第278話 リュキスカの悲鳴

統一歴九十九年四月二十三日、午前 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 一年を通して曇ってばかりのアルトリウシアでは、空が青くなくとも雨さえ降ってなければ「いい天気」と言われる。今日は雨は降りそうで降らない曇り空で、十分「いい天気」と言って良い空模様だろう。そのせっかくの「いい天気」にも関わらず、わざわざ窓を閉め切って薄暗くした、普段は使われていない食堂トリクリニウムの中で、リュキスカとルクレティアは仰向けに寝転がっていた。魔力制御の特訓である。


 わざわざ使われていない食堂トリクリニウムを使っているのは静かな環境を求めたからだった。二階の寝室クビクルム朝食イェンタークルムで使った食堂トリクリニウムは今、掃除でバタバタしていて少し騒がしい。応接室タブリヌムはいつ急な来客があるかもわからなかったし、陣営本部プラエトーリウムの中で静かな空間を独占できるのは今現在この食堂トリクリニウム浴室バルネウムしかない。浴室バルネウムは使っていない時は換気のために窓も戸も開きっぱなしにするので暗くできないし、外の音も防ぐことができない。結果、この食堂トリクリニウムを使わざるを得ないのだ。

 この食堂トリクリニウムはいくつかある食堂トリクリニウムの中で最も小規模なもので、陣営本部プラエトーリウムの主人が家族だけで食事を摂ることを想定しており、部屋の中央にさほど背の高くないコーヒーテーブルのような食卓メンサ寝椅子レクトゥスが二脚あるだけである。パッと見は事務的な応接セットに見えなくもない。

 赤に近い茶色に塗られた四脚の寝椅子レクトゥスには金華山織きんかざんおりを思わせるような明るい緑の生地に金糸で刺繍を施された表装のクッションが貼り付けられ、その上に横たわるリュキスカはホントに自分が触れて良いのかといういかにも小市民じみた不安に苛まれ、落ち着かない思いをしていた。


「では、仰向けになられましたら両手はおへその下に当てる感じで載せてください。

 あとは目はまぶたを半分開くくらいの感じで、視線は特に何かを見るような感じではなく、目から力を抜いて自然にしてください。」


「いや、あの…スパルタカシアルクレティア様?」


「私のことはどうぞルクレティアとお呼びください。

 何でしょうか?」


「いや、その『リュウイチア様』っての、何か落ち着かないんだけど…」


「貴女様は既にリュウイチ様の聖女サクラなのですから、リュウイチア様とお呼びするのは当然です、。」


 リュキスカはガバッと起き上がって、もう一つの寝椅子レクトゥスに横たわるルクレティアを見た。


「いや悪かったわよ!

 アタイだってさ、まさかリュウイチ様が降臨者だなんて思いもしなかったしさ!こんなんなるなんて思っても無かったしさ!スパルタカシアルクレティア様からリュウイチ様を横取りしようとかさ…そんなの…アタイ、娼婦だしさ…」


、落ち着いてください。」 


 リュキスカがまくしたてる間にゆっくりと起き上がったルクレティアがリュキスカを見据え、何かを押し殺してそうな声で言った。薄暗い部屋でリュキスカの輪郭と目だけが浮き上がって見える。


「……二つ目の名前が欲しいっておっしゃってたじゃありませんか…」


「そ、そうだけどさ!…そうだけど…

 そん時はスパルタカシアルクレティア様とリュウイチ様の関係とか良く分かってなかったしさ。リュウイチ様が降臨者様だとも知らなかったしさ。まして自分が聖女サクラになるなんて思ってもみなかったんだよ。

 だいたい、聖貴族コンセクラトゥスになったって聖女サクラになんにゃ何年もかかるって言うじゃないさ?

 アタイは被保護民クリエンテスだし、同じ氏族ゲンスとして氏族名ノーメンを名乗らせてもらえりゃいいなって…そうすりゃさ…」


「そうすれば?」


「そうすりゃさ…あんな立派な聖貴族コンセクラトゥス様の氏族名ノーメンを名乗れりゃさ。立派な貴族パトリキ氏族ゲンスの一員だって、見てもらえりゃさ…フェリキシムスだって…軍団兵レギオナリウスになれるだろ?」


軍団兵レギオナリウス?」


「アタイ、あの子を筆頭百人隊長プリムス・ピルスにするのが夢なんだ。」


 レーマ帝国で平民プレブスが立身出世しようと思ったら元老院議員セナートルになって執政官コンスルを目指すか、帝国内のどこかの軍団レギオーに入って筆頭百人隊長プリムス・ピルスを目指すかだろう。筆頭百人隊長プリムス・ピルスとは百人隊長ケントゥリオの頂点に立つ存在であり、平民プレブス出身の軍団兵レギオナリウス軍団レギオー内で到達可能な最高位にあたる。むろん、執政官コンスル筆頭百人隊長プリムス・ピルスのどちらが地位が高いかと言えば間違いなく前者である。

 しかし執政官コンスルは成れたとしてもレーマ帝国全体で一人だけだ。しかも、元老院議員セナートルとして実績やら何やら積んで、他の上級貴族パトリキたちを押しのけなければ成れない。そして平民プレブスでは元老院議員セナートルになること自体が絶望的だ。平民プレブス出身の枠が無いわけではないが、金とコネもない辺境出身の貧乏人パウペルにとっては雲を掴むような話である。

 だが筆頭百人隊長プリムス・ピルスなら、金は無くても実力さえあれば成れる可能性があるのだ。そして、一人前の男として尊敬されるのも筆頭百人隊長プリムス・ピルスである。長い平和が続いて貴族ノビリタスの間では惰弱な風潮が蔓延しつつあったが、平民プレブスの間では今でも質実剛健を旨とする古式ゆかしきたっとばれる文化が残っているのだ。

 軍団レギオーに入団して筆頭百人隊長プリムス・ピルスを目指す・・・それはレーマ帝国の青少年たちが憧れる理想の未来像であり、息子を筆頭百人隊長プリムス・ピルスにするのを一度も夢見たことのない親など、ほぼ存在しないだろう。


筆頭百人隊長プリムス・ピルスになればさ、騎士エクィテスになってさ、晴れて下級貴族ノビレスの仲間入りだろ?

 そんでどっかに広い畑貰ってさ、立派な邸宅ヴィラなんか建てちゃってさ…」


 筆頭百人隊長プリムス・ピルスになった者は騎士エクィテスの称号が与えられ、下級貴族ノビレスに列せられることになる。退職の際は広い農地かかなり高額な退職金が支払われることになっていた。そして奴隷や小作人に農業をさせ、自分は地元の名士として尊敬を集めながら安楽な生活を送る…軍団兵レギオナリウスは誰もがそれを目指していると言っても過言ではない。それは平民プレブスたちのささやかな夢だ。

 だが平民プレブスのささやかすぎる夢をチマチマと語られても貴族パトリキであるルクレティアの神経を逆なでするだけだった。


「リュウイチア様は既に聖女サクラです!

 どれだけ高位の上級貴族パトリキでさえかしず聖貴族コンセクラータなのですよ!?

 今更、あの子を軍団レギオーに入れなくても、筆頭百人隊長プリムス・ピルスなんかよりずっと偉くすることが」


「そんなの分かんないよ!!」


「・・・・・」


 ルクレティアの話を遮ったリュキスカの絶叫は涙に濡れていた。


「アタ…アタイはさ…平民プレブスでさ…それどころか貧民パウペルで、親無しでさ…母ちゃんも娼婦で、父親が誰かすらわかんなくてさ…母ちゃんから習った踊りで稼いでさ…でも、踊りじゃ稼げなくて…そんで身体売ってさ…それが火山が噴火しちゃって…そんでしくじっちゃってさ…客の子供なんかできちゃってさ…アタイ、自分が食ってくだけでも精一杯だったのに…お腹に子供できちゃってこれからどうなんだろうって…でもあの子産んじゃったしさ…何か、がらじゃないけど、母ちゃんなんかになっちゃったしさ…でも、どうしていいか分かんなくってさ…アルトリウシア来て…エレオノーラ姐さんとか、ラウリの親分とかに会えてさ…何か…色々良くしてもらえてさ…だから…だからってのも変だけどさ…あの子…ふぐぅぅ…あの子見てるとさ…ふぅぅ…ふぐぅぅぅ…」


 ルクレティアの前でリュキスカは泣き声をかみ殺すと服の袖で涙を拭った。


「わかっ…分かんないんだよぉ…

 アタイ……アタイ、バカだからさ…今まで日銭稼ぐことと…あの子の事しか考えたこと無かったからさ…いきなり聖女サクラ様とか言われてもさ…貴族ノビリタスの事なんか…縁もゆかりもないしさ…」


 ルクレティアはこの時初めて理解した。今、恐らく自分の身の回りの状況が最も変化し、最も混乱させられているのはリュキスカなのだ。今までの生活から突然切り離され、見ず知らずの世界へ身寄りもなく放り込まれて混乱しない方がおかしい。しかも、彼女にはリュウイチのような身を守る力も、おそらく才覚も何も無い。守らねばならない赤ん坊を抱え、無防備なまま周囲を敵か味方かすらわからぬ貴族パトリキに囲まれて不安に苛まれているのだ。

 それなのにルクレティアはリュキスカに嫉妬し、それをぶつけてしまった。平民プレブスであるリュキスカにとっては絶対に勝てない相手である上級貴族パトリキルクレティアに対して、彼女は気づかぬ間に負い目を作り、それによって敵意を向けられたのである。逃げ場の一つもありはしないというのに!

 リュキスカが悲鳴を上げてしまうのは当然だった。


「この…この仕事だってさ…あの子のために受けたんだ。

 一日に四デナリウスもくれるって言うしさ…二年だけだけど…一日十六セステルティウスだよ!?…アタイの稼ぎの五倍近いお給料でさ…これで稼げるだけ稼いで…しょ、将来あの子が軍団レギオーに入った時に、色々要るだろうからさ…その準備をしようって…今から稼げるだけ稼いどこうって…それだけ…それだけだったんだよぉ…ス、スパルタカシア様からリュウイチ様を取り上げようなんてさ…これっぽっちも、これっぽっちも思っちゃいなかったんだよぉ…ふうう…ううぅぅ…」


「ごめんなさい!リュキスカさん!!ごめんなさい!」


 ルクレティアは寝椅子レクトゥスから立ち上がって顔を覆って肩を震わせているリュキスカに駆け寄るとそっと抱きしめた。


「ごめんなさいリュキスカさん。私が、私が愚かでした!

 どうか、どうか許してください!」

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