエトーリアに列をなす高級軍人たちの馬車と護衛兵の物々しい様子に、ティトゥス要塞に収容されている避難民たちはそこはかとない不安を感じながら静かに見守っていた。

 司令部プリンキピア前で馬車から降りた軍人たちは、濡れた外套サガムもそのままに続々と中へ入っていく。その表情はいずれも明るさとは無関係なモノばかりであった。彼らは本日参集を命じられた理由を昨夜のうちに全員が知らされている。昨日、エッケ島からセーヘイムを訪れたイェルナクの件だ。


「・・・・・昨日、イェルナクがヘルマンニ卿に伝えてきたのは以上です。

 私共はイェルナクに返事を用意せねばなりません。

 一つは、アルトリウシア平野へ逃げたとされる五頭のダイアウルフ捜索の許可をハン支援軍アウクシリア・ハンに与えるや否や。

 二つ目には、エッケ島への建築資材の提供を認めるや否や。

 三つ目には、イェルナクがサウマンディウムへ行くための船を提供するや否や。

 以上の三つでございます。」


 今回の会議の議事進行役を務める侯爵家筆頭家令ルーベルト・アンブロスが昨日来の状況説明を終えると一礼して席に着いた。


「ありがとう、アンブロス。

 昨今、アイゼンファウストを騒がせているダイアウルフがエッケ島から逃げ出したもののようです。既にアイゼンファウスト砦アイゼンファウスト・ブルグの建設等の対応が始まっていると伺っておりますが、戦事いくさごとうとい私では状況認識や対応に変更が必要かどうかすらわかりません。

 早速、アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの御意見を伺ってもよろしいかしら?」


 ルーベルトの説明に礼を言ってから、エルネスティーネは切り出した。

 エルネスティーネが言った通り、逃亡したはずのハン支援軍がエッケ島にいることが判明して以来、アルトリウシア平野からのハン騎兵の奇襲を想定してアイゼンファウストに砦の建設が始まっている。そして、ダイアウルフのものと思しき遠吠えが聞こえてからは、捕獲していたダイアウルフを動員してこちら側から遠吠えさせることで、アルトリウシア平野のアイゼンファウストに近い場所にダイアウルフが潜んでないかどうか確認する作業も行っていた。そして、今のところこちら側からの遠吠えに対する反応は無く、現時点ではアルトリウシア平野のアイゼンファウスト近辺にダイアウルフはいないものと判断されている。

 エルネスティーネの認識としては、少なくともアイゼンファウストの近くにダイアウルフが居ないのであれば、ハン支援軍にダイアウルフの捜索を認めなくても良いのではないかと考えられた。もし、ハン支援軍に捜索の許可を与えれば、彼らは大っぴらにアルトリウシア平野で行動する自由を得ることになる。それはあまり望ましい結果はもたらさないように思えた。

 ハン支援軍は討つべき叛乱軍であるという認識は今も変わらない。それを放置しているのはあくまでも現状では積極的に討伐できないからだ。その最大の理由はもちろん《暗黒騎士リュウイチ》の存在である。


「アルトリウシア軍団としての統一見解を述べさせていただきます。」


 筆頭幕僚トリブヌス・ラティクラウィウスのラーウス・ガローニウス・コルウスが起立して答え始めた。


「まず、現状で我々にアルトリウシア平野にいると思われるダイアウルフを捜索し、これを狩るなり捕獲するなりする余裕はありません。

 アルトリウシア平野は湿地で足跡を追跡することが困難です。また、視界の利かないあのような地で、ダイアウルフのような敵と少人数で戦うのは非常に困難です。おそらく、我々の側が狩られる側となるでしょう。

 確実に狩り出すには、かつてアーカヂ平野でハン族を平定した時のように、大軍勢でもって広大な戦線を構築しながら追い上げていくしかありません。が、広大すぎるアルトリウシア平野でそれを行うには、兵力が絶対的に不足します。」


 ラーウスの説明はダイアウルフの遠吠えが聞こえた件での対応の説明を受けた際に聞かされていた内容のそのままだった。積極的に狩ることはできない。そして、アイゼンファウストのアルトリウシア平野に接する面は広すぎて、全線に防御柵等を設置することも兵力を配置することもできない。


「では、現状認識に変更はないと考えてよろしいのでしょうか?」


 少し丁寧すぎるラーウスの説明にわずかな苛立ちを覚えながら、エルネスティーネは結論を急いだ。現状認識を変更する必要が無いのであれば、ハン支援軍に対してダイアウルフ捜索の許可を与えなくて済む。

 だが、ラーウスは首を縦には振らなかった。


「アルトリウシア平野に居るとされるダイアウルフが、ハン騎兵であれば状況認識に変更を加える必要はないと考えます。ですが、実際にはハン騎兵ではなく、逃亡したダイアウルフです。

 人の手を離れたダイアウルフは行動が予想できないという点において、ハン騎兵よりも危険な存在であると判断しております。」


「それは、アイゼンファウストが被害を受ける危険性が高まっているということですか?」


 眉をひそめるエルネスティーネに対し、ラーウスは今度は首肯した。


ハン族とは言え騎兵は強力です。騎兵という純粋な兵力として評価した場合、同数ならば我々の騎兵よりも強いでしょう。ですが、騎兵である以上は軍事的合理性に基づいて状況を判断し、行動することが期待できます。ですから、その行動はある程度予測が可能と考えます。

 しかし、逃亡したダイアウルフは違います。ハン騎兵のように鉄砲や爆弾は使いませんが、騎手がいなくなった分だけ身軽になっているのも事実です。アルトリウシア平野の藪の中では、より自由に行動できるようになっているでしょう。そして、その行動原理に軍事的合理性は期待できません。獣ですから…その行動を予測することは困難だと考えます。」


「つまり、ハン騎兵ならば理性を働かせてアイゼンファウストに攻撃をしかけてはこないような状況でも、逃亡したダイアウルフの場合はその限りではないということだな?」


 言葉を失っているエルネスティーネに代わってルキウスが質問すると、ラーウスは「その通りです閣下」と肯定した。


「現状、ハン支援軍にアイゼンファウストを攻撃する理由も兵力もありません。ですから、ハン騎兵が実際に攻撃をしかけてくる可能性は極めて低いでしょう。

 脅威が無いわけではありませんが、現在建設中の砦も実効的な防衛というよりは、民心を安心させるための示威行為としてのものです。」


「そんな合理性が奴らにあるのですか!?

 奴らは叛乱を起こす理由も兵力もないのに叛乱を起こしたではありませんか!」


 ラーウスの自信に満ちた説明に対し、子爵家の法務官アグリッパ・アルビニウス・キンナが噛みつくように指摘する。彼はアルトリウシアでハン族ゴブリン達が引き起こす面倒事に悩まされ続けてきただけあって、ハン族に対しておおよそ良い印象というものを持ち合わせていなかった。

 これにはラーウスも困ったという風に苦笑いを浮かべる。


「ご指摘はごもっともですが、あの叛乱の時の行動自体は軍事的合理性に基づいていたと考えられます。叛乱自体は常軌じょうきいっしておりましたが、組織としての統率は保たれていました。

 全く合理性が無いということはないでしょう。」


 アグリッパは詰まらなそうに鼻をフンと鳴らす。彼も理性ではわかっているのだ。ただ、ハン族相手に強気に出ることの出来ない状況が面白くなくて、力で解決してくれない軍団レギオーに対して不満を抱いているのだった。

 しかし、他の軍人以外の者たちは別の意味で不満を抱き始めてもいた。現状認識は変えるべきであることは示されたが、ではどうすべきかという対応についてはまだ示されないままだからである。


「では、どうすべきでしょうか?

 浅慮なエルネスティーネには彼らに行動の自由を与えるのが得策であるとは思えませんが。」


「我々も彼らにアルトリウシア平野での行動の自由を認めるのは得策とは考えません。ダイアウルフが逃亡したという事そのものがウソで、逃亡したダイアウルフを捜索するという名目でアルトリウシア平野での行動の自由を得たいだけである可能性もあります。」


「イェルナクがウソをついているというのですか!?」


 その可能性に気付いていなかったエルネスティーネは思わず身を乗り出して驚きの声を上げた。考えるまでもなく、想定して当たり前の可能性である。ただ、この話を最初に伝えてきたヘルマンニから手紙の文面から、すでにダイアウルフが逃亡したことが確定している事であるかのように思い込んでしまっていたのだ。


「正直申し上げて、逃亡したダイアウルフの脅威をどの程度見積もるべきかは軍団でも計りかねております。

 純粋に戦力としてはどの程度とは見積もれても、人の手を離れたダイアウルフがアイゼンファウストに接近しようとするかどうかは見積もりようがありません。

 ですが、現状では何らかの偽装工作である可能性が高いと考えています。なぜなら、彼らがアルビオンニアへ派遣されて以来、ダイアウルフが逃亡したことなど一度もありませんでしたから。」


 言われてみればそうだ。エルネスティーネをはじめ家臣団たちは拍子抜けしたかのように脱力する。


「では、アルトリウシア平野での行動を認める必要は?」


 エルネスティーネの問いに対してラーウスは、今度は端的にかつ明確に答えた。


「無いと考えます。」

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