第275話 魔力酔い

統一歴九十九年四月二十二日、晩 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 女たちは食堂トリクリニウムから運び出されるカールを見送った。一緒にディートリンデやエルザも退出する。彼女たちも実はとっくにお腹いっぱいになっていて、集中力をなくしていたのだ。退出していく子供たちを見送りながらエルネスティーネは小さくため息をついた。

 貴族パトリキの子としては正餐ケーナの席上で寝るなど本来許されることではないのだが、極度に病弱なこともあってこれまで厳しくしつけることができないでいるのは事実だった。


「いいんですよ侯爵夫人マルキオニッサ、カール閣下もそのうち体力が回復すればちゃんとするようになりますよ。」


「ありがとう子爵夫人ウィケコミティッサ

 あら、フェリキシムスも御眠おねむかしら?」


 アンティスティアのフォローに礼を述べたエルネスティーネが、ふと、リュキスカの胸元で眠りにおちようとしている赤ん坊に目を止めた。


「あら、この子顔が赤くありませんこと!?」


 それをきっかけに今度は赤ん坊に注目が集中する。


「え?ああ、ええ~っと、何かこの子最近いっぱいオッパイ飲むようになったんだけど、何かオッパイ飲み終わると何だかこんなんなっちゃって…」


 リュキスカがいつの間にかオッパイを飲み終わっていた赤ん坊を離すと、顔を赤くした赤ん坊はそのまま仰け反るように身体をグテっとさせ、盛大にゲップした。


「何か酔っ払いみたい・・・」

「いくら何でも顔、赤くなりすぎね。」

「ホント、母乳にお酒でも混じってるってわけでもないでしょうに・・・」


「いや、バカな事言わないでおくんなさいよ。アタイ、酒なんか一滴だって飲んじゃいやしませんよ?」


 リュキスカは赤ん坊にオッパイ飲ませ終わった後の乳首をナプキンスダリオで拭きながら言った。リュキスカの顔は半笑いだが、実はリュキスカ自身不安に思っていたことを他の女たち、とくに五人の出産経験をもつエルネスティーネに言われたことで心配になっている。


「お酒はお飲みにならないの?」


「うん、お酒飲んだ次の日はオッパイが不味くなるみたいでさ、赤ん坊があんまり飲んでくれなくなっちゃうから、アタイお酒は止めたんだよ。」


 レーマでは女性の飲酒ははしたない事だとされている。女性がお酒を飲んでいいのは夫と一緒に宴会コンウィウィウム酒宴コミッサーティオに出ている時だけで、夫の許可をもらったうえで酔わない程度に飲むのが認められている。しかし、飲酒好きの女性がいないわけではなく、夫に隠れて飲酒する女性は珍しい存在ではない。このため家長である夫は、家族の女性に対してキスをして、口の中に酒の味が残っていないか点検し、女が隠れて飲酒してないことを確認する権利が認められている。


「どのみちお酒飲んだからってお乳にお酒は混ざらないでしょ?」

「でも、この顔の赤いのって・・・」

「ルクレティア、診て差し上げなさいな。」


 少し離れた席から様子を見ていたルクレティアにエルネスティーネが声をかけると、ルクレティアは席を立って様子を見に来た。隣に座っていたヴァナディーズも一緒に付いてくる。


「たしかに、まるでお酒に酔ってるみたいだけど…お酒臭くないし…」

「少し熱があるかしら?」


 ヴァナディーズが手を赤ん坊の額に当てると、赤ん坊は心地よさそうに微笑んでモゾモゾっと身体を揺すった。すると周囲に女たちが寄ってきて赤ん坊の頭やら頬やら次々と手を当てはじめた。赤ん坊はひんやりするのが気持ちいのか、寝たままだが気持ちよさげに身体を揺すった。


「確かに熱があるみたい…」

「オッパイあげるたび、毎回なんでしょ?」

「何かの病気?」

「ええ!?だってこの間リュウイチ様に治していただいたばっかりだし…」


 この時、ルクレティアが異変に気付いた。何やら赤ん坊の身体にやけに強い魔力がみなぎっている。


「リュ、リュキスカさん、リュウイチ様から赤ちゃんに何か与えられていますか?」


「い、いやぁ…そんなの…だってアレから赤ん坊をリュウイチ様に見せてないし」


 身に覚えのないことを言われてオロオロとしはじめるリュキスカにルクレティアがためらいがちに言った。


「あの、変に受け取らないで欲しいんですけど…ちょっとお乳を調べさせていただいてよろしいですか?」


「え!?…ええ…まあ、そりゃ…まだあるけど…」


「お願いします。」


「う…うん…」


 リュキスカは赤ん坊をルクレティアに預けると、服の胸元をはだけさせ、しまったばかりの乳房を再びひっぱり出した。


「え、えーっと…どうすりゃいいんだい?」


 女同士とはいえさすがに大の大人が人前で他人のオッパイに吸い付くのも躊躇ためらわれる。女たちは互いにどうしようかと顔を見合わせ、ひとまず手に絞り出してもらってそれを調べてみることにした。


「じゃ、じゃあ、すみませんがここに…」


「う…うん…いくよ?」


 人間が人前で母乳を絞ることなどそうそうある事ではない。この事態をどうとらえていいかわからず、女たちがドギマギしながら様子を見守る中、リュキスカは恥ずかしいのを我慢して、差し出されたルクレティアの手のひらに向かって自分の乳房から母乳を絞った。

 見る間にルクレティアの手のひらに母乳が溜まっていく。


「あ、も、もういいです!」


「もういいのかい?まだ出るよ?」


「十分です!多分・・・」


 女たちは興味深げにルクレティアの顔とルクレティアの手のひらに溜まった母乳を交互に観察する。


「やっぱり…」


 何やら愕然がくぜんとした様子のルクレティアに女たちの不安と好奇心が刺激される。


「え!?何だい?アタイのオッパイがどうかしたのかい?」

「どうかしたのルクレティア?」


 ルクレティアは母乳を溜めた手のひらがほのかに温かくなるのを感じていた。最初は母乳そのものの熱かと思ったがそうではない。いつまでたっても冷めないのだ。


「このお乳から…凄い、魔力を感じます。」


「「「魔力!?」」」


「ちょっと、赤ちゃん、いいですか?」


 女たちが驚きの声を上げる中、ルクレティアは赤ん坊をリュキスカに返すと、反対側の手の指に母乳を付けてヒョイっと口に入れて舐めた。途端に身体がポォっと温かくなってくる。


「やっぱり…これ、凄い魔力を含んでいるわ。」


「え!?」「どういうこと?」「どんななの?」


 女たちが次々とルクレティアの手のひらの母乳を指先に浸けて味わってみる。途端に女たちが目を丸くし、驚きの声を上げる。


「あら、何これ!?」

「お酒!?」

「ホント、お酒みたい?」

「やだ、何か酔いそう・・・」

「待っとくれよ、アタイのオッパイからお酒が出てるってのかい!?」


 赤ん坊のためにスパッとお酒を断ったリュキスカからすると、自分の母乳が酒のようだと言われるのはかなり心外な事だった。

 すがるような、あるいは食ってかかるようなリュキスカを宥めるようにルクレティアが説明する。


「いえ、お酒じゃないです。

 母乳に強い魔力が含まれてて、それでこんな風に感じるんです。

 以前、レーマに居た時に実習でちょっとだけマナポーションを味見させてもらったんですけど、こんな感じでした。」


「どういうことだい!?」


 リュキスカはイマイチ状況が理解できていない。他の女たちもそれは同じだし、実はルクレティア自身が半信半疑だった。何せ、本で読んだことはあっても目の当たりにするのは彼女自身初めての事例なのだから。


「その…リュキスカ様が、その…リュウイチ様の…精を…お受けになられたことで…聖女サクラとしての力が目覚められたんだと思います。」


 降臨者のがあった女性がそれだけで魔力に目覚めてしまうことは歴史上数多くの事例が残されている。だからこそ、のあった女性はたとえ降臨者の子を産まなくても「聖女サクラ」と称されて崇拝の対象となるのだ。降臨者の中でも絶大な力を持つ《暗黒騎士リュウイチ》の寵愛ちょうあいを受けたリュキスカは、早くもその強大な魔力の影響を受けており、その一端が母乳に現れていたのだった。


「アタイが!?」


 想像だにしなかった説明にリュキスカは戸惑いを隠せない。まさか自分の身体にそんな変化が起きていようなどと、今の今まで思いもしなかったのだ。


「それで、魔力の一部がお乳にまざってしまったんだと思います。」


「じゃ、じゃあ、赤ん坊がこんなになっちゃうのって…」


 全員の視線が赤ん坊に注がれる。


「赤ちゃんは…たぶん、”魔力酔い”を起こしてます。」

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