第263話 毒麦

統一歴九十九年四月二十二日、午前 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 レーマ帝国の基本的な建築スタイルは《レアル》古代ローマから引き継がれたドムスを発展させたものである。もちろん、全く同じではない。地域によって土地の気候に合わせるように変更が加えられていたりもするし、《レアル》古代ローマ以外からの降臨者によってもたらされた新たな文化や技術が反映されることもある。

 レーマのドムスがローマのドムスと最も違っているのは厨房クリナであろう。ローマン・ドムスの厨房クリナは現代日本人の感覚からすれば信じられないほど酷く不潔な環境であった。


 まず暗い。採光窓が小さかったり、照明がそれほど充実していないというのもあるが、煙突が存在していなかったため室内に煙が充満しており、壁も天井もすすで黒くなっていた。

 そして厨房クリナにはその屋敷ドムスで唯一の下水溝があり、あらゆる汚物(排泄物も含む)をそこから捨てていた。当時は排水トラップ(管をS字型にして途中で水をためる機構)も無いため、下水道からの悪臭やネズミがそこから厨房クリナへ侵入してくるのである。

 そのような環境であるから、屋敷ドムスの主人やその家族が厨房クリナを訪れることはほぼなかった。厨房クリナは奴隷や身分の低い使用人の仕事場だった。


 レーマン・ドムスも実態としてはさほど大きくは変わらないが、明るさという点だけは随分と改善していた。かまどには外へ煙を逃がす煙突があって室内が煤で真っ黒になることはない。そしてあえて天井をなるべく高く作り、窓を大きくとることで採光と換気が大幅に改善されていた。

 もっとも、この世界ヴァーチャリアではガラスは宝石に分類される貴重品であるためガラス窓などは使われていない。外側には鎧戸、内側に薄絹か紙を貼った障子か網戸のようなものが取り付けられている。

 陣営本部プラエトーリウム厨房クリナともなると二階まである吹き抜けになっており、天井は文字通り見上げるほどの高さがある。窓も一階部分と二階部分の両方に、縦長の大きなものが複数ならべられており、日中に鎧戸を開ければ屋外にいるのと大差ないほど明るくなった。


 しかし、下水道に直結する下水溝があるのは同じだったし、排水トラップも存在しない(そもそも《レアル》から伝わっていない)ため悪臭とネズミの問題は解決されていなかった。このためある程度大きな屋敷ドムス厨房クリナに主人が…ましてや貴族ノビリタスが足を運ぶことはまず無いと言って良い。

 そんなところへ降臨者リュウイチをはじめ侯爵夫人エルネスティーネ、その息子で侯爵公子のカール、子爵のルキウスとその妻アンティスティア、子爵公子のアルトリウス、大神官の娘ルクレティア、エルネスティーネの兄弟であるグスタフやアロイスといった、おおよそアルビオンニアにおいて最高位の上級貴族パトリキたちがゾロゾロとやって来たのだから、厨房にいた者たちが飛び上がらんばかりに驚いたのも当然と言えよう。

 厨房スタッフらはちょうど朝食イェンタークルムの片づけと昼食ブランディウムに出すピザの仕込みを終えて、生地を寝かせる間に休憩を取っていたところだった。


「あ、あ、あの、貴族パトリキ様方、いったいこのような所へ何の御用で!?」


 厨房を預かっていたルールスは貴族パトリキの突然の訪問に椅子から飛び上がった。ひょっとしてなまけていると思われて叱られるんじゃないかと思ったからだ。

 ルールスは「田舎者」という名前(RULLUSはラテン語で「貧乏人」「無骨者」「田舎者」を意味する)の割に生粋のレーマっ子だ。ヒト種の料理人の息子で、自身も料理人を志し、父のコネで貴族ノビリタスも利用する名の知れた高級料亭ケーナーティオで修業し、そろそろ独立してもいいんじゃないかと周囲から言われるようになったころにアルトリウスを紹介された。レーマに留学した貴族パトリキの子弟は留学を終えて帰郷する際、腕にいい料理人や各分野の職人を領地に連れ帰ってレーマの文化や技術を領地にもたらすのが習慣化していたのだ。

 ランツクネヒト料理にも少し興味があり、その本場アルビオンニアに貴族パトリキとして行くのは悪くないと思った彼は二つ返事で引き受けた。それでアルトリウシアに来て以来約二年半、ランツクネヒト料理や南蛮料理を学びつつ、レーマ料理を振舞い続けている。そして、十日ほど前からはいきなり降臨の事実を告げられ、降臨者に料理を作るよう命じられていた。更に昨日からはカールの食事の世話もするよう仰せつかっている。


「いや、ルールス。心配しなくていい。

 侯爵公子カール閣下のための専用の小麦があるそうだな?」


 厨房クリナに入って来た貴族パトリキの中から、ルールスの雇い主であるアルトリウスが出てきて質問をしてきた。

 庭園ペリスティリウムでカールを外に連れ出すに至った経緯と理由を聞いた貴族ノビリタスたちは、カールが毒殺されかけた事実に驚くとともに調査に同行することを申し出、そのまま全員で厨房クリナへ押しかける騒ぎになってしまったのだった。


「はい、閣下アルトリウス

 侯爵公子カール閣下の料理だけはこの小麦を使えと指示された物がございます。」


「それを見せてくれ。

 あと、侯爵公子カール閣下の牛乳粥ミルヒブライを作った時に使った鍋があれば、それも。」


「それでしたら…鍋はこちらの胴鍋ですが…」


「構わん、見せてくれ」


「どうぞ…」


 手渡された胴鍋は何の変哲もないフライパンのような片手鍋で、洗ったばかりなのかしっとりの濡れていた。現在陣営本部プラエトーリウムでは汚れ物はほとんどリュウイチの浄化魔法で汚れを取り除いていたが、調理器具は厨房スタッフが自分たちで洗うようにしていたのだ。

 アルトリウスはそれを受け取ると自分自身で一通り眺めまわした後、リュウイチに差し出した。


『ディテクト・エンチャント…もう、痕跡は残ってないですね。』


 リュウイチが魔法で胴鍋を確認したが、木皿のように粥の残滓が残っていたわけではないので毒効果は検出されなかった。


「ありがとう。では小麦を見せてもらっていいか?」


「こちらです。他の小麦とは別にしてありますから…」


 ルールスは鍋を返してもらうと調理台の上にポンと置き、先に厨房クリナの脇の食材置き場に案内した。そこには食材の入った木箱や麻袋、樽や壺などがひとまとめに積み重なっていた。


「この袋です。よいっ…しょっと…」


 ルールスが掛け声とともに麻袋を取り出し、口を開けて中身を見せると、貴族パトリキたちが覗き込む。中身は一見何の変哲もない、脱穀済みの小麦しか入っていない


『ディテクト・エンチャント……やはりこれだ。麦角ばっかくですね。』


「「「バッカク?」」」


『えっと…麦を侵すカビの一種…だったはず。』


 リュウイチの説明に驚いたルールスが袋に手を突っ込み、小麦を掴んで取り出してみた。だが見た目は何ともないし、臭いも普通だ。

 同じようにアルトリウスが袋から小麦を取り出し、手のひらからサラサラと袋にこぼしながら小麦を見、もう一度取り出しなおして臭いを嗅いでみる。


「ん、少し臭うぞ!?

 こんな物を出してたのか!?」


「え!?そうですか?!…いや、すみませんが私には…」


 怒気を孕んだアルトリウスの詰問にルールスは顔を青くしてもう一度小麦を手に取って臭いを嗅いでみたが、全く分からなかった。それを皮切りにその場にいた者たちが我も我もと競うように小麦の臭いを確かめる。だが、ヒトには全くわからず、ホブゴブリンでも臭いの分かった者と分からない者とに分かれた。


「どうやら、ホブゴブリンの鼻でようやく嗅ぎ分けられるかどうかという程度に臭うようだな。アルトリウスはコボルトの血を引いとるから、すぐに分かったんだろう。

 リュウイチ様も魔法で確認なされたことだし、間違いあるまい。」


 自身は異臭を嗅ぎ取れなかったが、ルキウスは全員が思ったであろうところを代表して述べた。その一言はエルネスティーネにとって衝撃的な結論だった。


「これは、毒麦だ。」

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