緊張緩和へ

第306話 還ってきていた偵察隊

統一歴九十九年四月二十八日、未明 - アルトリウシア平野橋頭保/アルトリウシア



 雲の切れ目から覗く空から、星のまたたきは消え失せ、出港する時には必要であった松明たいまつ篝火かがりびの灯りは、今や無くとも周囲の様子を見渡せる程度に明るくなっている。それでも松明をまだ使い続けているのは、遠く離れた場所に合図を送るためには、まだ炎の光がなければならない程度には薄暗かったからかだ。

 一様に黒く細い影が無数に林立しているようにしか見えないアルトリウシア平野の葦原に立つ誘導係は完全に背景に溶け込んでいて、手に持った松明が無ければ海上からその位置を見出すことなどできなかっただろう。


「よし、あそこだ!」

「左だ!もう少し左!!」

「そろそろ乗り上げるぞ、気をつけろ」

「漕ぎ方停止…いや、ゆっくり…いーち、にーい…そうそう、それくらいだ」


 操船に不慣れなゴブリンたちがぎこちない動作で松明の光を目指して船を進める。四隻の貨物船クナールは互いにぶつからないよう安全な距離を保ちながら、まだ夜の明けきらぬいだ海を静かに進んだ。

 まるでこの世界には自分たち以外存在しないかのような静寂に包まれた海ではあったが、それでも遠くには漁師たちの漁火いさりびがいくつも見えている。セーヘイムの漁師たちが貝や魚を獲っているのだ。

 ハン支援軍アウクシリア・ハンがエッケ島にいることが知られて以降、彼らがアルトリウシア湾東部で漁をすることはなくなっているが、それでもゴブリンたちは灯りを最小限に抑え、声も低く音も立てないように細心の注意を払いつづけていた。吊り下げられた青銅の籠で燃える篝火かがりびも右舷側でのみ燃やされ、高さも船べりより低く海面ちかくまで下げられており、炎の光を西の彼方で漁をしている漁師たちに直接見られないようにしているほどだ。


「いいぞ、もう火は消しちまえ!」


 誘導員の位置を確認した船頭役のゴブリンが命じると篝火は海中に降ろされ、ジュウッと音を立てて火が消える。それに合わせて岸で待つ誘導員も松明の火を消した。


 ズザザザザァーーーーッ


 岸まではまだ距離があったが、同規模の戦船ロングシップに比べ喫水の深い貨物船クナールは、遠浅の砂浜に早くも乗り上げてしまう。


「よし、荷物を降ろすぞ、急げ!」


 ゴブリン兵たちは櫂を収納すると、荷揚げの準備を始めた。何人かは船から飛び降り、腰まで水に浸かりながら舫綱もやいづなをもって岸へ向かって歩いていく。また何人かは革船コラクルを降ろし、水に濡らしてはならない荷物をそちらへ積み替える。そのほとんどは食料と炭だ。

 ゴブリン兵たちが仕事をしているにも関わらず、まるでそっちには関心が無いかのように船から降り立ち、一人で岸へ向かう者がいた。ハン支援軍アウクシリア・ハンの騎兵隊長ドナートである。彼は足早に橋頭保きょうとうほへ向かった。


「隊長!!」


「ディンクル!帰ってきていたのか!?」


 ディンクルはドナートの下で騎兵隊の副隊長を務める古参兵だ。昨日、ドナートがエッケ島へ出仕するために橋頭保を発つ際、部下を率いてアルトリウシア偵察へ赴いたはずだった。予定通りであれば、帰ってくるのは今日の夕方ごろのはずであり、今ここにいるはずがなかった。


「予想外のことが起こったんで、予定を切り上げて帰ってきた。」


「予想外のこと!?」


 ディンクルの気まずそうな態度に胸騒ぎが抑えられない。


 もしや昨日のアイゼンファウストの火災は、イェルナク様のおっしゃったようにコイツらが!?


 だが、ドナートはあえて自身を抑制し、ディンクルが自分で話すのを待った。いきなり叱り飛ばしたり詰問したりすれば、貴族に虐げられることに慣れすぎたハン族のゴブリン兵は押し黙ってしまう傾向があるからだ。


「遠吠えです。」


「遠吠え?」


 意外な単語にドナートは思わず顔をしかめた。


「へぇ、オレらぁヤツらに見つからねぇように用心しながら進んだんですよ。

 隊長と別れて日が昇ったくらいに隊長が置き去りにしてきた先遣隊と合流して、そっからは先遣隊が残した目印を頼り進んだから、昼頃までにはアッチの拠点に着けました。

 だけど、そこで荷物降ろして偵察しようとしたら、なんか北の方からかすかに遠吠えが聞こえたんですよ。そしたら、オレらのダイアウルフたちが遠吠えを始めちまって…」


「そ、それで!?」


「オレもさすがにヤバイと思いましてね。慌ててダイアウルフたちんトコまで駆け戻って遠吠えやめさせて…見つかっちゃヤバイと思って…荷物まとめて…偵察もせずにそのまま帰ってきました。」


「・・・・・それだけか?」


 用心深く確認を求めるドナートの様子に只ならぬモノを感じながら、ディンクルはいぶかしみながらも答える。


「そ、それだけ…ですが?」


「アイゼンファウストに火事を起こさせるようなことは?」


「まさか!しませんよ、そんなこと!」


「昨日、アイゼンファウストで火災があったことは知ってるか?」


「ああ、なんか派手に煙があがってましたね。

 火事が起こってるなら見てやろうって思ったんですが…」


「お前たちじゃないんだな?」


「しませんよ、そんなこと!

 絶対に見つかるなって命令だったじゃないですか!?」


「そうか、ならば良い。」


 ドナートが安心したように胸をなでおろしながらそう言ったことでディンクルはようやく緊張の糸が解けたようだ。


「あの、何かあったんですか?」


「昨日、エッケ島からアイゼンファウストのあたりから煙が上がっているのが見えてな。貴族様ホブゴブリンたちがお前たちが勝手に攻撃したんじゃないかと疑っておられたのだ。」


 ドナートも気が緩んだのか、兜を脱いで頭を掻きながら説明する。


「そりゃあ、酷い誤解だ。そりゃオレらぁゴブリンは貴族様ホブゴブリンからすりゃバカでしょうが、あれだけ見つかるなって命じられておいてわざわざ見つかりに行くようなこたぁしません。」


 ディンクルが呆れた様子で答えると、ドナートは兜を被りなおした。


「そうだろうよ。だが、万が一ということもあるからな…実際、気づかれたろ?」


「え…ああ、遠吠え…でもありゃあ…」


「分かってる、皆まで言うな。

 そんな事態になったら俺だってどうしようもない。」


 必死で抗弁しようとするディンクルをドナートはいさめた。そうだ、こればっかりはどうしようもない。遠吠えが聞こえてきたら応えてしまうのは狼の本能だ。あらかじめ予想できたなら何らかの対処方法もあったかもしれないが、まさか他にダイアウルフの居ないはずの場所でいきなり遠吠えが聞こえてきたのなら対処などしようがない。


「…待て、遠吠えが聞こえてきたっていったな?」


「え…ええ、北の方だと思います。

 ダイアウルフたちも北に向かって吠えてたし…」


「北って、アイゼンファウストか?」


「…ええ、アイゼンファウストの方でしたね。

 そん時にゃもう煙は上がってたんで、煙見て興奮した犬か狼が遠吠えしたんじゃないかと…」


「アイゼンファウストに狼はいないだろ…だが、犬か…そうだな、犬なら居るかも知れんか…だが…」


 ドナートは顎に手を当てて俯き、何かに深刻なことを考えていたようだったが、ディンクルの答えを聞いて腑に落ちたという風に顔を上げた。


「どうしたんです?」


「いや、ひょっとしてダイアウルフがアルトリウシアで生け捕りにされてるかと思ってな…」


「そりゃあ、ねぇでしょ。」


 ディンクルは笑って言った。ダイアウルフは気難しく誇り高い獣だ。力づくで言うことを聞かせられるような、普通の家畜ではない。そのダイアウルフがアルトリウシアの連中に扱えるわけがない…それはハン族のゴブリンたちの共通した認識だった。


「それはそうと、全員撤収準備しろ。」


「撤収ですか!?それも全員で?」


 ディンクルは驚いた。結構な量の補給物資や資材を運び込んでいたので、てっきり作戦を本格化するものだと思っていたからだ。


「ああ、といっても一時的なものだ。

 今日、いよいよ『バランベル』号を引き揚げる。その時、引き揚げ作業にはんだ。ブッカたちに必要があるんでな。」


「ああ、なるほど…俺らはアルトリウシア平野にいちゃいけねぇんでしたね…てことは…」


「そうだ。『バランベル』号を無事浜へ引っ張り上げたら、再びここへ戻ってくる。」


「分かりました。それで今日は船の数が多かったのか…なるほど!

 じゃあ、全員集合させます。」


 ドナートはあえて全部は言わなかった。彼らは再びアルトリウシア平野へ戻ってくる予定ではあるが、アルトリウシアへの偵察そのものは変更される可能性が高いこと、場合によっては平野への進出自体を断念するかもしれないことを。

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