第279話 リュキスカの過去

統一歴九十九年四月二十三日、昼 - 《陶片》満月亭/アルトリウシア



 昼頃になると飲食店が昼食客で賑わうのは売春宿ポピーナでも例外ではない。一般的な食堂タベルナより上等で料亭ケーナーティオほど敷居の高くない飲食店としての顔も持つ人気店『満月亭』ポピーナ・ルーナ・プレーナの客の入りは、《陶片テスタチェウス》の中でもなかなかのものである。夜の営業時間ほどではないにしても、厨房で働くスタッフの頭数は夜の営業時間帯よりも少ないため、一人当たりの仕事量はそれなりに多く忙しい。半ば殺気立ったスタッフが立ちまわる厨房の様子は、さながら戦場のようだと言っても差し支えないだろう。


 その戦場のような厨房から壁を二枚ほど隔てた応接室タブリヌムでは、雇われ店長のヴェイセルがまたもや何の予告もなしに突然現れた困った来客を前に、香茶をすすりながら厨房とは様相の異なる戦いに身を投じようとしていた。


 ・・・・・果たして今日の用件は何だろうか?


 前回は店の大事な娼婦の一人を突然身請けしたいと言ってきた。それも当人をさらっておいて事後承諾を求めるという、到底承服しかねる要求を突きつけ、こちらが断われば貴族パトリキの権威を使い、リクハルドに無理やり話を押し通している。金払いは良いようだが、気を許していい相手でないことは確かだ。

 そんな人物がまたもや先触れも無しに押しかけて来たのである。警戒しないわけにはいかない。


店長ドミヌス・ポピーナエ、ラウリの親分がおいでになりました。」


 ドアがノックされ、ヴェイセルが立ち上がって戸を開けると、外にいたヒトの少女がそう告げた。


「こちらに御案内しなさい、ハンナ。」


「かしこまりました、店長ドミヌス


 しばらくすると再びドアがノックされ、ヴェイセルがドアを開けて出迎えるとラウリが渋面を作って入って来た。


「さて、アッシも暇じゃないんで、できれば前もってお知らせいただきたいんですがね、え~っと…カッシウス・アレティウスの旦那?」


 ラウリが部屋に入り、椅子から立ち上がったクィントゥスに開口一番そう言うと、クィントゥスは素直に謝罪した。


「申し訳ない、詳細は言えないが急がねばならぬ理由が出来たものでな。」


「急いでるってぇんなら、早速ご用件を伺いやしょうか?」


 ラウリがそう言いながら席に着くと、クィントゥスとヴェイセルも席に着いた。クィントゥスは今回も軍装のままで来ており、おそらく例のとやらに関係しているであろうことは想像がつく。しかも汗ばんでいるようだった。ここに来る前にラウリが伝え聞いた《陶片テスタチェウス》の門衛からの報告では、クィントゥスは馬を飛ばして来たらしいから、実際に急がねばならないのだろう。


「済まないが、人払いを要する案件だ…」


 クィントゥスは新たに来たラウリのために香茶を淹れているハンナをチラリと見ながら小声で言い、ラウリとヴェイセルが溜息をつく。

 そのまま無言の時間が流れ、室内に香茶の芳香が漂い始めた頃、ハンナは全員分の香茶を出し終えて退出していった。


「さて、お話をお伺いできますかな?」


「うむ、実はリュウ…リュキスカのことだ。」


 口元に運んだ茶碗ポクルムから熱い香茶をすすりつつ、上目遣いでクィントゥスを観察し続けるラウリの頬がピクリと動いた。


「リュキスカのヤツがどうかしたんですかい?」


「以前、頼んでいたリュキスカの身辺調査…あれを急いでもらいたいのだ。もちろん、秘密裏にだ。」


 ズズズーーーーッとわざと音をたて、クィントゥスを睨みながらラウリは熱い香茶を啜ってから上体を起こす。そして口に含んだ香茶をゴクンと喉を鳴らせて飲み込むと、ひどく間を開けて舌鼓したつづみを打って口を開け、口から一瞬息を吸い、今度はもったいぶるかのようにゆっくりと息を吐き出した。クィントゥスはその様子を眉一つ動かさずジッと見つめている。


 ラウリはクィントゥスから事件のもみ消しと共にリュキスカの身辺調査を依頼されていた。交友関係や親族の有無などである。

 ただし、事件のもみ消しの方が優先で、身辺調査は後々ゆっくりと…という話だったはずだ。


カッシウス・アレティウスクィントゥスの旦那、今アッシらぁをもみ消す方に全力を注いでいるところでさぁ。

 幸い、ハン族の連中が戻って来たとかいうんで、はだいぶ忘れられようとしてる。ここでリュキスカの身辺調査なんか始めちまったら、せっかく忘れられようとしている事件を住民どもに思い出させることになっちまう。

 こう言っちゃなんだが、両方いっぺんにってのぁムリってもんですぜ?」


 話の続きを待ってみたが、クィントゥスはそのまま口を閉ざしてしまったので仕方なくラウリが身を乗り出して答える。


「理屈は、理解しているつもりだ。

 秘匿が優先されるのは今までと同じだが、現時点で分かる限りの情報は一刻でも早く貰いたい。」


「ふーん…ただ、アイツぁ身寄りがないってのは本当でね。

 アイツがアルビオンニウムからアルトリウシアへ流れ着いた頃、アッシらも方々ほうぼう探したんだが、アイツの身寄りだってぇ奴ぁ居なかった。だからこそ、アッシやウチのエレオノーラ姐さんがアイツの面倒を見てたぐれぇでねぇ…」


 ラウリは背もたれに身体を預けながら言った。ラウリの言っていることは本当で、当時アルビオンニウムからアルトリウシアへ流れ込む避難民の量は膨大であり、とてもではないが《陶片テスタチェウス》では収容しきれなかった。当時 《陶片テスタチェウス》は街並みが整っているからと避難民たちにとっても人気の場所で移住希望者が殺到したが、《陶片テスタチェウス》住民に身寄りのない者はスッパリと切り捨て、《陶片テスタチェウス》住民に身寄りがあっても他の地域にも身寄りのある人物は遠慮してもらわねばならなかった。

 その過程でリュキスカの身元も当時調べられるだけは調べたのである。もっとも、調べなければならない人数が膨大であったため調べ切れていない可能性は多分に残されているが・・・。


「アルビオンニウムに居たというのは、確かなのか?」


「そいつぁ間違ぇ無ぇや。エレオノーラ姐さんはアルビオンニウムに居た頃からリュキスカの事ぁ知ってたんだ。だからリュキスカのヤツもエレオノーラ姐さんを頼って来たってぇ話しですぜ?」


「その…『エレオノーラ姐さん』というのは、リクハルド卿と噂のエレオノーラで間違いないな?」


「ああ?…ああ!…ああ、ああ、間違いねぇぜ…」


 ラウリたちにとってエレオノーラは当たり前の存在だし《陶片テスタチェウス》では知らぬ者の無い有名人である。だが、所詮は郷士ドゥーチェの愛人であることから、知らない人間がいたとしてもおかしくないが…そのことをラウリは失念してしまっていた。てっきり、クィントゥスも当然知っているだろうと思って話をしていたが、クィントゥス自身は噂で聞いたことがある程度であり面識があるわけではなかった。


「アルビオンニウムにいた時の身寄りなどについて知っていることは?」


「さあなぁ…聞いた話じゃ母親も娼婦で客との間にデキちまった子らしい。だから父親は誰だかさっぱりわかんねぇって話だ。

 生まれはチューアかサウマンディアらしいが、物心ついたかつかねぇかって頃にアルビオンニウムへ母親と一緒に流れてきたらしいな。詳しい事ぁ本人も分かんねぇらしいぜ?」


「その母親は?」


「とっくに死んじまってるさ!

 何かの病気だったってぇ話だな。

 アイツが十一か、十二だったか?…そのころに死んじまって、一人きりになったってぇ話だ。」


「その後、リュキスカはどうしてらしたのだ?」


「さあねぇ…詳しい事ぁ分かんねぇが、どうもウチのハンナ見てぇに…ああ、ハンナってのはさっきの、この御茶を淹れてた娘だ…あの娘みてぇに、母親が働いてた娼館で皿洗い見てぇな下働きしてたとか言ってたぜ。

 娼婦として働き始めたのもその店みてぇだ。」


「その店の関係者は?」


「火山災害のゴタゴタで…」


 ボンっと両手で爆発を表現するように両手を広げてジェスチャーする。


「ほとんどは死んじまってらぁ。これぁ間違ぇねぇぜ?

 アッシも知ってる店だったが、店ごと土砂に押し流されちまったんでね。アイツぁたまたま御遣いで出かけてて難を逃れたんだってさ。アイツ以外の生き残りがいるなんて話ぁ聞いたことが無ぇや。

 だから、アルビオンニウム時代のアイツを知ってんのぁ、アッシが知る限りじゃエレオノーラ姐さんぐれぇなもんだ。」


「こちらに来てから新たにできた身寄りはないのか?」


「強いて言えばアッシやこの店の連中ぐれぇなもんでしょうぜ?

 なんせアイツぁコッチに来た時にゃあ、もう腹もだいぶ膨れてたんだ。あれじゃ商売だって出来ねぇさ。

 だからエレオノーラ姐さんとアッシと、ここのヴェイセルとで面倒を見てたんだ。アイツが子供産んだのも、この店の娼婦用に用意してた家でだ。あん時ゃ大変だったぜ?産婆とか呼んでよぉ」


「ふーむ…では特に親密な得意客とかは…」


 ラウリは顔の前で手を振って否定する。


「無ぇ無ぇ…アイツぁ妊娠出産でずっと商売できなかったんだ。

 生まれた子もあの調子だったしよ…そういや、あの子は助かったのかい?」


「うむ、もう元気だ。」


「へぇ?!…あれじゃもう助からねぇと思ったんだがな。

 まあ、ともかくアレだったから、ずっと商売再開できずに子供の面倒ばっか見てたさ。さすがに金が無くなって、せめてわずかでも稼ごうって店で給仕の仕事ぐれぇはしてたけどな。

 なんせアイツぁ痩せてやがんだろ?

 あの身体つきじゃあ、モテねぇよ。まあ、愛想が良いし、チップもろくに取らねぇで給仕の仕事やってくれっから、客の受けは良かったけどな。

 だから今んトコ分かってんなぁそんなもんよ。」


 実際、それがラウリが把握しているリュキスカについての全情報だった。過去に調べた時の感触からしても、本格的に調べなおしたところで新たに分かることなどほとんど無いだろうというのがラウリの予想だ。


「そうか…ともかく、引き続き調査を頼みたい。

 これは今日の分の謝礼だと思って受け取ってほしい。報告はまとめて貰うという話だったが、新たに分かった情報はその都度報告するようにしてもらいたい。」


 クィントゥスはそう言いながら革袋を取り出すと、中からデナリウス銀貨を十枚取り出してテーブルにジャラッと置いて差し出した。ラウリとヴェイセルは無言のまま眉を上げて呆れとも驚きともつかぬ表情を浮かべる。その金額は先ほどの情報料としては多すぎるぐらいの額だった。もちろん、引き続き秘密を守るようにという口止め料も含んだ金額なのは明らかだった。


「そいつぁいいが、アイツぁ無事なのかね?

 急に調査を急げなんて言ってきたってことは、アイツの身に何かあったのかい?」


「いや、まったく無事だ。心配はしなくていい。」


「そうは言われてもねぇ、何も無ぇのに急ぐ事ぁねえじゃねえか。

 何かあったんだろ?」


「済まないが軍機に触れるのだ。詳しいことは言えん。」

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