第262話 厨房へ

統一歴九十九年四月二十二日、午前 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 サガムやパエヌラで防がねばならぬほど強くもなく、だが無防備に立っていればいつの間にか全体がグッショリ濡れてしまう…そんな中途半端な雨が年中降り続くアルトリウシアの気候がアロイスは苦手だった。彼が普段暮らしている西山地ヴェストリヒバーグより東の地域は、冬は寒いし夏は暑いが雨は滅多に降らない。


 姉上エルネスティーネもなんだってこんな地域アルトリウシアになんか住んでるんだか…


 中々来ないエルネスティーネを待っている間、執務室タブリヌムの窓から音もなく振り続く雨を見ながら、アロイスはため息をつく。雨はこういう気分にさせるから好きになれない。生理的にも嫌だったし、軍人である彼にとって雨は鉄砲や大砲を使えなくして、軍事行動に様々な障害をもたらすイヤな存在でもあった。好きになれるわけが無かった。


「それにしても侯爵夫人エルネスティーネは遅いですな。」


 アロイスの後ろ姿を横目で見ながらルキウスが言った。

 さして広くも無い部屋の中で、道化師のような恰好をした大男が腰に下げたカッツバルゲル(ランツクネヒトが使う片手剣)のつかに手を乗せ、その魚の尾のような特徴的な柄頭つかがしらを無言のまま撫でまわしている様子は、近くにいる者にとってあまり気持ちの良いものでは無い。要はルキウスも居心地が悪いのだ。


「アロイス、少しは落ち着け。こっちへ来て座らんか」


 ルキウスの様子から機嫌があまりよくないようだと察したグスタフが兄として弟であるアロイスをたしなめた。

 今日の昼頃にはセーヘイムからサウマンディアからの使者マルクスが来ることになっている。彼らはそれに先立って打ち合わせをしようと集められていたのだが、肝心のエルネスティーネ自身がまだ来ない。出された香茶も既に冷めてしまっている。


「むっ、アレは侯爵公子カール閣下か!?」


 アロイスとは反対側の窓から外を見ていたアルトリウスが思わず驚きの声を上げた。


「ん!?」

「カール閣下!?」


 アルトリウスの声に興味を掻き立てられた彼らゾロゾロと庭園ペリスティリウムに面した窓へ歩み寄り、そして驚いた。


侯爵公子カール閣下だ!」

「間違いありませんわ!」

「リュウイチ様に背負われているぞ!?」

「バカな、表へ出たのか!?」


 庭園ペリスティリウムの向こう側でリュウイチにおんぶされたカールが庭を指さして何か叫んでいる。そのわきでエルネスティーネと侍女とルクレティアが泣いているようだった。


「何だ、何が起こっているんだ!?」

「行ってみるか!?」

「よせ!ここから先はリュウイチ様の聖域だ。」


 俄然興味が湧いてきた彼らは何とか状況を知りたいと騒ぎ始めた。しかし、彼らのいる執務室タブリヌムから奥はリュウイチの私的空間であり、リュウイチの許可のない者が勝手に入ることは許されない。


「ああ、そこの…たしかリュウイチ様の奴隷だな!?」


 ルキウスは窓の外を通りかかった、シンプルな見た目だがやたら仕立てのいい服を着たホブゴブリンに声をかける。


「は!?はい!子爵閣下ウィケコメス!!」


 ロムルスは突然ルキウスに声をかけられ、驚いて手に持っていた掃除道具を落としてしまう。それはやけに大きな音を立てた。


「ああ、すいやせん!!」


 慌てて落とした掃除道具を拾い集めるロムルスにルキウスが話しかける。


「いや、そんなものは後でいい!

 それよりもアレは何だ!?何をしているかわかるか?」


 ルキウスはリュウイチの方を指さして訊くが、たまたま通りかかっただけのロムルスが知ってるわけがない。


「い、いやあ…アッシは何も…」


「済まないがあっちへ行きたいんだが、お許しを貰って来てもらえるか!?」


「え!?ああ…いや…へい」


 突然、身分の違う上級貴族パトリキから話しかけられるだけでも驚きなのに、よくわからない用事まで頼まれて混乱するロムルスだったが…しかしその必要はなかったようだ。リュウイチたちの方がルキウスらのいる方へ向かって歩いてきたからである。


「ああ、いい、やっぱり良い。どうやら向こうから来てくれるようだ。」


「へい、じゃあ、アッシはこれで…」


 何が何だかわからないが、ともかく解放されたと気づいたロムルスは掃除道具を拾い集めてそそくさと立ち去っていった。


アロイス叔父上オンケル・アロイスグスタフ伯父上オンケル・グスタフ!!」


 当初はそのまま厨房クリナと食糧庫へ行こうとしていたリュウイチ一行だったが、おんぶされたカールが執務室タブリヌムの窓から身を乗り出すようにこっちを見ているアロイスたちの姿に気づいて手を振ったので、先にそちらへ寄ることにする。


「おお!カール様!?」

侯爵公子カール閣下、大丈夫なのですか!?」


 リュウイチたちが回廊ペリスタイルを進み近づいてくるにつれ、アロイスたちはつい我慢できなくなってカールに呼びかけた。


叔父上オンケル伯父上オンケル!ボク大丈夫です!

 外に出て大丈夫です!!」


 リュウイチにおんぶされたまま窓越しにアロイスやグスタフと手を取り合うカールは顔も声も涙に濡れていた。


「いったいどういうことですか!?」

「これは奇跡なのか!?」

「本当に!?カール様が外に出ておられる!!」

「リュウイチ様!そちらへ、そちらへ行ってもよろしいでしょうか!?」

『ああ、ハイどうぞ。』

「かたじけない!」

「私も!私もそちらへ行くことを」

『ああ、みんなどうぞ』


 部屋にいた貴族たちが我先にと執務室タブリヌムから回廊へ飛び出し、リュウイチとカールを取り囲んだ。


「これはどういうことだ?!治ったというのか!?」

「陽の光で火傷しない…雪の様に白いままだわ。」

「リュウイチ様の御業です。リュウイチ様が魔法で!」

「治ったの!?治ったのにね!?」

「おお、なんという事だ!主よ!」

「ではもう大丈夫なのか!?侯爵公子カール閣下は陽の光を浴びても!?」

アロイス叔父上ぇオンケル・アロイス

「カール様、さあこちらへ!おお!確かにカール様だ!!あははカール様!!」

「アロイス!私にも、私にも抱かせてくれ!さあカール様!!」

グスタフ伯父上ぇオンケル・グスタフ

「おお、カール様!!ははは、カール様!!」

姉さんエルネスティーネ、おめでとうございます。

 おお、主よ!ああ、リュウイチ様にも感謝を!!」


 アロイスがリュウイチの背中からカールを取り上げ、それを今度はグスタフがおんぶする。エルネスティーネはアロイスの胸を借り、これまで色々溜め込んでいたものが涙になって溢れ出てしまったかのような状態になっていた。


「まさか…まさかこんな日が来るなんて…ううぅぅ…あの人マクシミリアンにも見せてあげたかった…たった一時いっときとはいえカールが日の下へ出れるなんて…ふうぅぅぅ…ううぅぅぅぅ」


「一時!?一時と言ったかい姉さんエルネスティーネ?」


 自らの胸の中で泣くエルネスティーネの声に気になる一言に気づいたアロイスが訪ねると、近くでもらい泣きしていたルクレティアが説明した。


「カール様にかけられた魔法は十分ほどしか効果が効かない一時的なものだそうです。」


『そろそろ魔法をかけなおしますよ…グレーター・マジック・シェイド』


 せっかくカールが陽の光の下へでられたというのに、それが一時的なものでしかないという事実にアロイスが一瞬絶句する。そしてちょうどそのタイミングで魔法の効果時間がそろそろ切れようとしている事に気づいたリュウイチが魔法をかけなおした。


「「「「・・・・・」」」」


 貴族たちが見守る中でカールの身体が青く光り、その光が収まっていく。十分…たったの十分しか持たない魔法。カールの体質の問題が解決されたと早合点していた貴族たちはそのことにガッカリしないわけにはいかなかった。

 ただそれでも、たとえ一時的ではあったにしても、カールを陽の光の下に出させるという悲願が達成できたことに、カールと血のつながりのある親戚たちは喜ばないわけではなかったが・・・。


「リュウイチ様、皆様も予定がおありでしょうし…」


 ちょうど場の空気も一区切りついたように判断したルクレティアがリュウイチを促した。たまたまカールが見つかったためにこうなってしまったが、リュウイチたちは毒の混入ルートを確認しにいく途中だったし、貴族たちは貴族たちで予定があるはずで、お互い時間を無駄にするわけにはいかない。


『ああ、そうだねカール君、私たちは厨房へ行くけど…』


「ボクも行きます!」


 グスタフの背中におんぶされたカールが力強く答えると、カールを取り囲む貴族たちの頭上に目に見えないクエスチョンマークが浮かび上がった。


厨房クリナに?いったい何をしに?」

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