第259話 カール急変

統一歴九十九年四月二十二日、午前 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 奇跡…それは神の御業みわざである。長い人生においてさえ一度でも目の当たりにすることができたなら、それは何と幸運なことだろう。神の行いを目の当たりにするという事は、少なくともその瞬間、自分が神の最も近くに居るということの何よりの証なのだ。

 敬虔なキリスト教徒であるエルネスティーネもそうした考えを持つ一人だ。そして彼女は昨夜、奇跡を目の当たりにした。ただ、その御業を成したのは名前を教えてくれない彼女の信じる神ではなく、リュウイチという名の降臨者であったが…しかし、それが奇跡としか呼びようのない御業であることには違いが無かった。

 魂が抜けてしまったかのように身動き一つしなくなり、ただ日に日にやつれていくだけとなった息子カールを一瞬で回復させてしまった。カールはあの夜のことを憶えていないようだったが、それ以外はすべて回復している。いや、それ以上だ。長年悩まされ続けていたも治ってしまったのだから。


 昨夜、回復したカールはとても興奮していた。大好きなアロイスとグスタフに会えたし、何よりも降臨者に、しかも伝説の《暗黒騎士ダークナイト》であるリュウイチに会えたのだから。

 そして興奮しすぎて自身の疲労に気づけないまま無理して椅子に座り続けたせいで、晩餐会の途中でダウンしてしまった。それでも最後まで幸せそうだった。


 その気分は今朝も続いていたらしく、朝からカールはとても元気が良かった。あれほど元気のいいカールを見たのはいつぶりだっただろうか?いつもは嫌々食べて最後にどうしても残してしまう牛乳粥ミルヒブライもあっという間に平らげてしまい、侍女のクラーラやエルネスティーネを驚かせていた。


(よかった・・・本当に・・・主よ、感謝します・・・)


 カールに割り当てられた寝室クビクルムからルキウスたちの待つ執務室タブリヌムへ向かって回廊を歩きながら、エルネスティーネは一人感謝の祈りをささげた。


 カールの寝室クビクルムはリュウイチの主寝室クビクルムと同じ一階にあった。リュウイチのが主人用のならカールのは賓客用の寝室クビクルムで、リュウイチの寝室クビクルムとほぼ同じ広さがある。リュウイチのが庭園ペリスティリウムの北側に中央あるのに対し、カールのは東側の中央にあった。

 エルネスティーネが向かう執務室タブリヌム庭園ペリスティリウムの西側にあり、カールの寝室クビクルムとは真逆になるので回廊を大きく迂回しなければならない。


 ティトゥス要塞カストルム・ティティ陣営本部プラエトーリウムより若干広くて新しい庭園ペリスティリウムは手入れが良く行き届いており、朝から音もなく振り続けている霧雨に濡れた草木は輝いて見えた。


(さあ、気持ちを切り替えなくっちゃ…)


 今日は昼からサウマンディアから来た使者との会合が控えている。本来なら昨日会うはずだった相手だ。それが今日の昼に会うのは、向こうの到着が遅れたというのもあるが、それ以上にこちらの都合が理由としては大きい。

 日曜日の今日、執り行われるミサの際に植物化したカールを司祭に見られれば、また悪魔憑き騒ぎが再燃する。それを防ぐためには何としても昨日中にカールの治癒をしてもらわねばならなかった。だが、そんな都合など先方は知らないし、知られないままの方がいいだろう。

 ともかく、サウマンディアの使者がセーヘイムから到着する前に、一度ルキウスや他の家臣団と簡単な打ち合わせくらいはしておきたかった。


奥様ダム奥様ダム!!」


 突然背後から聞き覚えのある女性の声が響き渡った。エルネスティーネはドキっとして振り返る。それはつい三日前のを思い出させるシチュエーションに酷似していたからだ。


「どうしたのですクラーラ!?

 ここはリュウイチ様の御屋敷なのですから、そんな大声…」


「すみません、奥様ダム…カール様が…カール様が!」


 息を切らせて駆けてきたクラーラの「また」という言葉にエルネスティーネの顔が青くなる。


「まさか!?」


「そのまさかです奥様ダム、カール様がまた苦しみだしました。

 と同じです!」


 エルネスティーネはスカートを両手で摘まみ上げるとスタスタと足早にカールの寝室へ急ぐ。暗幕を張り巡らし、日光を遮断した寝室の中で見たのは三日前のあの夜とほとんど同じ光景であった。


「熱い!!ああっ!母上、母上ぇ!!熱いよ!」


 と同じ、日光を遮るために暗幕で暗くした部屋のベッドの上で、ロウソクの灯りに照らされたカールが悶え苦しみ、うなされている。


「カール!カール!」


 エルネスティーネはベッドの脇まで駆け寄り、カールの手を取って握りしめた。


「カール、母はここです!ここに居ますよカール!」


「母上!手と足が熱いよ!…母上!暗い…暗くてよく見えない…」


 やはりと同じ症状・・・エルネスティーネは世界がグラグラと揺れるような感覚に襲われた。


「クラーラ、灯り…いえ、リュウイチ様をお呼びして!

 それから灯りをありったけ用意なさい!!」


「はい、ただいま!!」


 エルネスティーネは握りしめたカールの手をさすった。カールは熱いというが、実際は冷たく氷の様に冷えている。その手足も、顔色も、青くなっていてまるで血が通っていないようだ。


「カール、しっかりなさい!母がここに居ます!今、降臨者様も来ますからね!」


「見えない…母上…暗くて何も…」


 カールは目を確かに開いているが、その焦点はどこにもあっておらず虚空をさまよっている。エルネスティーネは襟元からロザリオを取り出すとカールに握らせ、その手を両手でしっかり握りしめると祈り始めた。


「ああ、主よ…どうかこの子を御救いください。」


 背後で扉が開く音がし、一瞬部屋が明るくなる。振り向くと暗幕を跳ねのけてリュウイチが入って来たところだった。


「おお、リュウイチ様!カールを、どうかカールをお助けください。」


 エルネスティーネの声は涙に濡れていた。またのことが繰り返されてしまう…その予感が彼女をさいなんでいた。

 リュウイチはツカツカとエルネスティーネがいる側とは反対側に歩み寄り、カールを見下ろす。


『えぇっと…ステータスを見るのは…ディテクト・ステータス』


 リュウイチは手を翳して呪文を唱えた。エルネスティーネ、そしてリュウイチと共に入って来たルクレティアが固唾を様子を見守る。


「母上…暗いよ…手が、脚が熱いよ…」


「大丈夫ですよカール!すぐに、すぐに助かります。」


『毒…あと、血流障害…』


「「毒ですって!?」」


『うん、えっと…キュア!』


 カールの身体が黄色く光り始めた。その光が消えると、カールの症状が一変する。悶えていたのが突然止まり、目を数回しばたたかせると部屋を見回してエルネスティーネを見つけた。


「あ…あれ…は、母上?」


「カール、大丈夫なの!?」


「は、はい…あ、な、何か身体中がかゆい…なんか痺れるみたいな感じ…」


『多分、かゆいのは急に血行が良くなったせいでしょう。

 血行が回復すればかゆいのは治まるはず。』


「あ、ありがとうございますリュウイチ様!

 ほら、カールもお礼を」


ありがとうダンケございますシェーン。」


『いや…うん…それはそうと、何やってんの?』


 お礼を言われることにイマイチ慣れないリュウイチは頭を掻きつつ、話をそらせた。リュウイチの視線の先にはクラーラをはじめ侍女たちが大量の燭台しょくだいを持ち込み、次々と火をつけ始めていたのだ。

 無駄に灯りを付けることを不快に思われたのかもしれない…そう思い、どこかばつの悪そうな様子でエルネスティーネが答えた。


「いえ、これは…そのカールが暗くて何も見えないというものですから…

 クラーラ、ごめんなさい灯りはもういいわ。」


「はい、奥様ダム


 侍女たちはエルネスティーネに言われ、せっかく持ってきた燭台を片付け始める。それを見届け、エルネスティーネは改めてリュウイチに詫びた。


「その、お騒がせして申し訳ありませんリュウイチ様。」


『いえ、ひょっとして前回もこうやって灯りをたくさん点けたんですか?』


 クラーラたちの作業をいぶかしむようにみていたリュウイチが何やら腑に落ちぬ様子で質問する。しかし、それがどこか詰問するような非難めいた口調だったため、エルネスティーネは不安を抱き始めた。


 何か気に障るような事をしてしまったのだろうか?


「はい、ありったけの灯りを付けさせましたが…それが何か?」


『その時の部屋もこうやって窓や出入り口をふさいでたんですよね?』


「ええ…この子は陽の光を浴びると火傷をしてしまいますから」


『部屋の広さはここと同じくらい?』


「いえ、ここより少し狭いくらいです。

 あの…リュウイチ様がティトゥス要塞カストルム・ティティにお泊りになられた際にお使いになられた寝室と同じですわ。」


『それで、ありったけの灯りってどれくらいですか?』


「正確にはわかりませんが、ランプとロウソクと合わせて七十か八十はあったと思います。」


 リュウイチがペシッと自分の額を叩き、うーんと唸る。


「あの、何か?」


『それで、部屋の中にいた人は気分が悪くなって頭痛がしたり吐いたりしたんですよね?』


「ええ…その通りです。」


『それはおそらく一酸化炭素中毒です。』

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