第280話 情報収集
統一歴九十九年四月二十三日、午後 - セーヘイム/アルトリウシア
レーマ帝国がアルビオン島に進出してくる前から住んでいたブッカたちの集落セーヘイム。その住民のうちブッカの占める割合は、実を言うと半分ぐらいしかいない。アルトリウシアにとって最大の交易港であるセーヘイムは、レーマ帝国がアルトリウシアを開発していく過程で、交易に携わる商人や船乗りたちが多く移り住んで来たし、またアルビオンニアの海軍に組み込まれ
しかし、セーヘイムの住民の半分以上が漁業で生計を立てているという状況は今でも変わらない。交易を主業としている者は全体の二割にも満たず、水産加工を含め、ほとんどの者が何がしかの形で漁業に関わっているのが実情だ。
漁業も小舟で近場の河川やアルトリウシア湾内の浅瀬で貝を摂る漁師や、数軒の漁師で共同で定置網や
サムエルの妻メーリの実家はそうした規模の大きい、セーヘイムを代表する網元の一つだった。メーリの父ネストリは今ではもう自ら船に乗ることこそなくなっているが、実業家としては今でも現役で、家で抱えている様々な事業を取りまとめている。
「母さんただいま。」
「ロニヤ
「あら、メーリ!…まあ、インニェル様も!?
ようこそいらっしゃいました!
ちょっとアンタ!!メーリが帰って来たわよ!!
さあさあ!インニェル様どうぞこちらへ、メーリもいらっしゃい!
あらあらウルホ!?ラウハちゃんにミアちゃんも…
まあまあ、いらっしゃい、さあどうぞ!」
メーリの母ロニヤ・アルビドゥテルは娘家族の突然の来訪に驚きながらも、快く招き入れた。
「突然お邪魔してごめんなさいね、ロニヤさん。」
「いえいえ、いいんですよインニェル様。
孫の顔見させてもらえてもらえるんならいつだって大歓迎ですとも」
「ミア、メーリさん、ラウハちゃんとウルホをネストリさんに見せてあげて」
メーリとミアが「ハイ」と返事をして家の中へと消えていくと、その家の奥からすぐにネストリの普段の威厳溢れる姿からは想像もつかない猫撫で声が聞こえてきた。
その声を聞いてロニヤとインニェルは顔を見合わせて笑い出す。
「まったく、
「孫を見てああならない人なんて居ませんわ。
「でも男はどうも何か娘の産んだ孫は特別みたいよ?
ウチにも息子夫婦の子供がいるけど、ラウハちゃんが来た時は目尻の下がり方が違うもの。」
「ああ、そうね。
ウチはまだ息子しか孫を作ってないけど、私の父も私の子は兄さんたちの子より可愛がってたもの。」
「ああ、やっぱりオスモさんもそうだったの!?
エッバちゃんに子供が出来たら、きっとスゴイことになるわよ?」
オスモはインニェルの父だ。エッバはインニェルの娘でサムエルの妹だが、去年嫁入りしており、どうやら第一子を妊娠したらしいという話を聞いている。
「やあね…
御婆ちゃんになってしまった女同士、二人はコロコロと笑った。
「それで、今日はどういった御用向きかしら?」
一通り挨拶を済ませるとロニヤは尋ねた。単に孫の顔を見せに来たにしては時間帯がおかしい。ロニヤの家より裕福なはずのインニェルが、まさかロニヤの家の夕食を狙って押しかけてくるわけもない。何か用事があるに違いなかった。
「そうね、ロニヤさんトコって、たしかリクハルド卿の持ってらっしゃるお店に御魚を納めてたわよねぇ?」
「ええ…《
「いやね、
インニェルの家…つまりヘルマンニはセーヘイムの
だとすれば、テンプラの作り方
「まあ…じゃあ、ここじゃ何だから中でお話を聞きましょうか?」
「ごめんなさいね。」
メーリたちは居間でネストリたちと一緒に騒いでいるが、ロニヤはインニェルを誰もいない応接室に招き入れた。使用人に御茶だけ用意させると下がらせ、人払いをする。
「さ、お話は何かしら?」
「ありがとうロニヤさん。実はちょっと頼まれ事があってね、調べて欲しいことがあるのよ。」
「それは、さっきの話ぶりだと《
「そうよ。ホラ、ちょっと前に《
「ああ、あったわね。確か…
ウチから魚とか色々納めてる店だわ。」
「やっぱり?
そうだと思ったわ。」
「その
「いえ、さっきの噂の…娼婦?」
「ベルナルデッタ?」
「いえ、そっちじゃない方。」
ロニヤはこめかみに指をあてて記憶をたどり始めた。
「ああ…えっとね…たしかリュキスカって名前よ。
アルビオンニウムから流れてきたヒトの女なんだけど、病気だか産後の
「さすが良く知ってるわね!?」
わざと遠回しに話を持ってきていたのに、ロニヤの口からいきなり名前と素性が出てきてインニェルは素直に驚いた。
「いやね、お店の手伝いは良くしてたから、商品納める商人とかと付き合いがあったようなのよ。だからウチの行商人たちとも面識はあったみたいよ?」
リュキスカは
ロニヤ自身はリュキスカの事を知らなかったが、ベルナルデッタが負けたという噂話を聞いた時、その情報源が
「それでね、そのリュキスカって娼婦のことを調べたいのよ?」
「行方不明になったって話だけど…行方を捜してるの?」
「いえ、身元と言うか素性と言うか?…親戚とかの繋がりを調べたいの。」
「親戚?…たしか身寄りはないって聞いたわよ?
母親も娼婦で、父親が誰だかわかんないって…」
「兄弟も居ないのかしら?
あと、付き合いのあった
「身寄りはないっていうくらいだからいないんじゃない?」
アルビオンニウムから大勢の避難民が流れてきたとき、《
その《
「それを確かめて欲しいの…なるべく誰にも気づかれないように」
ロニヤはインニェルの顔をしばらく黙って見た後で尋ねる。
「……何か
「実はね…」
ロニヤがインニェルの部下なら、あるいは身分差があるなら「余計なことは訊くな」と無理やり黙らせて強引に言うことを聞かせることもできただろう。だが、ロニヤは部下でも使用人でもないし奴隷でもない。身分差は無いわけではないが強引に言うことを聞かせられるほど隔絶しているわけでもない。言ってみれば両者はほぼ対等な関係であり、息子の嫁の親…親戚である。お互いの信頼関係を崩さず、むしろ強化していくことを考えねばならない相手だろう。そのためには、秘密の共有は最も有効な選択肢の一つであった。
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