第242話 最初の一手

統一歴九十九年四月二十日、午後 - ティトゥス要塞司令部/アルトリウシア



「ご苦労様でした子爵公子アルトリウス

 では間違いなくは差し入れできたのですね?」


 一部始終の報告を受けたエルネスティーネは胸のつかえがとれたように、小さな安堵の表情を見せながら確認する。


「はい、ヘルマンニ卿が『全員への差し入れ』としてねじ込みました。

 受け取ったアチラ側のブッカも、意図を理解したようです。」


 アルトリウスの報告に要塞司令部プリンキピアの会議室に列席している家臣団たちからは安堵のため息が複数聞こえる。


「これで少しは時間が稼げた…そう考えてよろしいのでしょうか?」


「構いませんじゃろう…もっとも、女どもが暴行を受けること自体は防げやせんでしょうが、少なくとも望まれん子が生まれちまう可能性は減らせるじゃろう。」


 それでもなお暗いエルネスティーネの言葉に、ヘルマンニが重々しい表情のまま相槌を打った。


 ラセルピキウム…それは料理の風味付けに使われる香料である。シルフィウムという植物から採れる樹液ラーセルを加工したもので、料理に少量を混ぜて使うものだが、一部の料理には欠かせない。

 古代ローマの料理などを研究すると魚醤ガルムと共に必ずと言っていいほどレシピに出て来るものだが、原料のシルフィウムが一世紀半ばごろに絶滅してしまっており、最後の一株が時の皇帝ネロに献上されたという記録が残っている。絶滅の理由については栽培が不可能なのに乱獲したという説が有力だが、栽培は可能だが耕作面積当たりの採取量が少なすぎて採算が合わず、誰も栽培しようとしなかったという説もある。


 しかし、この世界ヴァーチャリアのシルフィウムは《レアル》のシルフィウムと非常によく似ているが別の植物だった。栽培は可能であり、特に《土の精霊アース・エレメンタル》の加護があれば一年のうちに数回の収穫を見込むことができ、さらに《土の精霊アース・エレメンタル》の加護を受けて栽培されたシルフィウムは効能も強かった。

 料理の風味付けなら少量で十分だが多く使うと眠気を催させ、更に多く使うと嘔吐などの副作用がある。何より特筆すべきは避妊効果があることだった。


 通常の料理に使うラセルピキウムはシルフィウムの葉や茎から採れる樹液ラーセルを原料としており、よほど大量に使わない限り避妊効果は期待できないが、根から採取された樹液ラーセルを原料としたものは特にリジアスと呼ばれ避妊薬として珍重されている。日常的に服用していれば非常に妊娠しにくくなることが知られており、娼婦にとっては必須の薬だ。

 ちなみにリュキスカも娼婦になってから服用し続けていたが、火山災害の影響で流通量が激減し、入手できないまま商売を続けてしまったことで妊娠してしまったという経緯がある。


 ヘルマンニが「差し入れ」として渡したラセルピキウムは、実は避妊薬リジアスだった。料理用のラセルピキウムと避妊薬のリジアスは同じ植物から採れるだけあって、パッと見では見分けがつきにくい。避妊薬を服用することの外聞をはばかる人たちの間では、リジアスのことをラセルピキウムと呼んでごまかす事もよくあった。

 要するに、さらわれた女性たちがハン族の子を身ごもらないように講じられた一つの策略だった。調味料と偽って避妊薬を渡すことで、妊娠を防ごうというのである。


 ハン支援軍アウクシリア・ハンが蜂起した日、多くの住民がさらわれたことは分かっていた。事件当日の目撃証言がいくつかあったし、行方不明者が多い割に現場に残されていた死体は男性のものがほとんどだった。女性の死体は高齢者か幼すぎる子供ばかりで、妙齢の女性の死体はわずかしかなかったのである。

 そして、一度は捕まったものの途中で脱走して帰って来た水兵マウノ・ピルカッソンのもたらした情報から、ハン族が年ごろの女性住民を狙って拉致していたことも確認された。

 民族として絶滅の危機にある彼らが女性を狙ったとしたら、考えられる目的は一つしかない。すなわち、自分たちの子供を産ませることだ。


「すでに妊娠していたとしても、まだ早い時期ですからリジアスを飲めばでしょう。ヘルマンニ卿が渡したリジアスがあれば、拉致された女性たちが仮に二百人いたとしても一か月は持つはずです。

 追加分も念のため既に発注していますが、しかしいつまでも使える手ではありません。数か月たっても誰一人身ごもらないとなれば、何がしか疑いをかけられるでしょう。」


 侯爵家筆頭家令のルーベルトが落ち着いた口調で言った。今回、ティグリス、リクハルド、メルヒオールといった自ら娼館を経営している郷士ドゥーチェらの協力を仰いで一夜のうちに多量のリジアスを集めたのは彼だった。


「それもありますが、体質的にリジアスが効かない女性もいることでしょう。

 それに、ヘルマンニ卿もおっしゃったように彼女たちが暴行を受けるであろうことに変わりはないのです。時間は稼げたとはいえ、急ぐに越したことはありません。」


 エルネスティーネは力強くうなずいた。

 避妊薬としては強力なリジアスだがすべての人に効くわけではなかった。おそらく拉致された女性たちの中にも、割合的には二~四人程度は効かない女性が含まれているであろうと予想されている。


「タイムリミットは二か月程度と考えています。

 おそらくリジアスが疑われるようになるまで三か月程度はかかると思われますが、その前に冬になってしまいます。六月を過ぎれば本格的に冬に突入してしまい、軍事的手段によるエッケ島攻略は極めて困難なものになるでしょう。六月を過ぎれば、次に攻略可能となる時期は春まで待たねばならなくなります。」


 アルトリウスが軍人としての見解を述べる。これは軍団幕僚らとも意見交換して合意に達した見解だった。


「二か月以内に・・・彼女たちを救出できますか?」


「残念ながら現状では極めて困難と言わざるを得ません。

 普通に攻略するだけでも、わがアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアだけでは戦力が全く足りていません。アルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアクプファーハーフェン歩兵隊コホルス・クプファーハーフェンに協力を仰ぎ、各郷士ドゥーチェから義勇兵を募って根こそぎ動員してようやくといったところです。

 それで拉致されたご婦人方の救助もとなると・・・」


 アルトリウスの答えにエルネスティーネは落胆の色を隠せない。

 エッケ島はかつて海賊が拠点にしていた時から難攻不落の要害だった。南側以外は断崖絶壁で寄る辺が無く、南側は防御陣地が敷かれていて守備兵の三倍程度の兵力で攻めてもなかなか陥ちなかったと聞かされている。それもアルトリウスの父グナエウスが存命でアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアも健在だったころの話なのだ。そのエッケ島に海賊たちに倍する戦力が入ったとなれば、確かに従来以上に難攻不落となるのも仕方が無いだろう。


「あまり頼りたくはありませんが、サウマンディウス伯爵にもご助力を願わねばならないのでしょうね。」


 アルビオンニア貴族にとってサウマンディアにこれ以上借りを作りたくないというのは共通認識だった。サウマンディアとの関係は決して悪いわけではないし、プブリウスらサウマンディア貴族を嫌っているというわけでもない。むしろ、関係が良好だからこそ一昨年以来世話になりっぱなしの彼らにこれ以上迷惑をかけたくないという考えだった。


「昨日もご説明申し上げましたが、問題は船です。

 兵がいても、それをエッケ島へ運び込む船が絶対的に足りません。」


「どれほど必要なのですか?」


「できれば百隻…それも水深の浅いアルトリウシア湾を航行できる奴をです。

 攻略するだけならその半分も要りませんが、捕らえられた住民が殺害される前に一気呵成に攻め落とすとなれば兵も船もそれなりに要るでしょう。

 小潮こしおの日を狙って夜のうちに揚陸、そこから夜明け前に一気に・・・」


 しかし、それを説明するアルトリウスの表情は浮かない…説明している本人がそれで勝利するイメージに自信を持てないからだった。攻略するだけなら出来る。問題は拉致された住民を救出できるかどうかだ。

 そして、忘れてならないのは攻略に必要となる兵員は、アルトリウシアの復旧復興事業に必要不可欠な労働力でもあるということだ。叛乱事件のせいで焼け出された住民たちに冬までに住居を提供しなければならないのである。


「しかし、百隻なんて到底用意できる数ではありません。十隻でも無理です。

 なのに攻略するだけでも半分の数だなんて・・・」


 侯爵家財務官のヴィンフリート・リーツマンが呻いた。

 現在アルトリウシアに残された戦船ロングシップは三隻のみ。クプファーハーフェンの軍艦を合わせても十隻に届かない上に、クプファーハーフェンの軍艦ではアルトリウシア湾には入れない。サウマンディアの軍艦でも無理だ。建造するだけの金も資材も無いし、時間も無い。それを操る乗員だって用意できそうにない。


エルネスティーネは素人ですから、戦事いくさごとについては殿方にお任せするほかありません。

 難しいですが、なるべく軍を動かすことなく住民たちを奪還する方法を考えましょう。」

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