第308話 ダイアウルフ対策会議

統一歴九十九年四月二十八日、昼 - マニウス要塞司令部/アルトリウシア



「だからよぉ、草刈ってる間だけ河原に兵隊レギオナリウス並べといてくれりゃいいんだよ!」


 マニウス要塞司令部プリンキピア・カストルム・マニの会議室で発せられたメルヒオールの新たな要求は軍関係者を悩ませていた。問題は昨日の野焼き作業の時にアルトリウシア平野から聞こえてきたダイアウルフの遠吠えである。


 アルトリウシア平野は広大な無人の湿地ではあるが、野生の狼は生息していないと考えられている。いや、もしかしたらいるのかもしれない。狼の餌になりそうな野生動物がいないわけではないからだ。だが、これまでアルトリウシア平野に狼がいるというような目撃情報は誰も聞いたことはなかったし、セヴェリ川の向こうから狼の遠吠えが聞こえてきたこともなかった。

 しかし昨日は間違いなくアルトリウシア平野から狼の遠吠えが聞こえた。犬の遠吠えなどとは明らかに違う、太く、力強く、やたらと長く、遠くまで響く独特の遠吠えはダイアウルフ以外にあり得ない。そしてアルトリウシアはもちろん、アルビオンニアには野生のダイアウルフなど存在しない。つまり、昨日聞こえた遠吠えによって示されたのは一つの事実だった。


 アルトリウシア平野にハン支援軍アウクシリア・ハンの騎兵が潜んでいる。


 その事実がもたらした影響は大きかった。そもそも、焼け出された住民たちの住居を最優先で整備して生活再建を急がねばならない今の状況で、わざわざアイゼンファウストに新たにブルグスを建造しようとしているのはアルトリウシア平野からのハン騎兵の襲撃に備えなければならないからだ。そのブルグスでもって対処すべき脅威が、予想よりも早い段階で顕在化してしまったのである。


 その影響は既に出ている。

 遠吠えを直接聞いた住民たち…草刈り作業に従事していた者たちが一斉に逃げ出してしまったのだ。さすがに近くにはメルヒオールの私兵や軍団兵レギオナリウスたちが多数いたため恐慌状態パニックに陥ることはなかったが、住民たちは怯えを隠すこともなく近くの兵たちに退去したいと願い出、作業を中断して帰ってしまった。

 メルヒオールも彼の私兵も軍団兵レギオナリウスたちも、帰ろうとする住民たちを押しとどめることはできなかった。強引に押しとどめれば却ってパニックが発生する危険性が高いと判断されたからである。


 住民たちが怯えるのも無理はない。ハン支援軍アウクシリア・ハンのゴブリン兵は弱兵で知られているがダイアウルフとダイアウルフを駆るハン騎兵は別格扱いされている。

 彼らはほんの半月前の叛乱の際、たった三十騎に満たない寡兵かへいでアルトリウシア中を駆け巡り、ティトゥス要塞カストルム・ティティマニウス要塞カストルム・マニ城下町カナバエで破壊の限りを尽くした。しかも戦上手で知られる郷士ドゥーチェリクハルドが《陶片テスタチェウス》に罠を張って待ち構えていたにもかかわらず、その罠を食い破った上 《とりノ門》前で避難民たちを大量に虐殺し、海軍基地城下町カナバエ・カストルム・ナヴァリアでは殿軍しんがりとして燃え盛る炎の中を駆け回ってリクハルド軍を翻弄ほんろう…ついには撤退に追い込んでいるのだ。そして最後は海軍基地カストルム・ナヴァリアを跡形もなく吹き飛ばし、ハン支援軍アウクシリア・ハンの脱出を成功させている。


 アルトリウシア領民たちが抱いているハン騎兵に対する評価は明らかに過大なものであり、いくつかの逸話はハン騎兵とは関係ないものも含まれていたが、事実がどうであるかは当事者にとっては最早どうでもいいことだった。被害にあった住民たちにとって、ハン騎兵は災禍をもたらす悪魔の化身に限りなく近い存在なのだ。

 そのハン騎兵が…彼らの乗るダイアウルフがアルトリウシア平野にいる。それが予想でも噂でもなく、事実として確認されたのだ。のんきに河原で草刈りなんかしてはいられない。いや、アイゼンファウストにいることさえ恐ろしい。

 今日はもう草刈り作業員は集まってこなかったし、アイゼンファウストから他所へ引っ越そうという者たちさえ現れ始めている。


「お話は分かります。我々も憂慮ゆうりょしています。」


 アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア筆頭幕僚トリブヌス・ラティクラウィウスラーウス・ガローニウス・コルウスが軍団レギオーを代表して答える。


「ですが、軍団兵レギオナリウスも数が限られています。

 これ以上人数を割けと言われても、割ける人員などいないのです。」


 ラーウスは苦しい窮状きゅうじょうを訴え理解を求めた。しかし、いくら苦しかろうが何とかしてもらえなければ話にならない。ブルグスは一日でも早く建造してもらいたいし、ブルグスがその役割を果たすためには河岸に生えている草を一掃しなければならないのだ。

 ダイアウルフに対して有効な防衛体制が整えられていない現状では、いくら避難民用に新居を用意したところで誰もアイゼンファウストに戻ってきてはくれない。それでは復旧復興の意味が無いのだ。


「じゃあ何にもしねぇってのかよ?」


「そもそも、アルトリウシア平野にダイアウルフがいると確認されたわけでもありませんし…」


 ブルグス建設計画を担当させられている軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムのアシナ・バエビウス・カエピオがボソッと言うと、メルヒオールはテーブルをドンと叩いて噛みついた。


「いねえって確認できてるわけでもねぇだろうがよ!!」


 その迫力にアシナは思わず黙りこくる。ホブゴブリンとヒトではホブゴブリンの方が体力的には圧倒的に強い。そしてヒトの中ではどちらかというと小柄な部類にはいるメルヒオールだったが、暗黒街で伸し上がった実力者だけあって怒るとホブゴブリンはおろかコボルトさえもビビらせるほどの迫力があった。


アイゼンファウストメルヒオール卿、どうか落ち着いてください。」


 ラーウスは困った奴だとアシナの方を一瞥いちべつしつつもメルヒオールをなだめた。


「何もしないと言っているわけではありません。

 アイゼンファウストの安全確保は我々にとっても重大な課題です。」


「おうよ、俺だってまさかアルトリウシア平野からダイアウルフを狩り出せなんて言ってるわけじゃねえんだ。住民どもが安心できるようにしてもらえねぇとよ。

 このままじゃ新居作ってやったって、住民どもは居ついちゃくれねえぜ。」


 メルヒオールの言うことはもっともだった。アルトリウシア平野にダイアウルフが潜んでいるという噂はマニウス要塞カストルム・マニに収容されている避難民たちの間にもすでに広まっていて、新住居が完成したとしてもアイゼンファウストには戻らない方が良いという話が囁かれ、それは早くも司令部プリンキピアにまで聞こえはじめていた。このまま放置すれば、復旧復興計画そのものに大きな影響が出かねない。


 アイゼンファウストの復旧復興が最優先とされているのはアイゼンファウストの被害が最も大きかったからというのもあるが、最大の理由は降臨者リュウイチにあるのだ。

 現在最大限の努力を払ってマニウス要塞カストルム・マニ陣営本部プラエトーリウムへ引きこもっていてもらったうえで秘匿を維持しているが、いつまでも今の秘匿体制を維持できるわけではない。現状、降臨者リュウイチが置かれている軟禁状態を少しでも早く緩和するためには、マニウス要塞カストルム・マニに収容している避難民たちをアイゼンファウストへ戻さねばならないのだ。

 にもかかわらずダイアウルフのせいで避難民がアイゼンファウストへ戻ろうとしなかったら、現在アイゼンファウストで行っている住居建設等の復旧復興事業は無駄になってしまうし、降臨者リュウイチの生活環境改善も遠のいてしまう。


「ですが現状以上の人数はもう割けません。

 今現在投入できている人数だけで実施できる方法を考え出さねば…」


「そんな魔法みてぇな方法があんならいいけどよ?

 そうだ、いっそアルトリウシア平野をまるごと焼き払っちまうか!?」


「「「「「!?」」」」」


 メルヒオールの突拍子もない発言に全員が度肝を抜かれる。


「いや、さすがにそれは…」


「何でだよ!?

 アルトリウシア平野で《火の精霊ファイア・エレメンタル》が出たところで、川幅の広いセヴェリ川は越えられんぜ?」


「そ…それはそうかもしれませんが…」


「じゃあそれで問題ねぇじゃねぇか!?」


「いや、アルトリウシアには直接来れなくても《火の精霊ファイア・エレメンタル》が南へ行くかもしれません。」


「南は南蛮サウマンの領域じゃねぇか!?」


 南蛮サウマンは敵だと単純に思っているメルヒオールがそれがどうしたと言わんばかりの顔をすると、ホブゴブリンの軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムたちは如何にも困ったという風に眉をひそめた。


「いや、南蛮サウマンですけどアリスイ氏族の領域です。ご存じとは思いますが、アリスイ氏族は…」


「ああ、そうか」


 アリスイ氏族はアルトリウシア子爵家公子アルトリウスの妻コトの実家だった。アリスイ氏族とは政略結婚によって友好関係を結んでいる。もしも《火の精霊ファイア・エレメンタル》を放ってアリスイ氏族に被害が及べば、せっかくの友好関係が崩壊しかねない。


「それに、セヴェリ川は越えられなくてもセヴェリ川沿いに上流へ行けば西山地ヴェストリヒバーグです。下手すればライムント地方へ被害が及ぶ可能性もあります。」


「わぁったわぁった、焼き払うのぁ無しだ。」


 アシナが先ほどの仕返しとばかりに反論すると、メルヒオールはあっさりと引き下がった。


「じゃあ、どうするよ?

 アルトリウシア平野にダイアウルフがいるのは分かってんだ。いなくなってんのが確認できねぇ限り、何とか守りを強化するっかねぇんだぜ?」


 一同は黙り込んでしまった。


「そもそも、ダイアウルフは何だって急に遠吠えなんかしたんでしょうな?」


 しばらく沈黙が続いた後、筆頭百人隊長プリムス・ピルスのウェスパシアヌス・カッシウス・ペティクスがポツリと疑問を口にすると、軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムたちが口を開き始めた。


「それは…リクハルド卿のところで捕えられているダイアウルフが、野焼きの煙を見て興奮したからだと聞いているが…」

「その遠吠えを聞いて、アルトリウシア平野のダイアウルフが応えたわけか…」

「おそらくそうでしょうな。」

「そういえばその捕らえられたというダイアウルフはどうなってる?」

「何故だか知らんが羊飼いの少女になついてるとかで、その羊飼いが世話をしているそうだ。」

「聞いたぞ、軍団長閣下レガトゥス・レギオニスが騎乗の許可を与えたとか…それからは毎日その羊飼いが乗り回しているらしい。」

「遠吠えした時も出ていたのか?」

「ヤルマリ川の近くにいたらしいな。」

「それで煙を見て興奮したのか…よく暴れださなかったものだ。」

「よほど懐いているのだろうな・・・」


 話がひと段落したところで、作戦担当の軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムゴティクス・カエソーニウス・カトゥスがポツリと言った。


「それ、使えませんかね?」

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