第281話 聖女の仕事

統一歴九十九年四月二十三日、晩 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 人間の生活環境は時代と共に向上してきてはいるが、限られた空間での生活を強いられる船乗りは、航海中どうしても様々な制約を受けざるを得ない。特に狭い空間に大人数が乗り込まねばならない潜水艦なんかは現在になってもかなりな制約を強いられており、その最悪な物の一つが「人肌のベッドホット・ベッド」であろう。

 船が帆を用いることなく、もっぱら燃機関で航行するようになって以降、船員が交代で起きて二十四時間体制で船の運航を管理する当直制は当たり前になっている。当直に立っている船員は、当然持ち場に居て自分のプライベートスペースには戻らない。つまり船員のプライベートスペースは船全体の機能だけを考えれば一時的にとはいえデッドスペースになってしまう。そこで、デッドスペースを少しでも少なくするため、ベッドの数を乗組員の三分の二から半分ぐらいにまで減らし、誰かが当直に立っている間使われていないベッドで非番の乗員が寝る…という勤務体制が考案される。乗組員は当直を開けて帰ってくると、誰かがついさっきまで寝ていた生暖かいベッドに入って寝るわけだ。それが「人肌のベッドホット・ベッド」である。


 それは《レアル》世界の話だが、ところ変われば価値観も変わるものであり、「人肌のベッド」を庶民には縁のない贅沢と考えている人間も存在した。この世界ヴァーチャリア貴族ノビリタスたちである。

 彼らは自分専用の「ベッドあたため係」の奴隷を所有し、自分が寝る前のベッドに入らせ、体温で予熱させる習慣があった。冷たいベッドに入って身体がヒヤッとするのを嫌ったのだ。

 もっとも、「ベッド温め係」による「人肌のベッド」は短時間での予熱にすぎないのに対し、船乗りの「人肌のベッド」は他人が数時間睡眠をとった後のものである。「ベッド温め係」が温めたベッドが割と乾燥しているのに比べ、船乗りの「人肌のベッド」では布団や毛布が汗を吸って重く湿っているので、まったく同じというわけではない。


 「ベッド温め係」は大抵が若い女性の奴隷であり、特に体温の高い子供が選ばれた。体力的にも大して働けない子供の奴隷を少しでも活用しようという試みではあるのだが、子供の「ベッド温め係」はある程度成長するとそのまま主人の夜伽よとぎもするようになる。子供を「ベッド温め係」にするのは、初めて主人の相手をする際の抵抗を少しでも和らげようという予行演習的な意味もあったわけだ。


 奴隷が主人の性的搾取の対象となるのは、どの国、どの時代であっても変わらない。レーマ帝国でも奴隷は主人が手を付けているものだというのは当たり前の常識であり、ましてや「ベッド温め係」ともなればなおさらである。

 人権・人道といった観点からすれば到底看過できないものではあるが、当事者である「ベッド温め係」本人からすればむしろ望ましい仕事でもあった。

 「ベッド温め係」や、その後の「夜伽」の仕事をする奴隷女は、大概他の奴隷よりも特別扱いしてもらえることが多かったからである。ベッドを温めるだけなら楽なものだし、夜伽は苦痛である場合の方が多いが、他の重労働に比べればマシと言えなくもない。そしてそれらの仕事以外の部分で服を買ってもらえたりいい物を食べさせてもらえたりと、優遇してもらえるからだ。主人の子を身ごもりでもすれば、売られたり捨てられたりする心配も無くなり、他の奴隷よりずっと優位に立てる。

 もっとも、そのようなことがメリットとして感じられるような環境こそが、人権主義者・人道主義者にとって看過できないものなのではあるが・・・。


 とまれ、その「ベッド温め係」の仕事を頼まれもしないのに自ら率先してやっている女がここにいた…リュキスカである。

 ひょんなことからリュウイチ専属娼婦として雇われたリュキスカは、リュウイチが本人はヒトなのにホブゴブリンの…それも男の奴隷しか所有していないことを知り、貴族パトリキなら持っていて当たり前の「ベッド温め係」を持っていないことを不憫ふびんに思い、少しでもリュウイチに満足してもらおうと勝手にベッドを温める仕事を始めてしまった。

 本来なら主人の指示や許可も無く主人のベッドに入り込むなど許されないことだ。たとえ男主人が所有する女奴隷であってもだ。だがリュキスカはそういう部分についてはあんまりわきまえていなかった。リュキスカは誰かの奴隷だったことはないし使用人だったこともない。娼婦の母のもとに生まれ、娼館で育ち、娼婦になった女だったから、貴族ノビリタスの生活がどうとか礼儀作法がどうとかいう教育は受けたことが無かった。

 どうせ自分はもうリュウイチとベッドに入ってるんだし、専属娼婦なんだからベッドに入ったところで何も問題ないだろう…それくらいの軽い気持ちで勝手に始めていたのだった。


 リュウイチが降臨者だと聞かされ、自分が思いもかけず『聖女サクラ』になってしまった事を知らされてからのリュキスカの心情はかなり複雑である。

 貴族ノビリタスだって人間である。で娼館を訪れることが無いわけではないし、娼館で育ったといっても過言ではないリュキスカはそういうできた高貴な客の扱い方も心得ている…そのつもりだ。だからリュウイチの事もそのように扱っていた。リュウイチは身分を明かさなかったし、リュキスカのに対しても、決して不快に思っているような様子は見せなかった。

 だが、リュウイチは降臨者様だった。ではない貴族パトリキたちがへりくだって敬う相手である。しかも、その中でも最高位と目される、あの伝説の《暗黒騎士ダークナイト》本人だというではないか。貴族パトリキだって裸になってベッドに入ってしまえば同じ人間…という認識がリュキスカにはあったが、リュウイチはその“人間”ですらなかったのである。


 今日もベッドを温めるべきか、リュキスカはかなり悩んだ。

 今更のようにエルネスティーネやルキウスがリュキスカに何を期待していたのかを理解し、その責任の想像を絶する重さに心が押しつぶされそうだ。リュキスカのその小さな肩には、いつの間にか世界の命運が載せられていたのである。


 チョット!そんなんでいいのかい!?

 アタイ、ただの娼婦だよ!?


 もし、リュキスカが何かを間違えてリュウイチの逆鱗げきりんに触れてしまっていたら、もしかしたら今頃アルトリウシアは灰になっていたかもしれないのだ。そう考えると、ただの娼婦が背負うには責任があまりに重すぎる。


 いや、でも…アタイにできることなんて一つしかないし…


 できる事も求められている事も一つしかない以上、それをやるしかない。それは分かっているが、分かっていてもホントにそれでいいのかという疑問は尽きない。降臨者様を…あの《暗黒騎士ダークナイト》を、このまま一人の人間として扱っていいのだろうか?


 その辺の疑問には結局誰も答えてくれない。

 今朝の応接室タブリヌムでの、リュキスカが聖女サクラになったという報告…そしてその後明かされたリュウイチが降臨者であるという事実。あの後、リュキスカはルクレティアとヴァナディーズに呼び出され、降臨の事実やこれまでの経緯などの説明を受けた。まあ、貴族パトリキ達の難しい都合なんて半分も理解できなかったが・・・。

 それはさておき、じゃあ具体的にどうすればいいのかについて、ルクレティアも説明はしてくれなかった。他の貴族パトリキたちもそれは同じである。要するに彼らもどうしていいかわからない、手探り状態なのだ。むしろ、それを探る役割すらリュキスカに求められてるようであった。


 それはそうだろう…リュウイチとの睦事むつごとなど、リュキスカ以外の誰も経験ないのだから当然である。そう、リュキスカはこの世界ヴァーチャリアで唯一の降臨者に夜伽した女性…世界一のオーソリティなのだ。

 だからと言って自信を持てというのは無理な話だ。

 ルクレティアから魔力制御の手ほどきを受け…まだこれからしばらく毎日続けなければならないそうだが…ちょっとした衝突と和解を経てもリュキスカの不安は解消されない。


 リュウイチから話を聞ければよかったかもしれないが、残念ながらその機会は今日の日中は巡ってこなかった。ルクレティアの魔力制御の手ほどきと、赤ん坊の世話に明け暮れ、気づけば夕食の時間・・・そして夕食の時間は赤ん坊の授乳とタイミングが重なって結局話が出来ず、リュウイチが奴隷のホブゴブリンたちと酒飲みながらチェスをして大騒ぎしてる合間にリュキスカは今夜も一人で夕食を摂る羽目になった。


 今までやってきたことを、急にしなくなるってのも変な話だよねぇ…


 そしてリュキスカは今夜もリュウイチのベッドに潜り込むのであった。

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