第300話 帰って来たドナート

統一歴九十九年四月二十六日、晩 - アルトリウシア平野橋頭保/アルトリウシア



 ハン支援軍アウクシリア・ハンの工兵隊長はドナートに示された場所、海岸から三十ピルム(約五十六メートル)ほど南にある少しばかり小高くなった低い丘の南斜面一帯の草を朝から部下たちに刈らせていた。

 日当たりの悪い南斜面を選んでいるのは、丘に生えている草を残すことで北のアルトリウシア湾を航行する船から、現在設営している橋頭保きょうとうほが見えないように遮蔽しゃへいするためである。丘と呼んではいるが高さは海抜いちピルム(約百八十五センチ)も無いくらいの低いものでしかないが、それでもそこに密生している背の高い葦がカーテンになってくれれば、あしよりわずかばかり背の高いハン族伝統の天幕を隠すのに十分役立ってくれる。

 刈るべき葦は中秋の今となっては枯れて木の様に硬くなっており、太さも一インチ(約二センチ半)ほどもあるため、切るのは容易ではない。刃の部分に研磨した石刃せきじんを鋳込んだ青銅製の手斧を使い、一本刈るのに二~三度切り付けてようやく切れてくれるような感じだ。それでも工兵十人と護衛の名目で残った騎兵十人の計二十人がかりでほぼ丸一日かけただけあって、騎兵隊一個分隊デクリオ分の活動拠点を設営するには十分な広さを確保できている。

 既に三張は張られた天幕は遊牧民族として生活していた頃の丸く大きなもので、天幕というより可搬住居とでも表現すべきものだが、さすがに二十人が寝るには小さすぎる。今日は工兵だけが天幕で寝て、騎兵は訓練名目で野宿することになっていた。


 そのうちの一つの天幕の中では炭火を使って夕食が作られていた。既に日は没し、辺りには夜のとばりが降りていて空には星がまたたいており、夕食には遅すぎるくらいの時間である。

 これほど遅い時間に夕食を用意するのはもちろん理由がある。作業時間を少しでも長くとるため・・・というのもあるが、最大の理由は調理の際に出る煙が見つからないようにするためだった。このため、調理の火も薪ではなく木炭が使われており、灯りはハン支援軍アウクシリア・ハンにとっては貴重なロウソクが特別に与えられ、それも天幕の外へは光が漏れないよう細心の注意を払われていた。


 用意された食材は豪華だった。彼らの任務の重要さをかんがみ、本作戦の立案者である筆頭幕僚トリブヌス・ラティクラウィウスのディンキジクが特別に王族と同じ水準の食材を手配してくれた結果だった。とはいっても、現在逃亡中のハン支援軍アウクシリア・ハンである。王族と言えどもその食事の水準は高くはなかった。そのほとんどは侯爵家が用意し、セーヘイムのブッカが船で運んでくる一般将兵用の食材である。

 大鍋で煮られているのは、一度水で洗ったザワークラウト、細かく刻んだベーコン、そしてジャガイモと大麦と豆…味付けは洗った後もザワークラウトに残っていた塩気と魚醤ガメル、そして希少な黒コショウと、最後に麦酒アリカを注ぎ込んである。他にスライスした軍用の黒パンとスライスしたチーズに、やたら甘ったるいワインだ。

 ハン支援軍アウクシリア・ハンの王族を除く一般兵士からすると、かなり贅沢なメニューである。量も多い。何よりスープの具が多い。エッケ島に来て以後、具が三種類以上入ってて、しかも汁より具の方が多いスープなんて、普通のゴブリン兵ではまずお目にかかる事すらできなくなっていたのだ。まして黒コショウなんて、今では王族しか使う事を許されていない貴重品である。彼らがどれだけ優遇されているか分かろうというものだ。


 一度に二十人前のスープを複数の大鍋で煮る天幕の中は中秋にも関わらず汗ばむ暑さだった。その中で上半身裸になりながら料理当番のゴブリン兵たちが汗をかきながら鍋を柄杓ひしゃくで掻き回す。


「すげぇ~…いいニオイだ。」

「味はどうだ?」

「ちょっと待て…ん~…最高だ。」

「俺にも一口…ん~…たまんねぇな。これでニンニクがあれば最高だ。」

「へっ、さすがエリートの騎兵隊は舌が肥えていらっしゃる。

 黒コショウが入ってるだけでも贅沢だってぇのによ。」

「まったくだ。ダイアウルフ様様だぜ。

 おかげでこんな贅沢ができるなんてな。」

「チェ、俺もダイアウルフに乗りたかったなぁ。」

「こればっかりはダイアウルフの気分次第だからしょうがねぇぜ。

 俺も昔は選んじゃ貰えなかったが、今年になって初めてダイアウルフに乗せてもらえたんだ。今年は良い年だぜ。」

「おいまだかよ、もう腹ペコだ」

「もう少し待ってろ、ジャガイモが良い具合になってきたところだ。」

「クソ、さっきからずっとそれだ。お前らの味見だけでなくなっちまうぜ」

「こっちの鍋はもういい感じだ。先に食いたい奴から器を寄越せよ。」

「おい、出入りする時は光が漏れないように気を付けろよ!?」

「分かってる。ちょっと待ってろ」


 今日、ここの派遣された彼らにとっての楽しみは食事だけだった。なのに朝食も昼飯も火を使えなかったので干し肉と黒パンと酢水ポスカだけ…本日の暖かいまともな料理は夕食が初めてで、かつ唯一だったのだ。

 出来上がった汁を各自の木の器に盛り、それを受け取った者から他の天幕へ移動していく。見つからないように灯火制限が敷かれた彼らの拠点で灯りがあるのは天幕の中だけだが、調理を行っている天幕はすでにイッパイで、料理当番以外の者たちが食事を摂るだけの広さは無かったからだ。


 料理を受け取った騎兵の一人がホクホク顔で厨房天幕から顔を出した時、突然やぶからダイアウルフが飛び出してきた。


「おおっと!?」


 騎兵は驚きのあまり、せっかくの料理を危うくとり落としそうになり、相手に怒りをぶつけようとした。暗闇でお互い顔は見えなかったが、相手は騎兵隊長だけが取り付けることの許される特徴的な羽飾りを兜に付けていた。そんな兜を被っている騎兵など、ハン支援軍アウクシリア・ハンに一人しかいない。騎兵は浴びせようとした罵声を慌てて飲み込み、棒を飲んだように姿勢を正す。


「おっ!気を付けやが…って、ドナート隊長!?」

 

「その声はディンクルか!?」


「失礼しました!!

 まさか、もう御帰還とは…」


「驚かせて済まない。工兵隊長はどこにいる?」


「この天幕の中でさ」


 ドナートはダイアウルフを降りるとダイアウルフに「伏せ、待て」と命じて足早に厨房天幕へ入って行く。ディンクルはそのまま食堂として使っている天幕へ向かおうか厨房天幕へ戻ろうか迷い、厨房天幕と食堂天幕と手元の料理とを数度見比べ、結局料理を持ったまま厨房天幕へドナートについて入って行った。


「工兵隊長!」


「うぉ!!なんだ、騎兵隊長もう帰ったのか!?

 悪いが明日帰ってくるって聞いてたから天幕はまだ…」


 突然現れた予想外の客に、帰ってくるまでに天幕張っとくと強気の発言をした手前、後ろめたい気持ちになったのか工兵隊長はオドオドしはじめる。


「そんなことは良い!」


 ドナートはツカツカと工兵隊長の方へ歩み寄る。


「な、何だ?」


「済まないが、急いで報告せねばならん事がある。緊急事態なんだ。

 今から船を出せないか?」


「船だって!?」


 工兵隊長はあからさまに顔をしかめた。


「そうだ。急いでディンキジク様に報告申し上げねばならない事があるのだ。」


「無理を言わんでくれ!」


「無理か?」


「無理だ!

 船は俺らを降ろしてからすぐに帰っちまってる。呼ぶまでこっちにゃ来ねぇ」


 彼らをエッケ島からアルトリウシア平野まで運んだのは四隻の貨物船クナールだ。十人の工兵と十五人の騎兵と十五頭のダイアウルフ、そして橋頭保設営のための資材と水と食料。それを運ぶのにはそれだけの船が必要だった。四隻もの貨物船クナールがアルトリウシア平野北岸に放置されていたら、ハン族がアルトリウシア平野で何かやっていますよと宣伝するようなものだ。だから秘匿保持のため、船は彼らと資材を降ろしたらそのままエッケ島へ引き返している。

 用があって補給用の定期便以外の船が要る場合は、合図をすると翌早朝か夕方ごろを狙って船が来ることになっていた。


「じゃあ呼んでくれ」


 工兵隊長は勘弁してくれと言わんばかりの表情を浮かべる。


「バカ言うな。

 今、合図したところで迎えの船が来るのは明日の早朝だぞ!?」


革船コラクルはこっちに持ってきてないのか?」


 ドナートの記憶では、浅瀬を歩いて渡るルートを探索する際のバックアップとして、浅瀬でも使える革船コラクルが用意されているはずだった。


「無い!あれは今日明日は使わないから、食料補給のついでに次の便で運び込むことになってる。」


「何とかならないのか!?」


「落ち着けよ『単騎駆け』!

 だいたい、俺らハン族がこの暗闇で船漕いで、座礁もせず迷いもせずにエッケ島とここを往復できるわけないだろ!?」


「くっ・・・」


 工兵隊長の言葉にドナートは諦めざるを得なかった。

 今回の作戦は最高度の秘密保持を求められている。ハン支援軍アウクシリア・ハン以外の者に作戦を知られてはならない。このため、輸送に使う貨物船クナールも普段なら捕虜にしたブッカたちに操船させているが、この作戦でだけはハン族のゴブリン兵だけで操船させたほどなのだ。そして船が帰ってくるまでの間、捕虜のブッカたちは宿舎に監禁して、彼らが船でどこへ行ったかも知られないようにするほどの徹底ぶりだ。今後の送迎や補給の船も当然ハン族のゴブリン兵だけで運行される。海にも船にも不慣れなハン族では、闇夜の航海など自殺行為でしかない。


「何があったか知らんが、一緒に出ていった部下はどうした?」


「大丈夫だ。アイツらは後からルート上に目印を付けながら帰ってくる。

 自分だけ敵情報告のために先行して帰って来たんだ。」


 心配そうに、慰めるように声をかける工兵隊長にドナートはほぞを噛むように俯いたまま答えた。


「そうか、ならよかった。

 スープは一人前くらいなら余裕がある。

 まあ、今夜はゆっくり休んで、明朝の定期便で帰るといい。」


 工兵隊長はスープを注いだばかりの自分の器をドナートに差し出した。

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