毒麦

第258話 ネロの伺候

統一歴九十九年四月二十二日、朝 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 リュウイチの治癒魔法は一発で効いた。魔法がかかるとカールは即座に意識を回復し、その場にいた者たちは喝采をあげ、エルネスティーネは泣いて抱き付いた。

 ただし、アルビノという体質は治らなかった。は治ったが、長い間ベッドで寝て過ごしてきたせいで衰え切ってしまっていた筋力も回復しなかった。筋力強化魔法を使えば普通に行動できるようになりそうだったが、魔法に頼り切るわけにも行かない。筋力トレーニングは今後の課題とされた。


 その後、初対面の参列者が紹介され、新たにリュキスカが加わってかなり遅い晩餐会ケーナが開かれた。時間帯的には晩餐ケーナというより酒宴コミッサーティオと呼ぶ方が相応しく、侯爵家の子供たちが参加していたのでそれほど乱れたものにはならなかったものの、内容は酒宴コミッサーティオに近いものとなった。

 晩餐会ケーナはリュウイチの好みに合わせて、椅子に座って摂るスタイルだったが、カールはこれまでベッドで寝て過ごしてばかりいたため椅子に座っているだけでも体力を消耗してしまうようで、途中でダウンしてしまった。それを機に子供たちは退席し、大人たちだけで祝宴をつづけた。


 その夜は侯爵家の家族はリュウイチの陣営本部プラエトーリウム内に部屋が割り当てられ、ルキウス夫妻はアルトリウスの陣営本部プラエトーリウムに宿泊した。アロイスは軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥム用の宿舎の一棟が割り当てられ、グスタフはアロイスの宿舎に一泊している。

 ただし、リュウイチの陣営本部プラエトーリウムは公式にはルキウスが復旧復興事業の陣頭指揮を執るために利用していることになっているため、朝食を済ませたルキウス夫妻は裏口ポスティクムを通ってリュウイチの陣営本部プラエトーリウムへ戻っていった。


 偽装とためとはいえ、ご苦労なことだ・・・


 送り出した義父母の後ろ姿を嘆息しつつ見送ったアルトリウスのもとへ、入れ代わりで訪ねて来る者があった。リュウイチの奴隷ネロである。

 ネロはリュウイチの奴隷ではあるが、同時にアルトリウスの被保護民クリエンテスでもある。そしてネロは被保護民クリエンテスとして保護民パトロヌスに対する表敬訪問サルタティオに来たのだった。


 被保護民クリエンテス保護民パトロヌスに対してサルタティオ(日本語では「表敬訪問」や「伺候しこう」と訳される)と呼ばれる挨拶を行う《レアル》古代ローマの習慣はレーマ帝国にも受け継がれていた。全員毎朝必ずというわけではないが、被保護民クリエンテラ保護民パトロヌスの家を訪ね、執務室タブリヌム保護民パトロヌスに面会してをする。

 「挨拶」とは言うが別に「おはようございます」というためだけに行くわけでもない。もちろん、特に用はない場合は「おはようございます」だけで終わることも無いわけではないが、大概は挨拶にかこつけて何らかの陳情やら報告やらを行うのが普通だ。そして保護民パトロヌスは挨拶に来た被保護民クリエンテラに対して「お手当てスポルトゥラ」を渡す。「お手当てスポルトゥラ」は食べ物であることが多いが、現金である場合もある。裕福ではない被保護民クリエンテスにとって「お手当てスポルトゥラ」は割と大きく、気風きっぷのいい保護民パトロヌスなら「お手当てスポルトゥラ」だけで生活できることもあり、それ目当てに日参する被保護民クリエンテスも少なくない。


 通常、被保護民クリエンテスは朝になると保護民パトロヌス屋敷ドムスの前に集まる。そして保護民パトロヌスが朝食を終えて来客を受け入れる準備を整えると、その家の奴隷や使用人が玄関を開ける。それを待って被保護民クリエンテスはぞろぞろと屋敷ドムスの中に入っていく。そして、主人の信認の厚い奴隷か秘書によって名前を呼ばれた被保護民クリエンテス執務室タブリヌムへ案内され、順番に挨拶を行う。序列の低い被保護民クリエンテスほど後回しにされ、時間いっぱいになると挨拶もできないまま追い返されてしまうこともある。

 だがそれは普通の被保護民クリエンテスの場合の話だ。


 ネロたちリュウイチの奴隷たちは特別扱いされていた。陣営本部プラエトーリウムの前にはアルトリウスの被保護民クリエンテスが列をなして待っていたが、ネロ達は裏口ポスティクムから中に入ることができた。そして、玄関が開かれる前に他の被保護民クリエンテスたちを差し置いて最優先でアルトリウスに挨拶することができたのである。

 もちろん、これはリュウイチに関する情報を得るための特例措置だった。そもそも、リュウイチもだがネロ達も存在を秘されねばならないのだ。他の被保護民クリエンテスたちと同列に扱うことで、「あいつら何だ?」と周囲の興味を引くことを避ける必要もあった。


「それで、ネロだったな?

 今日は貴様の番ではなかったのではないか?」


 応接室タブリヌムの椅子に腰かけながら、アルトリウスは目の前でひざまずくネロを見下ろして言った。

 ネロたち八人の奴隷たちは全員がアルトリウスの被保護民クリエンテスであり、全員が挨拶に来ることになってはいたが、全員がいっぺんに来るのは無駄なので日替わりで一人ずつ順番に挨拶に来ることになっていた。


「はい、是非閣下に直接ご報告したかったのですが、私の番の日は閣下がご不在でしたので…」


 アルトリウスも毎日必ず陣営本部プラエトーリウムに居るわけではない。現にここ数日はハン支援軍アウクシリア・ハンのイェルナクが来たせいでずっと帰ってこれてなかった。アルトリウスが不在の際は家令のマルシスがネロ達の報告を受けることになっていたが、どうやら直接報告したいことがあったらしい。


「何だ、重要な事か?」


「はい、このポーチのことなのですが、他の奴隷から御報告はお受けですか?」


 ネロはひざまずいたまま上体を起こすと、腰のベルトに付けたポーチを指示した。アルトリウスは留守中、他の奴隷たちの挨拶を受けていたはずのマルシスの方を見るが、傍らに立って黙ったまま様子を見ていたこの老ホブゴブリンは何も聞いていないと首を振った。


「いや、それがどうかしたのか?」


 アルトリウスの返事を聞いてネロは黙ったままアルトリウスの目を見つめ、ゴクンと唾を飲んでから覚悟を決めたように話し始めた。


「これはリュウイチ様からいただいた魔導具です。」


「魔導具だと!?」


 アルトリウスは背もたれに預けていた上体を起こした。


「ご覧ください。」


 ネロはそういうと自分のポーチの蓋を開けて手を突っ込み、中から一振りの剣を引きずり出した。それはネロがリュウイチから貰ったスチール・ロングソードで全長は三ぺス(約九十センチ)ほどもある。どう見ても深さ八インチ(約二十センチ)しかないポーチに入るわけがなかった。


「なんと…!?」


「一見、中は何もありません。」


 ネロはそう言って蓋を開けてポーチの中をアルトリウスに見せた。隣からマルシスも目を丸くして覗き込んできたので、そちらにも見せる。ネロが言う通りポーチの中は空っぽだ。


「ですが、こうして手を突っ込むと…ほらこの通り、これはリュウイチ様からお預かりしたポーションです。」


 そう言うとネロは何もなかったはずのポーチからガラス瓶を取り出して見せた。


「なんということだ…なんでも入るのか?」


「この、幅六インチ(約十五センチ)縦四インチ(約十センチ)の口をくぐる物ならば何でも入るようです。入れた後は先ほどご覧になられたように、口を覗いても空っぽにしか見えませんし、重さも感じません。

 そして、どうやらポーチの持主でなければ中身を取り出すことも出来ないようです。他の奴隷たちも全員が同じものを頂戴しましたが、誰も他人のポーチの中身は取り出せませんでした。」


「他の奴隷たちも持っているのか?」


「はい、全員が等しく同じものを持っております。」


「うーん…」


 アルトリウスは唸りながら椅子に身を沈め、額に手をやった。


「閣下…」


 気遣うマルシスに手を振って控えさせると、アルトリウスは誰に言うともなく独り言ちる。


「これは…どういうことだ?リュウイチ様は何のつもりで…」


「その、申し上げます。」


 思わず考えが口から漏れていただけだったが、てっきり自分への下問かと勘違いしたネロが考えを述べた。


「閣下は魔導具を渡さないようお願いされ、リュウイチ様もそれを承諾なさいました。この時の『魔導具』とは、魔導武具のことだとリュウイチ様が解釈した可能性がございます。そうしますと、このポーチは武器でも防具でもありませんので、リュウイチ様が問題ないと思召おぼしめされたのかもしれません。」


「たしかに…それなら仕方がないことかもしれません閣下…」


 ネロの説明にマルシスが相槌を打つが、アルトリウスは納得しきれていないようだった。


「たしかにその可能性はあるかもしれん。いや、それで説明はつくな…

 だが、他の奴隷たちは何故そのことを報告しなかった?奴隷たちも問題ないと思ったというのか?」


おそれながら、先ほどお見せしましたようにこのポーチと共にポーションもお預けになりました。というより、ポーションを預ける際に入れ物としてこのポーチをくださいました。

 ポーションは我らがリュキスカ様を護衛するにあたり、曲者に襲われて怪我をした場合を考えてお預けになられたものです。

 ただ、リュウイチ様におかれましては、こうして貴重品を預けしてまで色々と御用を申し付けくださいます。奴隷たちはその御意に沿い、ご信頼にお応え申し上げるには、あえて報告を控え、無用な波風を立てぬ方が良いと愚考しておるようです。」


 ネロは昨日からずっと頭の中で熟考を重ねて練り上げた説明をした。これは言葉を一つ間違えればリュウイチとアルトリウスの信頼関係を壊しかねないものであった。実際のところ、リウィウスなどはアルトリウスよりもリュウイチへの忠義を優先すべきだと断言すらしている以上、そのまま伝えたら間違いなく奴隷たちの立場を悪くするし、アルトリウスにもリュウイチに対する不信感を植え付けることになるだろう。

 正直言うとネロ自身、本当に報告すべきかどうかギリギリまで迷っていたのだ。


「貴様はどうなのだ、ネロ?」


「ハッ、私も無用な波風を立てることは望みませんし、閣下とリュウイチ様の信頼関係にヒビを入れるつもりもございません。しかし、知らさぬままでは、何かあった折に却って閣下とリュウイチ様の信頼関係を壊しかねぬと愚考し、あえて御報告させていただいた次第にございます。」


「ふーむ・・・」


「・・・閣下?」


 アルトリウスはしばしの間沈思黙考した。


「わかった、良く報せてくれた。

 だが、聞かなかったことにする。貴様も報告しなかったことにしろ。」


「閣下!?」


「リュウイチ様が何をどうお考えになり、お前たちにそれをお与えになったのかはアルトリウスもわからん。だが、黙っているということは、言う必要が無いとお考えなのだろう。つまり、アルトリウスは知っていない方がいいということだ。知っていなければならない事だがな…だから当面は知らないふりをする。

 マルシス、ネロにスポルトゥラを!」


「「はっ!」」

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