第318話 魔女の店

統一歴九十九年四月二十九日、夕 - ティトゥス要塞城下町/アルトリウシア



 ティトゥス要塞城下町カナバエ・カストルム・ティティはレーマ帝国がこの地に進出してきて最初に建設された市街地であり、セーヘイムに次いで古い。

 元々、ティトゥス要塞カストルム・ティティの南東から北西にかけての南側は要塞カストルムの防御正面である。本来ならばその方向へは要塞の防御火砲が並べられ、火砲の射界しゃかいさえぎるようなものは、建物はおろか樹木の一本さえも撤去されねばならない場所だった。

 にもかかわらず現状のように要塞のほぼ全周に城下町カナバエが無秩序に広がっているのは、この地へのレーマ帝国の進出が本格化すると同時にセーヘイムがレーマに恭順し、マニウス要塞カストルム・マニが建造されたことによってティトゥス要塞が軍事施設としての役割を終えたからであった。


 マニウス要塞が竣工して以来、長くティトゥス要塞はティトゥス街道を通る陸上交易ルートの中継基地スタティオとしてのみ使われ、城下町も急速に廃れていた。しかし、一昨年アルビオンニウムが火山災害に見舞われると、残されていた空き家に避難民が収容され、急速に人口を増やしていく。そしてアルビオンニア侯爵家とアルトリウシア子爵家が放棄されていたティトゥス要塞に入城し、領主屋敷ドムス・ドミノールムとして使うようになると周辺に貴族ノビリタスや商家などもこぞって集まり、急速な発展を遂げていた。


 要塞正門ポルタ・プラエトーリアのある西側の街並みが最も古いが、ティトゥス街道に面しているだけあって大きな商家が並んでおり、店舗がつぶれて空き家になってもすぐに次のテナントが入るため、建物が古いにもかかわらず最も栄えている。次いで要塞の南と北にある要塞裏門ポルタ・デクマーナの近くは下級貴族ノビレスや要塞で働く者たちの住居が集中しており、そうした者たちを相手に商売する店舗も集まっているためそこそこ栄えている。そして、それらの間にある要塞の南東や北東は栄えた要塞正門周辺や要塞裏門周辺の両方にほど近く便利であるため、退役軍人たちの住居と大店の商家の倉庫などが集まっている。人が密集して住んでいる割に閑静な住宅街といった感じだ。それらに対して要塞南西方面はかなり寂れた貧民街と化している。


 建物は古いわけではないが粗末な建物が多く、敷かれた道路も狭く無秩序に入り組んでいて、他の地区と違って舗装さえされていない。元々都市計画から外れた何もない荒地だった場所で、道路が敷かれるより先に個々人が勝手に建物を建てていった結果だった。

 建物を建てたのはアルビオンニウムからの避難民の住宅需要に付け込んで一儲けしようという悪徳業者たちだったが、ただでさえ粗悪な建物ばかりなうえに繁華街から離れて便利が悪く、西風が強く吹き付ける地域でもあるため、富裕層には全く人気が出なかった。結局入居希望者は貧乏人ばかりという有様で造った業者たちもあまり儲からなかったという話である。

 実際、つい最近まで空き家だらけで、浮浪者が勝手に住み着いてしまった住宅さえあった。


 転機が訪れたのは四月十日…ハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱だった。アンブースティア地区とアイゼンファウスト地区、そして海軍基地城下町カナバエ・カストルム・ナヴァリアを焼き払って逃亡したハン支援軍の蛮行によって、数万人もの住民たちが家を失ったのである。住宅需要がにわかに高まり、侯爵家が空き家を一括して買い取ったり借り上げたりして焼け出された避難民に貸し与えたことで、一気に空き家がなくなってしまったのだった。

 一挙に人口が爆発的に増加しはしたが、入居した住民の大部分は生活基盤を失った者たちである。市街地としての活気が良くなったかと言われればいなと答えざるを得ないだろう。街の雰囲気は総じて暗く、ティトゥス要塞城下町の暗部とでも呼ぶべき地域である点は変わりがなかった。


 貧民街を乱麻のように這う狭い路地は、建物の作り出した谷底にあって昼間であっても薄暗い。夕闇迫るこの時間帯は見上げる空は未だ明るいにもかかわらず、一足先に夜の支配する世界となっていた。

 無舗装の地面には隣接する建物の窓から投げ捨てられた汚物まじりの汚泥でぬかるみ、息を吸うだけで胃の腑がこみあげてくるほどの悪臭を放っている。ほんの半月ほど前までは空き家こそ多かったが、衛生環境はここまでひどくなかった。ハン族が焼き払った土地からもっとも離れたこの土地に、復旧復興事業の負の影響がもっとも強く及んでいる。

 その悪臭に満たされた暗い路地を人影が一つ、明確な意思を持った迷いのない足取りで進んでいく。そして一軒の家の入口の前で立ち止まり、周囲を見回して自分以外に人影の無いことを確認すると、おもむろに中へ入っていった。


「おや、いらっしゃい。こんな時間にお客さんかえ?」


 家の奥から老婆の声が響く。

 街全体に漂う外の悪臭をごまかすために焚かれた香草の強烈な臭いのたちこめた室内を照らすのはたった一つのランプのみ。風よけの薄絹越しに燃える炎は微かに黒煙を上げながら、戸も窓も締め切られた暗闇を頼りげない光で照らしている。

 老婆はランプの側に置かれた小枝を掴むと、ランプに突っ込んで小枝の先に火を灯し、近くにあった他のランプに火を移していく。油代の節約のため、普段はランプ一つだけを灯し、客が来た時だけ複数のランプを使うのだ。


「そう、お客さんよアグネス。」


 店を訪れた女は被っていたフードを取り、わずかに怒気を孕んだ声で告げる。

 明るさを増した部屋の中の壁は棚で埋められ、金属製の瓶やら陶器テラコッタの壺やら木の箱やら革の袋やらが所狭しと並んでいる。ほかにも木の箱やかめやらが床に置かれ、天井からは乾燥させたハーブを束ねたモノやトカゲや蛇や小動物の干物なんかが吊るされている。

 ここは看板こそ出していないが様々な薬を売る店だった。アグネスという老婆が一人で営んでいる。


「誰かと思えば、マクダレーネ尼シュヴェスター・マクダレーネじゃありませんか。

 これはようこそ。」


 アグネスは元々アイゼンファウストで薬屋を営んでいたのだが、ハン支援軍の叛乱で焼け出されてマニウス要塞に避難していた。その後、マニウス要塞から半ば強制的にティトゥス要塞へ移されてしまった。

 アイゼンファウストにあった店は辛うじて焼け残ってはいたが、建物の店舗スペース以外の部分は焼けてしまったため取り壊されることが決まり、店の再開の見通しは絶望的となった。苦悩するアグネスの事情を避難民への支援をしていた教会関係者が知り、教会からの口利きで今の店を持つことができたのは、彼女がティトゥス要塞に移って三日後のことだった。

 今、店を訪れてきたマクダレーネはその時彼女の世話を焼いてくれた修道女である。


「アグネス、どういうこと?

 あの薬、効いてないみたいよ!?」


 マクダレーネが詰め寄ると、アグネスは驚いたようだった。


「この間渡したエルゴットがですか?」


「そうよ!ピンピンしてたわよ!?」


 アグネスが怪訝な表情でマクダレーネを見返した。アグネスには経験に裏打ちされた自信があり、マクダレーネの言い分は難癖のようにしか思えなかったのだ。だが、マクダレーネの表情からウソのニオイは感じられない。


「そんな、アレを口にして平気でいられるわけは…」


「実際に効いてないんだから仕方ないじゃない。

 アルビオンニアいち魔女ヘクサって触れ込みはウソだったの!?」


「そんなものアタシャ一度だって名乗った憶えはありませんよ。

 人が勝手に言ってただけでしょう?

 他人の口にまでアタシャ責任持てませんねぇ。」


 アグネスは呆れた様子で言った。実際、アグネスはアルビオンニウムにいた時から魔女と呼ばれる評判の薬師だった。当然、本人も言っているように自分で広めた評判ではない。二つ名とかあだ名なんていうものは他人が勝手につけるモノであり、自分で名乗るようなものではないのだ。


「お前を信じたから高い金を払ったのに、どうしてくれるの!?」


 それでもブツクサ言うマクダレーネに、アグネスは呆れも隠さず首を振りながら言った。


「しかしねマクダレーネ尼。アタシもあのエルゴットをこの間も使ったばかりでね。アタシが使った時にはちゃんと効きましたよ。」


 これにはマクダレーネの方が驚いた。


「アレを使ったですって?!」


「ええ、使でね。」


 アグネスは薬屋稼業の他に産婆としても働いている。エルゴットは陣痛促進剤であり、同時に血管を収縮させて出産後の出血を抑制する効果もあるため、出産時には欠かせない薬である。


「おおかた、仕込んだものがバレて使われなかったとかじゃないですかね?」


「ちゃんと、薄めて仕込んだわよ!

 臭わないくらいにね。」


 口を尖らせて文句を言うマクダレーネにアグネスは揶揄からかう様に小さく笑った。


「ヒトの鼻には臭わなくても、ヒト以外の人間には臭ったんじゃないですかね?

 ホブゴブリンやブッカは、ヒトよりも鼻が利きますからねぇ。」


「バレたというの?

 でも、何の反応もなかったわ。気づいてもいないようだった。」


「エルゴットには気づいても、毒を仕込まれたとは思わなかったのかもしれませんねぇ。何かの事故でまぎれ込んだだけだと…麦に仕込んだのでしょう?」


「ええそうよ。麦なら、混ざってても大丈夫だって、疑われないって聞いたから…本当なんでしょうね?」


「エルゴットは麦から獲れますからね。混ざってたからって毒を仕込まれたと疑われやしませんよ。」


 エルゴットの原材料は麦角菌ばっかくきんに侵された麦だ。麦に混ざっていたところで、事故で混ざったものとしか思われない。


「食べたのは確実よ。食べさせたって言ってたもの。

 量が足らなかったのかしら?」


 仕込みはしたが実際に食べるところは確認していない。アグネスは考え込むマクダレーネの独り言からそのことに確信を持った。


「量を増やせば臭いでバレますよ。

 それに幻覚を見せたいなら少量でも十分、なんならこういうランプの火にくべるだけでも、暖炉やストーブの近くにおいて蒸し焼きにするだけでも、その蒸気を吸った者は幻覚を見るでしょう。」


「・・・・・」


 アグネスに向けられたマクダレーネの目には疑いの色が宿っている。


「お疑いでしたら試しに使ってみるがいいでしょうよ。

 あれだけの量だ、まだ使い切っていないのでしょう?」


「火に…くべればいいの?」


「直接燃やさずに蒸し焼きにするのがいいでしょうねぇ。

 ストーブの上や、たとえば傘のついたランプの上に少し乗せとくとか…」


「わかったわ…試してみる。」


 マクダレーネの納得した様子にアグネスは胸をなでおろし、忠告した。


「アナタ様が悪魔憑きに仕立て上げて陥れようとしているとやらがどなたか存じませんが、既にバレているのならご用心なさい。

 わざと気づかないふりをして、アナタ様をあぶりだそうとしてるのかもしれませんよ?」

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