第307話 調査依頼

統一歴九十九年四月二十八日、昼 - 《陶片テスタチェウス》リクハルド邸/アルトリウシア



 昨日に比べだいぶ薄い雲に空を覆われたアルトリウシアは、目に映る景色こそ明るかったが、穏やかに降り注ぐ陽の光の暖かさに反して初冬を思わせるような冷え込みに支配されていた。晴れている方がむしろ気温が低く、曇っている日の方が暖かいのはアルトリウシアの気候の特徴である。

 理由はアルトリウシアの西に広がる大南洋オケアヌム・メリディアヌムにある。赤道付近から南下してくる暖流はアルトリウシアよりやや南のアルトリウシア平野の沖合ぐらいで南から北上してくる寒流とぶつかる。この暖流の上を吹いてくる西風が、アルトリウシアの大地に緯度のわりに暖かい空気と豊富すぎる雨雲をもたらすのだ。西風と暖流が強まればアルトリウシアにそれだけ暖かく湿った空気が流れ込み、気温は上がるが同時に雲も増えてしまう。逆に西風や暖流が弱まれば雲が減って晴れる代わりに、アルトリウシアの高い緯度にふさわしい寒さがもたらされるのだ。今日は南寄りの冷たい風が吹いており、雲が少ない代わりにアルトリウシアに寒気をもたらしていた。


「いやはや、昨日と打って変わって冷え込みますな。」


 アルビオンニア侯爵家の御用商人グスタフ・キュッテルはぐずつく鼻を噛むべきか我慢すべきか迷いながら身体をぶるっと震わせて言った。


「それでも、ライムントよりゃああったけぇんじゃねぇんですかい?」


 ライムントとはもともとアルビオンニウムからズィルパーミナブルクまでアルビオンニア属州の中央を南北に縦断する街道の名前であるが、いつしかライムント街道沿いの地域全体を指すようにもなっていた。ライムント地域は東西を山岳に挟まれている盆地のような地形になっており、一年を通して雨が少なく乾燥した寒冷な気候である。


「たしかに、西山地ヴェストリヒバーグのこちらと向こうじゃこちらの方が断然暖かくはありますがね。しかし、向こうは寒くはありますが寒いなりに安定していますから・・・」


「ああ、こっちは確かにその日の風向き次第で急に暖かくなったり寒くなったりしやすからなぁ…」


 リクハルドは使用人が淹れた香茶を差し出しながら相槌を打った。

 西山地ヴェストリヒバーグはそれほど高い山が連なっているわけではないが、それでも雨雲をき止めるには十分な高さを持っている。ゆえに西山地ヴェストリヒバーグを越えてライムント地方へ流れ込む風は一様に乾燥して冷たく冷えてしまっており、山の西と東では気候が全く異なってしまっている。アルトリウシアでは小麦を育てることはできるが、山一つ隔てたライムント地方では寒すぎて小麦が育たないのだ。その代わりといってよいかどうかはわからないが、アルトリウシアのように日によって暖かくなったり寒くなったりという気温の変動はあまりないし、天気はほとんどずっと晴れで雨が降ることは滅多になかった。


「いや、こういう寒い日にいただく温かい香茶は最高ですな。

 んん~~…さすがはリクハルド卿、これは良い茶葉をお使いだ。」


「お褒めに預かり恐縮だ、ナンチンの知り合いから送られた品でね。」


「おお、チューアにもお知り合いがいらっしゃるとは、さすが顔が広くていらっしゃる。」


 相好を崩しながらグスタフはハンカチを取り出した。お茶の熱い湯気を吸ったせいで鼻水が垂れてきたからだ。それを脇目で観察しながらリクハルドも香茶を口元へ運ぶ。


「まあ、これでも元・海賊だからなぁ…海賊も色々伝手つてが無きゃ商売にゃなんねぇのさ。」


「ほっほっほっほ…なるほど、奪った獲物は売りさばかなきゃ金になりませんからな。」


 ハンカチで鼻を噛んだグスタフが笑いながら答えると、リクハルドは熱い香茶をズズーッとわざと音を立ててすすり、大きく舌鼓したつづみを打つと大様な動作で茶碗をテーブルに置いた。


「で、侯爵家の御用商人ともあろうお人が何の御用でしょうかね?」


「もちろん、商売ですともリクハルド卿。」


 グスタフは機嫌のよさそうな笑みを顔面に張り付けたまま、ありがたそうに両手で包み持った茶碗ポクルムを覗き込みながら言った。

 グスタフはエルネスティーネやアロイスと兄弟だが、肌の色はアロイスとエルネスティーネでは随分違う。ランツクネヒト族の特徴である褐色の肌ではあるのだが、代々裕福な商家としてそれなりに政略結婚を重ねたせいか平均的なランツクネヒト族に比べると肌の色はだいぶ薄い。ただ、ランツクネヒト族の遺伝子が残っているせいか、陽の光を受けるとすぐに黒くなってしまう。女性であり上級貴族パトリキでもあるエルネスティーネはそもそも陽の光を直接浴びることは少ないこともあって肌の色は割と薄いブラウンだが、軍人であり陽の光の下で活動することの多いアロイスの肌は黒に近い。グスタフは両者の中間よりややエルネスティーネに近い肌の色で、ちょうどグスタフが口にしている香茶の色に近かった。

 その自分の肌とほとんど同じ色の香茶を愛おし気に口を付け、グスタフは実にうまそうに啜った。


「商売?アルトリウシアでかい?」


 アルビオンニア侯爵家はアルトリウシアに居を構えてはいるが、アルトリウシアは厳密にはルキウスの領地であり侯爵家の領地ではない。アルトリウシアはアルビオンニア属州に属してはいるが、ルキウスの自治権がエルネスティーネに従属するわけではないのだ。

 つまりアルトリウシアで何らかの公共事業が行われる場合、そこに中心的に関与するのは子爵家の御用商人であるラール・ホラティウス・リーボーであって侯爵家の御用商人であるグスタフ・キュッテルにはならないはずである。


「ええ…ほら、軍港カストルム・ナヴァリアは侯爵家の管轄ですから。」


「ありゃあ、ヘルマンニ爺さんの管轄だろ?」


「ほっほっほ…ヘルマンニ卿は郷士ドゥーチェとしては子爵家に仕えておられますが、艦隊提督プラエフェクトゥス・クラッシスとしては侯爵家に仕えておられますからな。海軍関連の施設はアルトリウシアにあっても侯爵家のものとなります。」


「…はぁ~…なるほど、言われてみりゃそうだった。

 てことはキュッテル商会が面倒見んのかい?」


「そうなります。」


「てこたぁ、海軍基地城下町カナバエ・カストルム・ナヴァリアも?」


「ええ、まあ、本当ならそっちは子爵家の管轄となるものなのですが、ホラティウス・リーボー様も御多忙でしてね。手が回りきらないので、ウチが面倒を見させていただくことになりまして。」


「ふーん…で、オレッちに何の用だい?」


「まあ、軍港カストルム・ナヴァリアやその城下町カナバエの復旧復興をやる以上、ご近所のリクハルド卿の御協力を仰がないことには話になりませんからな。

 今日はほんの挨拶といったところです。」


 そう言いながらグスタフがちらりと背後に控えている従者を見ると、従者はおもむろに一つの革袋を取り出し卓上に置いた。両手で抱え持ったそれが置かれる瞬間、革袋の中からズシャッと重たそうな音が響く。中身は銀貨だろう。袋の大きさからして二百デナリウスくらいだろうか。

 リクハルドはそちらをチラリと見て大きく顔をゆがめて笑みを浮かべる。


「そりゃ構わねぇぜ。ウチは一番被害が少なくって、他より余裕があっからよ?」


「ほっほっほ、心強い御言葉ありがとうございます。」


 腹を揺すって機嫌よさげに笑うグスタフに、リクハルドは身を乗り出すようにして笑顔を貼り付けたままの顔を近づける。


「でぇ、挨拶だけにしちゃ額が多そうだな?」


「さすがはリクハルド卿、察しが良くて助かります。」


 グスタフも同じように身を乗り出して顔を近づけると声を潜めて話し始めた。


「実は少しお力を借りたいことがありましてね。」


「銀貨に見合う依頼なら力にならんこともねぇや。」


 リクハルドもグスタフに合わせて声を潜めた。


「なに、リクハルド卿にとっては簡単なことです。ちょいと調べていただきたいのですよ。」


「さて、キュッテル商会じゃ調べらんねぇがオレっちなら調べられることか…そんなのぁあったかねぇ?」


「ありますとも、《陶片テスタチェウス》の住人についてですから…」


「誰のことだい?」


 グスタフは笑みを消し、口元を手で隠しながらリクハルドにだけ聞こえるように耳打ちする。


「以前、《陶片テスタチェウス》にいたリュキスカという娼婦についてです。」

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