第285話 新たな日常へ

統一歴九十九年四月二十四日、昼 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 降臨者リュウイチの住まうマニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストルム・マニの新たな住人となったカールの寝室には、エルネスティーネをはじめとする彼の家族と侯爵家家臣団が集まり別れの挨拶をしていた。


「それではカール、寂しい思いをさせてしまいますが、週末には必ず会いに来ますから、いい子にするのですよ?」


「分かりました母上、こちらにはスパルタカシアルクレティア様もいるし、クラーラたちもいるからボクは大丈夫です。頑張って見せます。」


 本来であえば大協約で定める「恩寵おんちょうの独占」に反するはずの降臨者によるカールの治療を可能とするため、カールは「借金の人質」という名目でリュウイチに身柄を預けることとなった。それが単なる名目ではないという証拠づくりのため、カールはこのままリュウイチの邸宅ドムスとなった陣営本部プラエトーリウムで暮らすことになるのだが、さすがにエルネスティーネたちまで一緒に同居することは出来ない。

 エルネスティーネには侯爵夫人マルキオニッサとしての職務があってティトゥス要塞カストルム・ティティに帰らねばならなかったし、本来神聖不可侵であるはずのリュウイチの屋敷に一領主がいつまでも留まるわけにはいかなかったからだ。リュウイチとしては外出できない以上、屋敷ドムスの中が多少にぎやかになってくれた方が退屈しなくて済むし、そうしてくれてかまわないとも実際に言ったのだが、さすがにその申し出に甘えることはエルネスティーネにはできなかった。

 結果、カールとその侍女たちだけを残し、侯爵家一家はティトゥス要塞カストルム・ティティへ帰ることとなった。対外的には現時点ではリュウイチの存在を明らかにすることは出来ないので、カールは叔父であるアロイスに軍事について師事するためにマニウス要塞カストルム・マニへ引っ越すということになっている。そして、外に出れないカールのために、侯爵家一家は週末だけマニウス要塞カストルム・マニを訪れて日曜礼拝を共にすることになっていた。


「ではアロイス、後のことは…カールのことをお願いします。」


「お任せください姉上エルネスティーネ、リュウイチ様のお許しもいただいておりますので、毎日朝晩必ずカール閣下の御様子をうかがわせていただきます。」


 カールがアロイスに師事するためにマニウス要塞カストルム・マニへ引っ越したという発表のアリバイ作りとして、アロイスは毎日この陣営本部プラエトーリウムを訪れて良い事になっていた。もっとも、彼には彼の軍務があるので朝と晩の食事を一緒に取りにくるぐらいになるだろう。

 少しばかり面倒な事ではあったが、これは侯爵家にとって、そしてキュッテル一族にとってはかなりメリットのあることでもあった。カールが降臨者による治療をはじめ庇護を受けられるというのももちろんあるが、そのカールを見舞うという名目でアロイスがリュウイチと毎日接する機会を持つことができるのである。リュウイチは特別な理由でもない限り基本的にカールと一緒に食事を摂ることになっており、そこにアロイスも同席できるのだ。


 より高位の王侯貴族との接点を確保する…それは貴族ノビリタスにとって極めて重要な意味を持つ。貴族ノビリタスにとって政治力とは、とりもなおさずコネクションによって成立するものであるからだ。降臨者…それも疑いようもなく史上最強の力を持つ伝説の《暗黒騎士ダークナイト》本人であるリュウイチとの間にパイプを持つことができたなら、レーマ帝国貴族にとってこれ以上価値あるコネクションは無いだろう。

 現在リュウイチとの接点を直接有する上級貴族パトリキはエルネスティーネ、カールの母子、ルキウス、アルトリウスの父子、そしてルクレティアの五人だけなのだ。「家」単位で見ればアルビオンニア侯爵家、アルトリウシア子爵家、そしてルクレティアのスパルタカシウス家の三家のみ。アロイスはその三家に次ぐ接点を持つことになり、侯爵家の外戚にあたるキュッテル家にもたらされるであろう利益は計り知れない。


 アロイスは兄であり侯爵家の御用商人を務めるグスタフからそのことをしつこいくらいに言い含められていた。キュッテル家はエルネスティーネの実家で侯爵家にとっては外戚であるが、エルネスティーネの輿入れによって侯爵家の様々な利権に割り込んで来た新参者として、現侯爵家の元々の出身母体一族であるハッセルバッハ家とはあまりうまくいっていない。

 実際、エルネスティーネが侯爵家を継ぐ際も、ハッセルバッハ家の面々は多くが反対し、マクシミリアンの弟であるレオナード・フォン・クプファーハーフェン男爵に家督を継がせようとしたのだ。もしもこの時、レオナード自身がエルネスティーネを支持しなければ、エルネスティーネは今ごろ侯爵家を継げていなかっただろう。ハッセルバッハ一族は担ぐべき神輿を失ったため、消極的ながらエルネスティーネによる侯爵家の相続を認めたが、外戚であるキュッテル家との反目が無くなったわけではなかった。


「じゃあカール、アロイス叔父様やリュウイチ様にわがまま言って困らせちゃダメよ?」


「分かってるよ姉さんディートリンデ


兄様カール、またね」


「またね、エルゼ。」


 ディートリンデとエルゼもカールと挨拶を済ませると、カール以外は寝室から外へ出た。晴れているわけではないが、それでも暗幕に閉ざされているカールの寝室から出るとその世界は一瞬目に痛みを覚えるほど明るい。

 本当はリュウイチからもう一度光属性ダメージ無効化の魔法をかけて、カールを見送りのため外へ出そうかと申し出があったのだが今回は断っていた。カールはリュウイチの魔法の力で初めて日中の外出を経験して以来、体力回復のための運動に取り組んでいる。今日も朝食後に一時間近くベッドの上で運動をしていて、既にひどく疲れていたのだった。先ほどの挨拶の時も、まぶたが半分落ちていたほどだ。このため、誰かに背負われて外に出たとしても、どうせ途中で寝てしまうだろうとの予想から遠慮することにしたのだった。


 リュウイチはエルネスティーネたちは見送ろうと中庭アトリウムまで付いて来てくれた。リュウイチは中庭アトリウムまでは来れるが、玄関ホールウェスティブルムから外は人目に付く可能性があるので出られない。リュウイチが見送れるのはここまでだったのだ。エルネスティーネは玄関ホールウェスティブルムでリュウイチにお礼と挨拶を述べ、「くれぐれもカールのことをよろしくお願いします。」と頼むと、リュウイチは『微力を尽くします』と返事した。

 玄関オスティウムから外に出て、待っていた馬車に子供たちを先に乗せ、自分が乗る前にエルネスティーネは振り返ってアロイスに話しかける。


「じゃあアロイス、しつこいようだけどカールをお願い。」


 カールは八歳になるが、カールが親の許を離れて生活するのは実はこれが初めてのことだった。そのことを想うと、どうしても母親として老婆心を抑えきれないのだ。


「分かってるよ姉さんエルネスティーネ

 それよりもこのこと、クプファーハーフェン男爵には…」


 レオナード・フォン・クプファーハーフェン男爵はエルネスティーネの亡夫マクシミリアンの実弟であり、侯爵家一族の最有力者であると同時に侯爵家一族の中で最大のエルネスティーネの理解者でもあった。エルネスティーネにとって大恩人でもあり、アルビオンニア貴族がエルネスティーネ支持派とハッセルバッハ派に分断してしまうのを防ぐ役割を担ってくれている重要人物である。

 当然ながらハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱事件のことも降臨のことも降臨者リュウイチを受け入れたことも手紙で報告してあるが、現時点ではまだ返事は返ってきていない。


「ええ、それは手紙には書いたわ。

 本家筋フォン・ハッセルバッハの貴族たちの中で、頼りになるのはあの方だけですもの。アナタも、グスタフ兄さんから何を言われたか想像がつくけど…」


 ハッセルバッハ家とキュッテル家の確執の最大の原因はグスタフにあるとエルネスティーネは考えていた。そしてそれはある程度事実であった。

 グスタフは利益を追求し過ぎる。商人として当然と言えば当然なのだが、それがハッセルバッハ一族の利権とたびたび衝突を起こしており、それがハッセルバッハ家のキュッテル家に対する反感の原因になっていた。グスタフはキュッテル家がハッセルバッハ家に成り代わって侯爵家を乗っ取ろうとしているかのような言動をたびたびしていたのだ。


「大丈夫だって。ザビーネの実家はフォン・シュバルツゼーブルグだよ?」


 アロイスの妻ザビーネはハッセルバッハ家の分家にあたる騎士フォン・シュバルツゼーブルグ家の娘であり、キュッテル家とハッセルバッハ家の対立解消を見込んでの政略結婚だった。しかし夫婦仲は良好で二男三女をもうけている。


「そういえばハン支援軍アウクシリア・ハンのイェルナクからの会見要請はどうしたの?」


「明日でよければ会ってやるって返事しといた。

 どうせウァレリウス・カストゥスマルクス閣下の見送りにセーヘイムに行く予定だったからね、そのついでさ。」


「相手はハン族よ?何を考えているかわからないわ。

 くれぐれも油断しないでね。」


「分かってるさ。どうせアルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアハン支援軍アウクシリア・ハンを攻撃するんじゃないかって心配してるだけだよ。アイツらはバカかもしれないが貴族はずる賢い。下手なことはしないさ。」

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