第274話 またもや途中リタイヤしたカール

統一歴九十九年四月二十二日、晩 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストルム・マニ要塞カストラ内に作られた施設としてはトップクラスに大きな建物で、貴族ノビリタス邸宅ドムスとしても十分広い方だ。ただ、元々軍団長レガトゥス・レギオニスの私的住居であると同時に軍団司令部プリンキピア・レガトゥスとして作られている以上、敷地の半分以上が軍団レギオーの指揮施設であったし、大規模な公式の宴席は要塞司令部プリンキピアで行われることを前提にしているため、食堂トリクリニウムは常識的な範囲の広さしかない。もっとも、それでも貧民パウペルが住むような最小クラスの住居が二つ三つ入るくらいの広さはあったのだが…日本のひなびた温泉街の小さな旅館の大宴会場くらいの広さを持つ食堂トリクリニウムは、日本人の感覚からすれば数十人規模の宴会でもできそうではあったが、レーマ貴族の感覚からするとそうではないようだった。


 宴会コンウィウィウムはホストとメインゲストの話を全員が聞き取れる範囲で行われるべきであり、招待客とホストやメインゲストとの間に別の誰かの席があるなどとんでもない。ホストとゲストの間にあっていいのは料理と酒と燭台だけなのだ。

 そうなると正式に参加できる人数は限られてくる。せいぜい十数人程度、多くても三十人には届かない範囲に収めざるを得ないだろう。では何故、そんなに広い食堂トリクリニウムが必要になるのか?


 答えは二つ。

 一つは正式な招待客以外の参加者の存在に対応するためだ。レーマでは酒宴コミッサーティオへの招待客は『影』ウンブラと呼ばれる付き人を同席させる習慣があった。それは家族であったり、弟子であったり、食客であったり情人であったりするのだが、正式な招待客ではない以上ウンブラのように目立たないように振舞わねばならない。正式な招待客たちと同じように臥台レクトゥス横臥おうがすることは許されず、別に用意した腰掛けに座らなければならない。今回の様に招待客たちが椅子に座って食卓を囲む場合は、食卓から少し離れたところで別の食卓を使って食事を摂ることになる。そうした『影』ウンブラが食事を摂れる空間を同じ食堂トリクリニウム内に用意する必要から、本来の参加者の人数以上に対応できる広さが求められるのだ。

 もう一つは、そうした『影』ウンブラたちが座る更に外側で、給仕たちが邪魔にならないように動き回るためである。


 ともかく、そうした背景から広さの割に収容人数の小さい食堂トリクリニウムは今日マニウス要塞カストルム・マニを訪れている貴族ノビリタスたち全員を収容しきることができなかった。

 このため、女性のエルネスティーネがメインホストであるにもかかわらず、レーマの伝統に則って食堂トリクリニウムを男女別に分けて宴会コンウィウィウムが行われることになったのだった。


 リュウイチをはじめとする男たちだけが集まってやっている宴会コンウィウィウム会場とは別の食堂トリクリニウムでは、女と子供たちが集まって御馳走を囲んでいた。出席者はエルネスティーネとその子供たち、ルクレティア、アンティスティア、ヴァナディーズ、そしてリュキスカとその子フェリキシムス。

 リュキスカはホントは出席したくなかった。出席者はみんな上級貴族パトリキの子弟であり平民プレブスはヴァナディーズとリュキスカだけ…そのヴァナディーズもムセイオンの学士であり、実質的に下級貴族ノビレスに属する人間だ。つまり、リュキスカ一人が平民プレブスの、しかも貧民パウペルで、おまけに娼婦だった。

 あまりにも身分が違い過ぎる女性たちに囲まれて居心地がいいわけがない。絶対にろくなことにならない…そういう確信があった。だから最初は赤ん坊への授乳を理由に断ろうとしたのだが、「女だけだから大丈夫よ」と言われ、半ば強引に引き出されてしまっていた。女貴族たちからすれば今後、親交を持たねばならないリュキスカの人となりを知る絶好の機会であり、逃すわけにはいかなかったのだ。

 実は今回、宴会コンウィウィウムを男女別にした本当の理由はそこにある。


 だが、リュキスカの不安は杞憂きゆうのまま終わろうとしていた。その理由は様々にある。

 一つはエルネスティーネが、カールを人質にすることで降臨者リュウイチの治療を受けられるようにするというリュウイチの提案に、リュキスカが関わっていることをリュウイチやルクレティアからそれとなく聞かされていた事。一つはアンティスティアがルキウスからリュキスカについて能々よくよく説明と注意を受けていて、リュキスカやルクレティアが気分よく過ごせるよう気にかけていた事。そしてもう一つは宴会コンウィウィウムが始まって間もなく、フェリキシムスが泣き出してリュキスカが授乳を始めてしまった事だろう。それを見てエルネスティーネの長女ディートリンデと次女エルザがオッパイを飲む赤ん坊の様子に夢中になってしまったのだ。


「赤ちゃん、オッパイ飲んでる!!」

「名前は何て言うの!?」

フェリキシムス幸運な男!?いいお名前ね、いくつ?」

母上エルネスティーネ!カロリーネと一緒だって!!」


「エルザ!ディートリンデ!おしとやかになさい!

 ごめんなさいねリュキスカさんフラウ・リュキスカ


 エルネスティーネははしゃぐ娘を困り顔でたしなめた。


「いえ、こちらこそせっかくの宴会コンウィウィウムでこんな…」


「仕方ありませんわよ。赤ちゃんは泣くのもオッパイ飲むのも仕事ですもの。」


 子供の出来ないアンティスティアに慰められるとさすがに恐縮してしまう。


「それにしても良く飲むわね。」


「ええ、リュウイチ様に治していただく前はこんなに飲んでくれなかったんですけど・・・」


「まあ、御病気だったの?」


 そのことは聞いてなかったアンティスティアが驚いて訊いてくる。


「え、ええ、母子そろって労咳ろうがいで…でもリュウイチ様からエリ…なんとかって薬貰って…」


「まあ!労咳を治していただけるなんて…さすがっ・・と・・・」


 リュキスカはまだリュウイチが降臨者であることを知らない。アンティスティアはルキウスから「まだ知られないようにしろ」と念入りに命じられていた。


「?」


「ウッ…くしゅんっ!

 …あ、ごめんなさい?」


 「さすが降臨者様ね」と言いかけ、アンティスティアは慌てて自分の口を押え、いぶかしむリュキスカの視線にクシャミをしてごまかした。


「いえ、お大事に…」


「ありがとう。

 カール様といい、この子といい、リュウイチ様はどのような御病気でも治しておしまいになられそうね。」


「カール様はもう大丈夫なんですか?」


 今回のカールの詳細について知らされていなかったリュキスカが訊くと、その場の全員の視線が一斉にカールに集まった。この宴会コンウィウィウムに参加している唯一の男性はしかし、女性たちの視線に気づきもしない様子でダルそうに料理を口に運んでいる。


「体質の方は治らないみたい…でも、おかげさまで病気の方は治していただいたわ。」


「なんだか元気がなさそうですけど…?」


 カールを呆れたような目で見ながらため息をついて答えてくれたエルネスティーネに、腑に落ちぬという様子でリュキスカが心配そうに訊くとエルネスティーネはパッと明るい表情を作ってリュキスカの方へ振り返った。


「それが聞いてくださる?

 この子ったらずっと病気でベッドから動けなかったからすっかり体が弱っちゃってたの。それで病気を治してもらったら、今まで動けなくて衰えた分を取り戻すんだって、急に部屋で運動をし始めたらしいのよ。

 それですっかりくたびれちゃったんですって、今日なんかミサの途中で寝ちゃうんですもの。」


「まあ、それで今も眠そうにしてらっしゃるのね?」


 アンティスティアが相槌を打ち、再び全員がカールに視線を向けるとカールは口に入れたラクダ肉をクチャクチャ噛みながら目を閉じてウトウトとしていた。寝ながら食べているのだ。


「まあ、カールったら寝ながら食べてる!!」


 ディートリンデの声にもカールは起きず、女たちは笑い始めた。


「クラーラ!カールが寝てしまったわ。

 寝室へ運んであげて頂戴。」


 クラーラが「はい、奥様」と返事をし、侍女たちの手によってカールはそのまま寝室へ運ばれていった。カールはその間も目を覚ますことなく、口に入れたラクダ肉を噛み続けていた。


「しょうのない子…ごめんなさいね、失礼しちゃって。」

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