第289話 アルトリウシア平野への進出

統一歴九十九年四月二十五日、朝 - アルトリウシア平野/アルトリウシア



 エッケ島の南、アルトリウシア平野まで続く浅瀬を船を使わずに歩いて通行する…もしそれが可能となれば、図らずもエッケ島に閉じ込められることとなったハン族にとって大きな可能性をもたらすことになるだろう。『バランベル』号を失った今、ハン族に残されているのは分捕った貨物船クナール七隻のみ。しかもそれらも返還を要求されており、いずれは返さねばならない。仮にこのまま自分たちの物として着服できたとしても、ハン族の生き残り全員と全員が生き延びるための物資を運ぶには船腹量が決定的に足らない。


 限られた船で少しずつ人と荷物を運び、アルトリウシア平野へ移住してしまう事も出来ないことは無いが、北部に留まればいつレーマ軍の追撃を受けるかもしれないし、南へ行けば南蛮のアリスイ氏族に襲われる危険性がある。かつてのように十分な騎兵戦力を有しているのなら、それでもアルトリウシア平野へ移った方が安全だっただろう。しかし今のハン支援軍アウクシリア・ハンが戦力化できている騎兵はたったの二十騎。乗り手のいないダイアウルフを含めても六十にしかならない。わずか二十騎では二個小隊分の戦力にしかならず、まともな作戦能力を持っているとは言えない。できるのはせいぜい偵察や連絡、戦闘に投じたとしてもゲリラ的な擾乱じょうらんぐらいしか出来ない。

 現在のハン支援軍アウクシリア・ハンは頭数からすれば歩兵が主力となるわけだが、ゴブリン歩兵は全くの弱兵だ。大人でもホブゴブリンの子供ぐらいの体格しかないのだから戦力としてはほとんどアテにならない。ハン支援軍アウクシリア・ハンの幕僚たちからしてアテにしてなかった。

 攻撃力という面で言えば砲兵が主力になるわけだが、砲兵は火力こそあるが機動力は全く無い。何せ、砲を操作するのがゴブリンだ。体力の貧弱なゴブリンでは野戦で大砲を機動させるなどできるはずもない。数でも機動力にも劣る軍勢が、優勢な敵軍に囲まれた平地に陣を張るなど自殺行為でしかない。だから結局、彼らはこのままエッケ島にこもるしかないのだ。


 しかし、同じどこかに籠って守るにしても、攻めてくる敵軍の背後を付ける遊軍を用意できれば、防衛力は格段に上がる。もし、アルトリウシアのレーマ軍がエッケ島を攻めて来た時、アルトリウシア平野から遊撃部隊をアルトリウシアへ送り込むことができるなら、敵は全軍をエッケ島へ向けることなどできなくなるだろう。アルトリウシア防衛のため、かなりな兵力を後方へ下げねばならなくなるはずだ。

 また、敵の知らない陸路での移動手段があれば、いざという時に王族だけでも逃がすことができるかもしれない。


 そういうわけで、ハン支援軍アウクシリア・ハンの騎兵隊長ドナートに課せられた任務は極めて重要だった。

 ドナートがディンキジクから受けた命令はエッケ島南の浅瀬を通ってアルトリウシア平野へ渡る可能性を検討すること、そして騎兵の一部をアルトリウシア平野からアルトリウシア南へ展開させて敵情を偵察すること…この二つだ。

 しかし前述の背景を考慮するならば、この二つの命令が目指すところは一つの結果でしかない。ディンキジクは「可能性を検討」と言っていたが、この浅瀬がハン族が生き残るために必要な通路となりうることを考えれば、通路として開通させることこそを目指さねばならないだろう。そして、通路として開通したのちには渡った先のアルトリウシア平野での安全を確保しなければならない。せっかく開通させた秘密の通路の行き先が敵の罠の中でしたでは意味がないのだ。当然、橋頭保きょうとうほも確保しなければならないだろう。

 このことからドナートは二つの命令は一つに統合させるべきだと考えるに至った。


「よし、この辺りで良いだろう。」


 ドナートは先にアルトリウシア平野側に橋頭保となる拠点を作ることにした。日の出前にエッケ島から貨物船クナールで漕ぎだし、工兵隊と共にアルトリウシア平野に上陸。漁師たちに見つからないよう、ある程度海岸から離れたちょっと高くなっている広そうな場所を見つけると、ここを拠点にしようと決める。


「じゃあ、自分らはここに拠点を造りゃいいんですね?」


 工兵隊長がドナートに確認を求める。


「ああ、海にいる船からは見つからないように気を付けて、このあたりの草を刈ってみてくれ。それで地形に問題がなさそうならここを基地にする。」


「ここは高すぎませんか?

 ここに天幕を張ったら屋根が船から見えるかも」


 周囲を人の背より高い草が覆っているとはいえ、ハン族の天幕の屋根より高いわけではない。


「そうか?

 だが、低い場所だと潮が満ちて来た時に水没するかもしれん。

 朝起きたらテントの真ん中に池ができてましたなんてゴメン被るぞ?」


「その辺は問題ありませんよ。

 今これから潮が引いてくる時間のはずだ。雨も降らなかったし、今地面が湿ってないところなら大丈夫でしょう。

 問題は水の方だ。これだけ海に近いと井戸で真水は無理でしょうな?」


 アルトリウシア平野は海抜ゼロメートル地帯であり、満潮になると海水が流れ込んでくる。このため地面も地表を流れる水も塩分を含んでおり、農作物は育たない。井戸を掘っても出てくるのは塩分を含んだ水だけだ。さすがに地下水となれば塩辛くて飲めないほど塩分が濃いわけではないが、掘る場所を間違えると大潮の時に井戸から地下に海水が流れ込んでしまうようなことにもなりかねない。

 アルトリウシア平野でも東部の山に近い方まで行けば、井戸を掘ることで真水を調達することもできるが、そこまで行って運んでくるくらいならエッケ島から運んだ方が早い。


「『あしの水』は無理か?」


「葦はもう枯れちまってて無理でしょうな。」


 かつてハン支援軍アウクシリア・ハンは演習と称してアルトリウシア平野で束の間の逃亡生活を送っていたことがあった。その時、必要となった水は実は平野に生えている葦から採っていた。ある程度成長した葦を切ると、切断面から塩分を含まない真水が流れ出て来る。それを鍋などで受けて葦二~三本から最大で水差しヒュドリア一杯分くらいの真水を手に入れることができたのだ。さすがに必要な水の全てを賄うには量が少なすぎたが、飲料水を確保するにはそれで何とか賄えたのだ。

 だが秋の深まった今、既に葦はほとんど枯れて硬くなっている。水分も抜けていて、切っても水はほとんど出てこない。水を確保するには井戸を掘るか、運び込むしかなさそうだ。


「そうか、なら場所は任せよう。

 では我々は行くが、大丈夫か?」


「まあ、任せてください。

 『単騎駆け』が帰ってくる前には立派な天幕張ってごらんにいれますよ。」


 工兵隊長はドナートをはやすように「単騎駆け」と呼び、請け負った。それを聞いてドナートは苦笑する。


「昨日も言ったが帰ってくるのは明日以降だ、のんびりできるな?」


「そうも言ってられません。ここの草は背も高いが茎も結構強い。生え始めの春先ならともかく、今頃の季節じゃもう木みたいだ。それをこの人数で刈るんですよ?」


 正式に何という名前なのかはわからないが、アルトリウシアの人たちが「あし」と呼んでいるこの人の背より高く生い茂る草は、まだ若い春先は柔らかいが夏を過ぎると徐々に葉も茎も硬くなり、今頃の季節ともなると工兵隊長が言ったように木に近い硬さになる。強い風の吹き抜けるアルトリウシア平野で高く成長するだけあって茎は太く、木の小枝とほとんど変わらない。それをしゃがんで地面に近いところで切るのだから、結構な重労働である。

 むしろ下は軟弱な湿地なのだから切らずに引っこ抜いた方が早いぐらいだが、これだけ背が高く成長する植物の根は当然ながらそれなりにしっかり張っていて、上に生えている本体の重量もかなりにあるため、引っこ抜くには結構な力が要る。ホブゴブリンやブッカならともかく、体格の貧弱なゴブリンでは数をこなせない。一本を処理する早さでは間違いなく引っこ抜く方が早いが、数をこなさねばならないことを考えると切った方が良い。


「今は人手が足らないのはどこでも一緒さ。じゃあ、頼むぞ。」


 ドナートは連れて来ていた十四騎の騎兵のうち、選りすぐりのベテラン騎兵四騎を率いて東へ向かった。残りの十騎は工兵部隊の護衛だが、アルトリウシア平野という環境に慣れさせるための訓練も兼ね、この場に残しておく。


 ここからアルトリウシアまで…距離だけを考えれば、ダイアウルフの脚なら日帰りも可能だ。だが、今回は初回であるため、安全なルートを探しながらの進行になる。大潮でも水没しない、それでいて海上の漁船やアルトリウシアの住民たちに見つからないルートを探さねばならない。

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