第293話 船を見送るイェルナク

統一歴四月二十五日、午後 - アルトリウシア湾/アルトリウシア



 アロイスとの会見を終えたイェルナクはヘルマンニを呼びつけた。これはヘルマンニが警備上の理由からイェルナクに対して迎賓館ホスピティオから出ないでくれと要請していたからで、別にイェルナクがヘルマンニを格下として扱っているとかいうことではない。立場がどちらが上かと言えば艦隊司令プラエフェクトゥス・クラッシスであるヘルマンニの方が上であり、イェルナクもそのことは重々承知している。


「急ぎの用だそうじゃが何かいの?」


「ヘルマンニ卿!急いで一番速い船を用意してください!」


「一番速い船?

 『ナグルファル』号は漕ぎ手が足らんし、『ヒュロッキンホルニ』号は他の捕鯨船と共に出漁中だ。『グリームニル』号は今、浜に揚げて船底の掃除中。『スノッリ』号は今出かけておる。

 何がしたいんじゃ?」


「サウマンディアのウァレリウス・カストゥスマルクス閣下を追わねばなりません。」


「無理言うな!

 ウァレリウス・カストゥスマルクス閣下は『スノッリ』号で出港したんじゃぞ?」


「その『スノッリ』号とは?」


戦船ロング・シップじゃ。速いぞ?」


「その『スノッリ』号でサウマンディウムまで行くのですか?」


「いんや、トゥーレスタッドじゃ。そこでサウマンディアの船に乗り換える。」


「なら、荷物を乗せ換える時間があるはずです!

 急げば間に合うかもしれません。お願いしますヘルマンニ卿!」


 と、呼び出したヘルマンニ相手にイェルナクは騒ぎ立て、仕方なくヘルマンニは浜に揚げて船底の掃除をしていた『グリームニル』号を急遽進水させた。迎賓館ホスピティオの警備にあたっていた水兵たちをそのまま漕ぎ手にし、イェルナクとその随行者たちを乗せると大急ぎで出港…全速力でトゥーレスタッドへ向かったが、既にマルクスは出港した後だった。トゥーレスタッドが見えて来た時、サウマンディアのものと思しきスループ艦がトゥーレ水道の向こう側を外海に向かって航行している姿が見えた。


「アレだ!アレですヘルマンニ卿!アレを追いかけてください!!」


 『グリームニル』号の船首楼せんしゅろうから前方に見える船影を指さし、イェルナクがヘルマンニにむかって叫んだ。だが、イェルナクの声を聞いて船首楼に登って来たヘルマンニは、イェルナクの指さす船影を見つけると顔をしかめ首を振った。


「無理じゃ、ありゃあもう追い付けん」


「何故です!?

 目と鼻の先にいるじゃありませんか!!

 この船の快速を持ってすれば、追い付けでしょう!?」


「見なされイェルナク殿、あのスループ艦は縦帆じゅうはんを張って風上に向かって走っとる。じゃがこの船には横帆おうはんしかない。風上に向かって走るのはアッチの方が速いんじゃ。しかもアッチは水道を越えて既に外へ出てしまった。外海に出れば風も受けやすくなり、ますます速度差は開くじゃろう。 

 こっちはもうここまで来た時点で漕ぎ手もみんな疲れとる。とてもじゃないが追い付けん。」


 『グリームニル』号はここまで帆を張らずに櫂走していきていた。櫂を漕いで進む櫂船が全力を発揮できるのはせいぜい十五分ほどである。漕ぎ手の人力に依存するのだから、漕ぎ手が疲れてしまえば速力は低下せざるを得ない。『グリームニル』号は漕ぎ手を倍ほども乗せて約三十分ごとに交代させながら高速で走って来た。漕ぎ手は既に二巡目で、今漕いでいる漕ぎ手も、待機中の交代要員もどちらもかなりへばっており、特に甲板中央で待機中の漕ぎ手は船首楼の上で騒ぐイェルナクを恨めしそうに見上げていた。


「そ、外海まで追いかけても追いつけませんか?」


 ヘルマンニはハァと大きくため息を一つついて答えた。


「無理じゃな。追い付くとしたらサウマンディウムに達する頃じゃろう。

 言っとくが、この船はサウマンディウムまで行く準備はしとらんぞ?

 何せ大急ぎで出てきたんじゃからな。」


 海と船の専門家であるヘルマンニにそう言われては、イェルナクはほぞを噛むしかなかった。


「く…わかりました。ヘルマンニ卿、御助力いただきありがとうございました。」


 悔しそうに拳を握りしめてうつむくイェルナクにヘルマンニは声をかける。


「こっからどうしなさるね?

 トゥーレスタッドへでも寄るかね?」


「トゥーレスタッドへ?」


「もし、サウマンディウムへ行く船があるなら手紙くらい託せるじゃろ?」


 何の用かは知らないが、それほどサウマンディアの人間に急ぎの用があるのなら、直接は無理でもせめて手紙くらいは出せる。ヘルマンニなりの親切だった。

 だがイェルナクは考えた。


 サウマンディアが、プブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵が善意の第三者であるならばここで手紙を出すべきだろう。だが、あまりにも早いアルトリウシアへの派兵からすると、ディンキジクの唱えた陰謀論が現実のように思われてくる。ディンキジクの陰謀論が真実でプブリウスがグルならば、今やっているサウマンディアを牽制役としてハン支援軍アウクシリア・ハン側に引き込もうとする方針は成功しない。中立的立場を守らせることすら不可能だろう。このままサウマンディアへの接近を図り続けるのは危険だ。

 だからといって、今から敵対勢力として認定するのは早計だろう。こちらの誤解である可能性はまだ消えていないのだ。陰謀論が杞憂にすぎず、サウマンディアが未だ善意の第三者の立場でいるのなら、ここで急に態度を変えてサウマンディアと距離を取れば、サウマンディアが完全にアルビオンニア側についてしまうかもしれない。そうなれば、せっかくレーマにアーディン達を送り込むことで牽制したアルトリウシアが早期に暴発し、エッケ島攻略に乗り出す危険性が高まってしまう。


 まずはサウマンディアの立ち位置を確認することが重要だ。だが、それをするためにはどうすればいい?今、感情が高ぶっているイェルナクには落ち着いて思考を巡らせることができなかった。


「い、いえ、ヘルマンニ卿。

 お申し出はありがたいのですが、今はやめておきます。」


「ほうか…じゃあ、どうするね?

 エッケ島へ帰るか?それともセーヘイムへ戻るかね?」


 ヘルマンニとしては出来ればエッケ島へ届けてしまいたいと思っていた。できることならそのまま二度とセーヘイムに来てほしくない。


「そうですね…まずはムズク閣下と対応を協議せねばなりませんので、エッケ島へお送りいただければありがたく存じます。」


「ふむ、ええじゃろう。

 取り舵ポート、あと帆走はんそう用意じゃ。」


 イェルナクから期待通りの返答を貰うと、ヘルマンニはやれやれと言った感じで甲板上にいた船長に命じた。船長が復唱し、乗員たちにより具体的な命令を細々と命じ始めると、船上はにわかに騒がしくなってい行く。船体が右に傾斜し、船首が左へ進路を変え始めると同時に、帆桁ビームが引き上げられ、風を受けた帆が急速に広がる。それによって船体は今度は左へ傾き始める。


「ところでイェルナク殿?」


「何でしょうかヘルマンニ卿?」


「アレは一体何をしとるんじゃ?」


 ヘルマンニはさも不思議そうにエッケ島の北側斜面中腹辺りを指さして尋ねた。そこはやや突き出した岩場だったが、その周囲の樹木が伐採されており、岩場の上には土嚢やら丸太やらが積まれて何かを作っている様子だった。


「さ、さあ…申し訳ありませんが私も存じません。

 見張り台でしょうか?」


 そこで何を作っているのか、イェルナクも本当に知らされていなかった。エッケ島の防衛体制についてはディンキジクの管轄であり、イェルナクの守備範囲ではない。イェルナクはハン支援軍アウクシリア・ハンに入隊して以来、ずっと文官のような仕事だけをしていたので、軍事に関してはほとんど素人に毛の生えた程度の知見しか持ち合わせていなかった。

 しかし、彼らが見つけたのはディンキジクの命令で建設されている途中の砲台の姿だった。

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