第276話 リュキスカ・リュウイチア

統一歴九十九年四月二十三日、朝 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 昨晩のサウマンディアの軍人二人を交えた酒宴コミッサーティオはかなり遅くまで続いた。マルクスを中心にアルビオンニア側のルキウスや軍人たちは随分と盛り上がり、なごやかな雰囲気を保っていた。社交辞令と美辞麗句びじれいくの応酬ではあったが、事情の良く分からないリュウイチの目にも言葉の鍔迫つばぜり合いで火花を散らしている様子はうかがえて、正直言って酔えたものではない。下手な冗談一つ言えないのだ。昼食会でのサウマンディアに招待したいという話もそうだったが、何か一つ言葉を間違えれば妙な言質げんちをとられそうな恐ろしさがあった。実際、全員がしたたかに酒を飲んだはずなのに、誰一人として酔ってない。いや、顔は赤いし目も座っているが、何故か酔っているのは上辺うわべだけで理性はちゃんと残っているかのような不気味な酒宴コミッサーティオだった。


 酒をこよなく愛する者にとっては酒を飲まされながら酔う事は許されないという、地獄としか言えないであろう酒宴コミッサーティオが終わったのは、既に第二夜警時セクンダ・ウィギリア(午後十時ごろ)を過ぎた夜遅くのことだった。女たちが宴会コンウィウィウムを開いていた方の食堂トリクリニウムはとっくに灯りが消えており、起きているのは陣営本部プラエトーリウムの中と周辺で警備に当たっているクィントゥスの部下たちと使用人や奴隷たちだけだった。秋の虫も鳴かなくなった夜更けに、酔っぱらった軍人たちが軍歌を合唱しながら各々の家や宿舎へ帰っていくのを見届け、リュウイチはようやく自分の寝室クビクルムへ戻る。


 ベッドにはいつものようにリュキスカが裸で横たわっていた。リュウイチの気配に気づいて「する?」と訊いてきたリュキスカに『いや、今日はいいや』と答えると、リュキスカはベッドから降りてリュウイチから貰ったバスローブを着た。


「今日の朝食イェンタークルムのあと、侯爵夫人エルネスティーネ様とスパルタカシアルクレティア様と話があるから、時間ちょうだい。」


 服を着たリュキスカはそう言って自分の寝室クビクルムへ戻っていった。何か変だなとは思いつつも、リュウイチはそのまま寝た。そして翌朝、朝食イェンタークルムを済ませたリュウイチはさっそく応接室タブリヌムへ呼び出された。そこで待っていたのはエルネスティーネ、ルキウス夫妻、アルトリウス、ルクレティア、ヴァナディーズ、アロイス、クィントゥス、そして赤ん坊を抱いたリュキスカだった。


「おはようございますリュウイチ様。

 突然お呼びだてして申し訳ありません。」


 全員が立ち上がってリュウイチを迎え、エルネスティーネが代表してあいさつをすると早速椅子に掛けるように促してきた。


『えっと、何かあったんですか?』


 全員が神妙な顔つきをしていることに胸騒ぎを覚えつつ、リュウイチは椅子に腰かけて事情を尋ねた。


「何と申しますか、当たり前と言えば当たり前な結果になっただけなのですけど…少々、我々の予想よりも影響が出るのが早かったものですから…」


『早かった?』


 エルネスティーネはためらいがちに断りを入れ、リュキスカとルクレティアの方をチラチラと見ながら説明を始める。


「実は、聖女サクラ。」


『は?』


 エルネスティーネがリュキスカに「様」を付けたことにリュウイチはこの時点ではまだ気づいていない。また、降臨者に抱かれた女性が「聖女サクラ」と呼ばれるようになるというのも、以前から説明を受けていたことだしリュキスカはエルネスティーネとルキウスから報酬を受け取っているリュウイチ専属娼婦なのだから、リュキスカが「聖女サクラ」なのは当然のはずだ。今更何を言っているのかわからない。


侯爵夫人エルネスティーネ、やはりルキウスから話そう。」


 ルキウスはウホンと咳ばらいを一つすると姿勢をただした。


「リュウイチ様、降臨者に仕える女性が『巫女サセルダ』と呼ばれ、降臨者のがあれば『聖女サクラ』と呼ばれるようになるというお話は御説明しましたな?」


『え、ええ…それで、降臨者の子を産めば「聖母」ですよね?』


 以前、酒席でルキウスから受けた説明をリュウイチは思い出す。


「その通りです。降臨者本人ではなくとも、強い魔力を有する聖貴族男性コンセクラトゥスに抱かれても同じことなのですが…があった女性を『聖女サクラ』と称するのはそれなりに理由があります。」


『たしか、降臨者の血を引く子を産む可能性があるからと…』


「ええ、以前御説明した時にはそう申し上げました。しかし、もう一つ理由があります。」


『もう一つ?』


「降臨者様や聖貴族男性コンセクラトゥスことで、魔力を宿すことがあるからです。」


『・・・・・・』


 思考が追い付かなくなってリュウイチの反応が止まってしまう。


「昨晩の宴会コンウィウィウムでルクレティア様がお気づきになられたのですが、リュキスカは既に『聖女サクラ』としての力をお持ちになっておられます。

 つまり、名実ともに『聖女サクラ』となられておいでです。」


 部屋の中の空気がしばらくそのまま静止してしまった。リュウイチは驚きのあまり…ではあったが、他の者たちはもちろん事前に知らされている。にもかかわらず他の者たちが黙っているのは、リュウイチがどう反応するか予想が付かなかったからだ。


『えっと…確認させてもらってもいいかな?』


「確認ですか?」


『ええ、どれくらい魔力があるものなのか魔法で確認を…』


「そ、それは別にかまいませんが…」


『ディテクト・ステータス』


 リュウイチがステータスを確認するとリュキスカのMPは百十八だった。ついでに他の人たちのステータスも見させてもらったがほぼ全員二十未満で、さすがルクレティアは聖貴族コンセクラータの神官だけあって飛びぬけており五十六もある。しかし、そのルクレティアですらリュキスカの半分しかないことを考えると、リュキスカがいかに強力な魔力の持ち主になってしまっているかは明らかだ。


「いかがでしたか?」


『えっと…百十八で、皆さんの七、八倍くらいってとこですかね。ルクレティアのほぼ二倍です。』


 その言葉でルクレティアの中で、何故か自分だけが取り残されていくような悔しさとも嫉妬ともつかない感情が沸き起こり、思わずキュッと下を向く。


「普通、から『聖女サクラ』としての力を得るまで、数年程度はかかるとされています。ですから、我々もリュキスカが『聖女サクラ』となる前にルクレティア様が輿こし入れするだろうと予想しておりました。

 しかし、どうやらリュウイチ様の御力は我々の想定よりもよほど御強いようで、既にリュキスカは『聖女サクラ』の力を得てしまいました。」


 ここに来てリュウイチはようやくエルネスティーネやルキウスがリュキスカに対して「様」を付けて呼んでいる事に気づいた。


『えっと、それはどういう事になるんでしょうか?』


「まず、我々は今後リュキスカ様を正式に聖貴族コンセクラータとして扱わざるを得なくなったという事です。

 これまではリュキスカ様はルクレティア様が輿こし入れするまでのとしての役割を果たす娼婦でしかありませんでしたが、今後はリュウイチ様の『聖女サクラ』として、正式に御傍にはべるべき貴婦人として扱わざるを得ません。」


 要するに内縁の妻とか側室とか、そういう存在として扱うということだ。


『それは、妻ってことですか?』


「正妻ではないにしろ、それに近い存在として扱わざるを得ません。彼女は『リュウイチア』、彼女の子は『リュウイチウス』と呼ばれることになるでしょう。

 仮にリュウイチ様の心が彼女から離れ、御傍から遠ざけることになったとしても、彼女が『聖女サクラ』と呼ばれ聖貴族コンセクラータとして扱われ続けるであろうことは変わりありません。」


「ね、ねぇ、ちょっと待っておくれよぉ」


 リュウイチの左隣に座らされていたリュキスカが顔を上げて割って入って来た。

 リュキスカはまだリュウイチが降臨者だとは知らされていない。彼女はお忍びでアルトリウシアに来ているルクレティアの婚約者である聖貴族コンセクラトゥスのリュウイチの専属娼婦だったはずなのだ。そして、この場では母乳の魔力で赤ん坊が魔力酔いしてしまう事の相談の場だと聞かされていた。

 ところがそれがいつの間にか身体に魔力が宿り、聖貴族コンセクラータで神官のルクレティアを上回る力を手に入れ、しかも『聖女サクラ』として扱われようとしている。自分の知らないところで世界がどんどん変わっていくような不安に彼女は襲われていた。


「なんですかな、リュキスカ…いや、リュウイチアリュキスカ様?」


「む……た、確かにさ、リュウイチ様の御力は凄いよ?

 アタイやこの子の病気だって一発で治しちゃうしさ、カール様だってお治しになられたんだろ?

 それに、力の強い聖貴族コンセクラトゥスに抱かれた女が『聖女サクラ』になるって話も聞いたことあるけどさ…でも、それだって抱かれた女が力を持つまで何年もかかるって言うじゃないさ?

 なのにさ、アタイなんて初めて抱かれてからまだ五日だしさ…」


 リュキスカの話を聞きながらリュキスカ以外の全員が、心の中でこれ以上隠すのは無理だと諦めはじめていた。リュキスカ自身も何となく察している。だが、確かめないわけにはいかなかった。


「その…ひょ、ひょっとしてさ…リュウイチ様って…降臨者様なのかい?」

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