第288話 キノコを食べ始めたカール

統一歴九十九年四月二十四日、夕 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 陽が西に傾いたこの時間、全天を雲が覆っていなければ目に見える風景は秋らしい黄色に染まって見えたことだろう。灰色のまま明るさだけを失っていくアルトリウシアの空の下で、カールは左右から身体を支えてもらい、緊張しながら回廊ペリスタイル食堂トリクリニウムに向かって歩いていた。


 カールは生まれて初めて、家族から離れた。カール付きの侍女たちの顔ぶれはそのままだが、今この場に、この屋敷ドムスにカールの家族は誰一人残っていない。父マクシミリアンはこの世ならぬ処へ旅立っていたし、母エルネスティーネは姉ディートリンデと妹エルザ、カロリーネを伴ってティトゥス要塞カストルム・ティティへ帰ってしまっている。これからしばらくの間、カールは一人家族の許を離れて、降臨者リュウイチの許で暮らさねばならない。

 そして、今カールに付き添って歩いているのは侍女のクラーラと、その降臨者リュウイチ本人だった。


 降臨者リュウイチ…カールの病気をいとも簡単に治し、莫大な銀貨を侯爵家に融資してくれた大恩人ではあるが、その正体はかつて大戦争の終わりに現れ、この世界ヴァーチャリアにいたゲイマーガメルをたった一人で打ち滅ぼしたという伝説の《暗黒騎士ダークナイト》と同じ身体と力を持つ強大無比な降臨者だ。


 カールの趣味は英雄譚である。《レアル》から伝わった数々の騎士物語、そしてそれらを下敷きにこの世界ヴァーチャリアで創られた数々の読み物。それらは病床に臥せってばかりいるカールを元気づけようと、叔父のアロイスが教えてくれたものだった。カールも物語に描かれる英雄たちの冒険にのめり込んでいった。

 そんな英雄譚のうちこの世界ヴァーチャリアで創られた物語の多くに共通して登場するのが《暗黒騎士ダークナイト》だった。特に英雄が悲劇的な最期を遂げる物語にはお決まりの様に登場する。稀に、物語の悪漢を戯れに殺してハッピーエンドをもたらすこともあるが、だいたいは抗いようのない災禍を齎す絶対者として描かれている。


 カールの病を治し、希望を与えてくれ、そして今まさにカールの肩を支えてくれているのが、その《暗黒騎士ダークナイト》その人となれば、緊張しない方がおかしいだろう。

 これまで接した印象では温厚な大人の男性ではあるが、母エルネスティーネからはくれぐれも失礼のないようにと言われている。カールに言わせれば失礼なんかするはずがない。今こうしてアルビノの彼が日の当たる回廊ペリスタイルを歩けるのも、リュウイチの光属性ダメージ無効化の魔法グレーター・マジック・シェイドのおかげなのだ。しろって言われたってするものか…ただ、うっかり失礼なことをしてしまうかもしれないという恐れは抱いていた。


 そうした興奮と緊張もあって、食堂トリクリニウムにたどり着いた時には既にカールはかなり披露してしまっていた。椅子に座ったとたん、ハァーと大きく息を吐き、しばらく過呼吸でも起こしたかのように肩で息をしている。もっとも、緊張と興奮が無かったとしても、カールの今の体力では結構な運動だったわけだが…。


『大丈夫かい?』

「大丈夫ですか、カール様?」


 歩いている時は赤かったカールの顔は、今や青くなりかけていた。


「ゼェ…ハァ…ゼェ…ハァ…大丈夫…です」

 

 実はちょっとめまいを覚えいていたカールだったが、母の『失礼のないように』という言いつけが頭をよぎり、強気の回答をしてしまう。


『無理はしないでね。』


 リュウイチはそう言うとカールの右隣に座った。その更に右隣にリュキスカ、カールの正面にルクレティア、カールの左隣にアロイス、更に左隣にヴァナディーズが腰かける。アロイスはエルネスティーネの頼みもあって朝と夕方、カールの様子を見に来ることになっていた。今日はその一回目だが、だったら夕食も一緒にとリュウイチに誘われたこともあって御相伴ごしょうばんに預かっている。公式な宴会コンウィウィウムではなく、ごく私的な家族でとる夕食ケーナという位置づけであるため、食卓は男女別にはなっていない。


 メニューは今回は特別にカールを歓迎する意味でちょっとだけ御馳走になっているが、今後はリュウイチの方針でごく一般的な普通の料理が用意されることになっている。そして、カールに用意された例の毒麦だが…実はそのままになっている。


 毒麦を仕込んだ犯人は特定できていない。そもそも、本当に意図的に毒麦を仕込んだのかどうかさえ断定できていない。

 仮にカール暗殺や侯爵家の権威失墜を狙った工作だったとして、今大々的に捜査に乗り出せば犯人のシッポさえ掴めない可能性が高い。そもそもカールが毒を盛られたという事実が世間に広まるだけで、今のアルトリウシアの状況では政情が一気に不安定化する危険性がある。毒麦混入が侯爵家の権威失墜を狙った工作であるならば、それだけで既に犯人の得点になってしまうだろう。

 また、仮に黒幕が有力な貴族パトリキだった場合、なるべく秘密裏に政治的に解決してしまう方が望ましい。だが、事件を公にして大々的に捜査をしてしまっていると、犯人側が引っ込みがつかなくなってしまい、穏便な政治的解決も望めなくなってしまう。レーマ帝国内での貴族同士の戦争などという事態は避けねばならない。

 なるべく事件を露見させることなく、犯人とその意図を突き詰めねるためには、今は事を公にすべきではない。事を秘したまま犯人を特定し、意図を掴むためには、あえて毒麦に気づかないフリをするのが最適だ…というのが、エルネスティーネやルキウスたちの出した結論だった。


 侯爵家側が毒麦に気づいて明らかに何らかの対応をとったと犯人が知ったら、犯人は証拠を処分して逃げてしまうだろう。それでは証拠も掴めないし黒幕を特定することもできない。それどころか第二第三の別の手を繰り出してくる危険性が出て来る。

 だが侯爵家が毒麦に気づいていなければ犯人は逃げない。それどころか、成果を確認しようとするだろう。仕込んだ毒麦の効果が出ているかどうか、カールの様子を知ろうとするに違いない。カールに何の異変もなければ、仕込んだ毒麦を確認しようとするだろう。もしかしたら、毒麦を増やそうとすらするかもしれない。いずれにせよ、それまでと全く異なる第二第三の手を繰り出してくるのは先延ばしになるはずだ。そしてシッポも掴みやすくなる。

 結果、毒麦はあえてそのまま放置され、料理に使う食材は全て一度リュウイチの浄化魔法で無毒化することになっていた。


「調子はどうだい、カール?」


 食事の前にいかにも貴族らしいお決まりの挨拶をし、全員が各々の信ずる神に食前の祈りを捧げて食事が始まると、さっそくアロイスがカールに尋ねた。


「大丈夫だよアロイス叔父さん。」


「あれ?キノコは嫌いじゃなかったか?」


 アロイスの知るカールは偏食家で、キノコはカールの嫌いな食べ物の一つだった。だが、食卓に出された料理の多くにキノコが入っている。


「嫌いだけど食べるよ。食べなきゃダメなんだ。」


 カールはそう言うと小さくブロック状に刻まれたキノコの入ったスープをスプーンで掬い、それを見ながら深呼吸して覚悟を決めると目を閉じて一気に口に入れた。そしてみんなが見ている前でそのまま噛まずにゴクンと飲み込む。


「おお~偉い、偉いぞカール!」


 アロイスが思わず感嘆の声を上げる。実はアロイスもキノコが嫌いだった。彼も子を持つ親であるし、貴族ノビリタスとして会食に出ることもあるため、必要とあれば我慢して食べるが、食べずに済むのであれば出されても食べない。


『ちゃんと噛んだ方が良いよ?』


「すみません…歯触りが…嫌いなんです。あのクニュっとした感じが苦手で…」


 リュウイチが苦笑しながら注意し、カールが申し訳なさそうに謝るとアロイスがフォローする。


「いやいや、食べれただけでも偉い。何で食べれるようになったんだ?」


「リュウイチ様がおっしゃられたんです。骨を強くするためにはキノコを食べなさいって。」


「そうなのですか!?

 骨を強くするには牛乳だって聞きましたが?」


 大方、リュウイチに言われたのだろうとは予想がついていたアロイスだったが、カールの口から説明されたリュウイチがキノコを勧めた理由が予想外だったため驚きを隠せない。


『ああ、骨はカルシウムで出来ていて牛乳はカルシウムが豊富なんですが、カルシウムはただ口にしても消化吸収されないんです。カルシウムを吸収するにはビタミンDが…えっと、ビタミンはわかりますかね?』


「え、ええ…野菜や果物に含まれてて、不足すると病気になるって…」


 この世界ヴァーチャリアにも栄養学の知識は《レアル》から伝わっており、ビタミンという物の存在も伝わっていた。しかし、ビタミンの種類や効果、そしてどのビタミンがどの食品に含まれているかといった詳細までは伝わり切っていない。ただ、ビタミンは身体に必要なもので、野菜や果物に多く含まれており、不足すると壊血病かいけつびょう脚気かっけといった病気になる…という程度のことが知られているだけだった。


『そのビタミンの中でもビタミンDというのがカルシウムを吸収するために必要で、ビタミンDが無いと牛乳をどれだけたくさん飲んでもカルシウムが吸収されないんです。

 普通は日光を浴びると身体の中で作られるんですが、カール君は体質的に日光を浴びれないのでビタミンDが作れない。だからビタミンDが含まれている食品を食べて補給するしかない。

 そして、ビタミンDはキノコに豊富に含まれているんです。』


「だからボクはキノコは食べないといけないんです。」


 アロイスがリュウイチの説明にホウと目を丸くしていると、何故かカールが得意げに言った。そして、キノコ入りのスープをスプーンで掬い、顔の前まで持ってきて覚悟を決めて口に入れる。

 今度はイヤそうな顔をしながらもちゃんと口を動かしてからゴクンと飲み込んだ。


 今までカールの食事には必ず牛乳が大量に使われていた。しかし、リュウイチからビタミンDの話を聞いてからというもの、カールの食事から牛乳が減らされ、代わりに必ずキノコが使われるようになっている。

 カールもその話を聞いて以来、嫌いなキノコを克服しようと頑張っていた。最初は一つ口にするだけで吐き出していたが、今は小さく刻んでもらう事で何とか吐き出さずに食べれるようになってきている。

 それだけでもアロイスからすれば、カールは随分と成長しているように見えた。

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