第261話 光に満ちた世界

統一歴九十九年四月二十二日、午前 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 麦を確認しようというリュウイチの提案を受け、エルネスティーネは渋々ながら立ち上がった。部屋にいるのはリュウイチ、エルネスティーネ、ルクレティア、クラーラ、そしてカールの五人。その四人がカールを残して部屋から出ていこうとしている事に気づいたカールが不安そうに声を上げた。


「みんな行っちゃうの?」


 すでに日が昇っている以上、カールは部屋から出ることができない。ましてや今まで過ごしてきた部屋とは違う。昨日、気が付いたら既に引っ越してきたという訳の分からない状況で、おまけに毒を盛られて生死の境をさまよったばかりだ。八歳の少年が一人取り残されそうになって不安を覚えてしまうのは仕方のない事だろう。


「大丈夫ですよ、すぐに戻りますから…」


 エルネスティーネが微笑んで慰めの言葉を投げかけるが、カールは沈んだ表情のまま「うん」とだけ言ってうつむいてしまった。それを見てルクレティアが自分が残ろうかと提案しようとしたところで、リュウイチが提案する。


『カール君も来るかい?』


 驚いたのは他の四人だ。一斉にリュウイチの顔を見あげた。


「いけませんリュウイチ様、カール閣下のお肌は陽の光を浴びると・・・」

「そうです、今外はもう日が昇っていますから」


 クラーラとルクレティアがリュウイチをいさめるが、リュウイチはそれを手をかざして制した。


『ついでと言っては何だけど、光耐性魔法が効くかどうかためしてみませんか?

 魔法の効果は一時的だけど、効くなら今後役に立つかもしれません。』


 リュウイチの提案に全員がその場で固まり、息を飲んだ。そしておずおずとお互いの顔を見合わせる。


 カールが陽の光の下に出られるかもしれない・・・


 それは彼らにとって文字通り光明のさしたような気分にさせる。彼らは皆、そうであればとずっと思い続けて来ていたのだ。しかし、カールの体質が明らかになってからほぼ八年もの間、叶わぬ夢でありつづけたことだ。すでにカールは陽の光を浴びることなどできないのだという固定観念が出来上がってしまっている彼らにとって、にわかには受け入れがたいことでもある。


『君はどうしたい、カール?』


 三人の女性たちが信じがたい提案の内容とその結果を理解しきれずに互いの顔を見合っている間も、カールはまっすぐリュウイチの顔を見ていた。


「そ、外に出られるの?」


『出られるかもしれないし、出られないかもしれない。

 もしダメで火傷してしまったら、その時は魔法で治してあげよう。』


「試します!!」


 カールは身を乗り出すようにして力強く言った。


『よし、えーっと…マジック・シェイド…いやこっちにしとくか、グレーター・マジック・シェイド』


 リュウイチが呪文を唱えると、カールの身体が一瞬青とも紫とも言えない色に輝いた。しかし、その光は直ぐに消えてしまい、カール本人もカールを見守る周囲の大人たちも特に何か変わったような気配は感じられなかった。


「…えっと…これで出れるの?」


『多分ね…試したことがあるわけじゃないからわからないけど、光のせいで火傷を負うのなら、光によるダメージを受けないようにする魔法を使えば大丈夫なんじゃないかと思ったんだけど…』


 不安そうに尋ねるカールの様子に、リュウイチも少し自信が揺らいでしまう。正直に言うと、治癒魔法で治せるはずだから大丈夫だろうという安易な考えがリュウイチの今回の提案の背景にあるのは間違いなかった。ダメでもフォローできる…そういう認識は人をどこまでも無責任にしてしまう。

 だがカールは決意を固めたようだった。


「クラーラ、手を貸して!ボク、外へ出てみる!!」


「カール!?」

「カール様!?」


 起き上がろうとするカールをエルネスティーネとクラーラが押しとどめようとする。別に彼女たちはリュウイチを信じていないわけではない。彼女たちは不安だったのだ。今まで常に注意し続けてきたことが、いきなりもう大丈夫だよと言われてすんなり納得しろと言う方が無理だろう。

 カールはベッドから脚を降ろした。だが、自力で立ち上がるには筋力が足らず、そばにいたクラーラやエルネスティーネに倒れ込むようにもたれかかってしまう。


「いけませんカール様、御無理をなさっては」

「カール、危ないわ」


「ボクは外に出たいんだ!外に出る!!」


 カールは強情を張った。彼にしてみれば皆が外に出られるのにいつも自分だけが部屋の中に閉じ込められ続けていた、ずっと置いて行かれていた、その寂しくて悔しくて悲しい状況が終わろうとしているこの機会を逃したくはないのだ。ただ外に出る…ただそれだけのことが、彼があこがれ続けたドイツ騎士英雄譚に描かれた冒険そのものだったのである。


『私がおんぶしてあげよう。』


「そんな!リュウイチ様!!」

「勿体のうございます!!」


 エルネスティーネとクラーラが慌てだすがリュウイチは構わずにカールの前にくると、背中を向けてしゃがみこんだ。


『さあ』


 そこまでされてエルネスティーネとクラーラはようやく静かになる。納得しているのではなく、どうしていいかわからないのだ。二人が不安げに見守るなか、カールは二度三度深呼吸をしてからドサッとリュウイチの背中に身体を預けた。その身体はひどく軽く、まるで布団か枕でも背負わされたかのような感覚にリュウイチを驚かせたが。それでもカールがしっかと肩を掴むと『いくよ』と一声かけて立ち上がった。

 その高さに興奮したのか、カールがスーッと音がするくらいの勢いで大きく息を吸いこむ。


『じゃあ外に出るけど、ちゃんと肩に掴まってるんだよ?

 あと、何か苦しかったり痛かったりしたらすぐに言いなさい。

 魔法は十分くらいで切れるから、その都度かけなおすからね。』


「…はい!」


 不安と緊張で顔をこわばらせながらも、目だけは真っすぐ見開いたカールのこの時の表情を、エルネスティーネとクラーラは生涯忘れることはなかった。


『よし、行こう』


 リュウイチは歩き始めた。ルクレティアが先回りし、カールの両脚を抱えているせいで両手がふさがっているリュウイチの代わりに暗幕を跳ねのけた。リュウイチが暗幕をくぐると、そこにはドアの隙間から外の明るい光が差し込んでいた。それはカールが目にする、ロウソクやランプの灯火以外の光としては数年ぶりの光だった。その時点ですでに眩しく感じたが、前回間違って陽の光を浴びてしまった時と違って不思議と目の奥が痛くならない。

 カールは人知れず興奮し、リュウイチの肩に掴まる指にギュッと力が加わる。しかし顔色はむしろ紅潮し、小鼻を広げ、その小さな光に興味を湧きたてている。ルクレティアはカールのその表情を見て大丈夫そうだと確認すると、無言のままリュウイチと頷き合い、そして扉を開いた。


「!!」


 目も眩むような光に満ちた外界へ、リュウイチが進み出る。

 その日は日曜日の午前だったが、天気は良くなかった。音が立つほどではないが霧雨と言うにはやや強い雨が朝から降り続いており、庭園ペリスティリウムもそれを囲う回廊の床も重くしっとりと濡れている。多くの者にとってそれは残念な風景だっただろう。だが、カールにとってそれは生涯忘れえぬ光景となった。それが彼が生まれて初めてまともに目にした、光に満ちた昼間の世界の風景だったのだ。


「カール!大丈夫カール!?」

「カール様!御加減は!?」


 後ろからエルネスティーネとクラーラが飛び出してきた。クラーラはいざというときはカールを光から守ろうと、毛布を抱えて来ていた。


「母上!見えるよ!!目が痛くない!!こんなに眩しいのに!!

 すごい!世界はこんな色だったんだ!!」


「おおお!カール!!」

「カール様!!」


 興奮したカールの叫ぶような喜びの声に、エルネスティーネとクラーラが頬と鼻を赤くして涙を浮かべる。

 カールは興奮して庭園ペリスティリウムを指さして質問しはじめた。


「母上、これ何!?下に向かって咲いてる変な色の!!」

「それはポスティクムの花です。色は薄紫。」

「あっちの丸い花は!?小さくて、いろんな色のヤツ!!」

「あれらはウィオラ・ウィットロキアナの花ですよ。」

「あれは!?」

「そっちは…そっちは…ううっ」

奥様ダム…そっちはラミイドスの花ですカール様!」

「あれは何!?」

「ふぅぅ…あれは…カルヨフィッルスの花です。ふぅぅ!…ううぅぅぅ!」


 カールが外に出られるのは夜と決まっていた。燃える火か月の光に照らされた草花はいずれも似たような色にしか見えなかった。だから今まで興味を持ったことはなかった。カールは花がこんなにも色彩の豊かなものだとは知らなかった。光に満ちた世界に感動したカールは夢中になって質問し、エルネスティーネとクラーラが泣きながら答える。それはしばらく続き、リュウイチとルクレティアは…そして部屋の出口のところで控えていたリウィウスは彼らの邪魔をしないよう、ジッと黙ったまま三人を見守った。

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