第284話 新たな任務
統一歴九十九年四月二十四日、昼 - エッケ島・ハン支援軍本営/アルトリウシア
エッケ島南斜面中腹に位置する
これを防ぐため、ホールの壁際で起居する王族たちは頭上に布を張って降ってくる煤を防ぎ、同時にカーテンの様に垂らしてささやかなプライベートを確保していた。
せめて煤の出ない、あるいは少ないランプやロウソクでも使えば良さそうに思えなくもないが、この竪穴式住居は常に火を焚いて煙で天井を燻し続けなければ虫が湧いたり湿気が溜まってカビが発生したりするから、常に焚火や
実際、ハン族がここエッケ島に上陸して最初の数日、この大ホールの中は湿気がこもって酷い有様だった。しかし、他に王族が住まうに足るだけの広さを有する建物が存在しなかった。他はすべて隙間風の拭きぬけるあばら家ばかりで、辛うじて雨がしのげる程度の漁師小屋しかなかった。仕方なくここをかりそめの王宮と定め、火を焚き続けて約一週間ほどするとようやく湿気や虫から解放され、薄暗さと時折天井から降ってくる煤以外は気にならなくなってきている。
最近は絨毯や布の張り方などに工夫を凝らし、快適さと同時に王宮としての威厳を演出できる余裕もでてきていた。
その大ホールに、今や
衛兵に案内され、半地下式の大ホールの正面玄関から入ると、衛兵隊長が良く通る声で報告する。
「騎兵隊長ドナート殿、
初めて入った者にとって、そこはまるで別世界だった。常夜の闇を思わせる黒の世界…天井は元々煤で黒ずんでいるが、更に煙でおおわれて何も見えない。左右には一抱え程もある太い柱がホール中央で交差するように斜めに並んでいるが、やはりその最上部は煙と暗闇の彼方にあるようだ。柱より外側の壁や天井は全く見えず、左右を見渡せば柱より外側に豪華な絨毯が隙間なく吊るされ、その手前に焚火や篝火が焚かれて幻想的な雰囲気を醸し出していた。
そしてそれら巨柱、絨毯、篝火が並ぶ先には中央に玉座を据えた舞台がある。
「よく来たドナートよ!前へ参るがよい!!」
ホールの最奥から直属の上司であるディンキジクの声が響いた。
「返事は要りませぬ、ドナート殿。
左右に吊るされた絨毯の向こうには王族の皆様が控えておられますゆえ、お静かにお願いします。」
返事をする前に、ドナートの脇に立っていた衛兵隊長が小声で助言し、奥まで行くよう促す。ドナートは衛兵隊長に小さく礼を言うと、言われた通りホールの中央を黙ったまま奥へ進んだ。そして、ディンキジクの前あたりまで来るとそのまま玉座の方を向いたまま跪く。玉座には誰も座っていなかった。
「ドナートが参りました、
ディンキジクが玉座の背後に吊るされた絨毯の向こう側に報告すると、奥からムズクが現れた。跪き頭を垂れるドナートを舞台上から見下ろしながら玉座へ腰掛ける。だが、その手にはハン族の
「ドナートよ、騎兵戦力の状況はどうか?」
「ドナート、騎兵部隊の再編状況を報告せよ。」
ムズクの
「ハッ、今現在、新たに五騎が騎兵になる見込みにございます。
訓練を経て戦力化できれば、騎兵戦力は二十騎まで増えましょう。」
蜂起前までは三十騎いた騎兵隊はちょうど半数の十五騎にまで減っていた。エッケ島に来てから、新たに才能のありそうなゴブリン歩兵を選抜しダイアウルフとお見合いをさせたところ、七頭のダイアウルフがゴブリン兵を背中に乗せたが、その七組中二組は上手くいっていない。新たに騎兵として使えそうなのは五組だけだったが、それも単独任務がこなせるかどうかはまだ未知数だった。
「ご苦労である!
ダイアウルフこそ我ら
一層、
「ハッ!」
ディンキジクの訓令に覇気溢れる声でドナートが答えると、一呼吸おいてディンキジクが話を始めた。
「さて、ドナートよ。貴様の騎兵隊には新たな任務を二つ与えねばならぬ。」
「ハッ!」
「一つは、偵察部隊を編成し、船でアルトリウシア平野へ渡り、そこからアルトリウシアを偵察せよ。」
「ア、アルトリウシアをでございますか!?」
「うむ、現在セーヘイムに行っておられるイェルナク殿から昨日報告が届いた。
どうやら既に
イェルナク殿も
「では、アルトリウシア平野から
「そうだ、くれぐれも気づかれぬようにせよ。
セヴェリ川を渡る事は断じて許されぬ。
偵察部隊は複数編成し、交代で奴らの動向を監視し続ける体勢を作り上げろ。」
「ハッ!」
「もう一つの任務だが、これは工兵隊と共同で行ってもらう。」
「工兵と?」
「そうだ。ここエッケ島とアルトリウシア平野との通行の可能性を探ってもらう。」
「!?」
あまりにも意外な内容にドナートは思わず顔を上げそうになり、すんでのところで思いとどまって頭を下げなおした。
「エッケ島とアルトリウシア平野の間には船が通過できぬ浅瀬で繋がっておる。聞いておるかどうか知らんが、どうやら潮が引いている間であれば人が歩いて渡れるという噂があるのだそうだ。その可能性を探ってもらいたい。」
「…その…質問を、よろしいでしょうか?」
「許す」
「何故、その任務を我々に託されるのでありましょうか?
恐れながら、偵察の任務は納得できますが、もう一つの方は騎兵の仕事とは…」
浅瀬を歩いて通行できるルートを探せ…そんなものをわざわざ貴重なダイアウルフにやらせる理由がドナートには分からなかった。
「うむ、もっともな質問だ。
以前、クジラが打ち揚げられていた時にも確認できたことだが、エッケ島とアルトリウシア平野の中ほどの沖合であっても、浅いところは本当に膝ぐらいの深さしかない。そのようなところは
だが、そのような浅いところが本当にアルトリウシア平野まで繋がっているかどうかはわからんし、渡っている途中で高波が来ないとも限らん。ゴブリン歩兵では波に
基本的にゴブリンやホブゴブリンは泳げない。波に攫われるということは、そのまま溺れることを意味する。
「近くに船を待機させれば良いのでは?」
「人が歩けるほどの浅瀬だ。下手に船で近づけば座礁してしまう。
「それでダイアウルフに騎乗している我々ならば流されないだろうということですか?」
「その通りだ。
ダイアウルフならある程度泳げるだろう?」
確かにダイアウルフは犬かきで泳ぐことができる。ゴブリンやホブゴブリンなんかよりは余程マシだろう。体格も大きく体重もあるから、多少の波では流されない。武器や防具を外せば、ゴブリンを背中に乗せたままでも多少は泳ぐことができるはずだった。
「よほどの乗り手でなければ難しいかと存じます。」
ダイアウルフにとっても波に洗われながら歩けるルートを探すのは不慣れな作業のはずだ。当然、不安がって騎手のいう事を聞いてくれなくなる可能性が高い。ダイアウルフとの間に高い信頼関係を築けている騎手でなければできない作業だ。
だが、それはアルトリウシア偵察任務にも言えることだった。少人数で敵地近くまで潜入し、様子を観察する。しかも、アルトリウシア平野は地勢が短期間で変化してしまう湿地であり、来た時は通れたのに帰ろうと思ったら通れなくなっているという事が珍しくない。仲間と
これらの任務は古参兵にやらせるほかないが、そうすると今度は新兵訓練を指導できる古参兵が足らなくなってきそうだった。
「ドナートよ」
言外に難色を示すドナートにディンキジクが声をかけた。
「ハッ」
「ムズク閣下の御前である。」
「ハッ」
「つまり、これは最上級の命令だということだ、わかるな?」
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