第227話 ハニー・トラップ?

統一歴九十九年四月十八日、晩 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 ヨウィアヌスは二勝し、三戦目の途中で力尽きた。

 一番小さい茶碗ポクルムを使ったのだが一戦目が終わった時、ヨウィアヌスはすでにヘロヘロになっていた。二勝目を勝ったのは単にリュウイチが弱すぎたからだろう。三戦目が始まって二手打ったところで突っ伏してしまった。


『ネロ、このデナリウス銀貨の下って、えーっとセテルティウスだっけ?』


「セテルティウスです旦那様ドミヌス

 一デナリウスで四セステルティウスです。」


『じゃあ、コレ預けるからそのセステルティウスってのに両替しといて。

 で、そのうち二枚を彼にやっておいてくれ。二勝分ってことで…』


 ネロは「かしこまりました。」と言ってリュウイチから銀貨十枚を受け取った。


『さ、今日はもうお開きだ。彼は明日休ませてやっていいよ。

 後片付けはお願いします。』



 リュウイチと死闘を繰り広げたヨウィアヌスはいびきをかいたまま他の奴隷たちに引きずられて自室へと帰り、部屋の片づけをリウィウスとネロに任せたリュウイチは自分の主寝室クビクルムへ戻る。

 主寝室クビクルム内にはいくつかのランプとロウソクが灯されており、淡い明かりに照らされている。ランプの油に鎮静と虫よけの効果があるとされる香料が混ぜられていて、室内全体に不快ではない程度に鼻がスッとするような香りに満ちていた。


 部屋に入ったリュウイチが後ろ手に扉を閉めると、穏やかに吹き込んでいた風が止まり、ロウソクの火の揺らぎが収まる。わずかに踊っていた影がその動きを止める中、なおもベッドの上の毛布のふくらみだけがモゾモゾと動き続けている。


『・・・・・何やってんですかリュキスカさん?』


 ベッドの脇まで寄って毛布をめくると、その正体は寝返りをうつ素っ裸のリュキスカだった。


「ん?…あ、いっけない、寝入っちゃうとこだった!」


『ここ、オレのベッドですけど?』


「え?ああ、知ってるよ?」


『何してんですか?』


「んっふー、お・し・ご・と♪」


 リュキスカはもったいぶるようにニヤーっと笑って言った。


『お仕事って・・・』


「アタイ、今日からアンタの専属娼婦になったの。」


『専属娼婦!?』


「そうよ?」


『何で!?』


「何でって…今日、侯爵夫人エルネスティーネ子爵閣下ルキウスと契約したのさ。」


『・・・・・ハァー・・・』


 リュウイチは目を閉じ、右手を額にペシッと当ててため息をついた。


「何だい、アタイじゃ不満だったかい?」


『いや、そういう事じゃないけど…』


「じゃあ問題ないね。

 さあ、早くこっちおいでよ…寒いじゃないさ。」


『何もベッドの中で待つことなかったろ?』


「ベッドあっためておいてあげたんじゃないさ。

 普通、貴族ノビリタス様はベッド温め役の奴隷か使用人くらい持ってるもんだろ?

 何で兄さんは持ってないんだい?」


 冷たいベッドに入らなくて済むよう、裕福なレーマ貴族は奴隷か使用人をベッド温め役に指名し、自分が寝る前にベッドを人肌で温めさせておく習慣があった。それは大抵女であり、同時に情婦を兼ねていることがほとんどだった。


『いや…あー…来たばっかりだからかな?』


「兄さんほどの大貴族パトリキが一人旅ってわけでもないだろうにさ。

 いいから服脱いで早く入っておいでよ、寒いじゃないさ。」


『あ、ああ』


 リュウイチは着ている物を一気にストレージに移して裸になるとオズオズとベッドに入った。


「アンタそれすごいね。

 この前もそれやったの?魔法?」


『え?』


 ベッドに身体を滑り込ませてくるリュウイチに毛布を被せてやりながらリュキスカは迎え入れた。


「一昨日のことだよ。

 アンタいっぱい着てて、アタイは貫頭衣トゥニカビキニパンツスブリガークルムしか着てなかったのにさ、アタイが脱ぎ終わる前にスッポンポンになってたじゃないさ?

 アタイ、びっくりしたよ。」


『あ、ああ…アちょっと!?』


「へーん、何だかんだ言ってココはこんなにしちゃってさ。」


『いきなり触るなって!』


「いいじゃないさ、減るもんじゃなし」


『それ男のセリフ』


 リュキスカはクスクス笑いながら身体を密着させてきた。


「あ、そうだ、今日はオッパイ触っていいよ。

 さっきフェリキシムスにたっぷり飲ませた後だから」


『そういや前回より柔らかいな。』


「オッパイ溜まってると張って大きくなるし、一昨日みたいに石みたいに硬くもなるしさ、触られると痛いんだよね。でも、今は大丈夫さ。」


『赤ちゃんが飲んだから?』


「うん、ありがとね。」


『うん?』


「あの子さ、今まで病気で元気なくてさ。オッパイもあんまり飲んでくんなくて、余ったオッパイ自分で絞んなきゃいけないくらいだったのにさ。

 アンタに治してもらってから今までウソみたいにオッパイ飲むようになったんだよ。」


『あ、ああ…』


 リュキスカとその赤ん坊を助けたのは確かだが、そのために何か大層なことをしたという認識はまるでない。大したことをした覚えもないのに重大な結果を招き、それに対して過大と思えるほど感謝される…そのギャップにリュウイチはまだ慣れることができていなかった。頭の中では理解しているのだが、気持ちが追い付いていないのである。そのせいで気のない返事をしてしまったのだが、リュキスカはそれが気になったようだ。


「ん、何だい、気が乗らないね?

 ココはこんなだってのにさ。」


『だから、触るなって』


「んーっ・・・そうだ!口でしてあげよっか?」


『いや、いいよ…』


「どしたんだい?

 あ!ひょっとして一回寝た女には興味をなくしちゃうタイプ!?」


『いや、そうじゃなくて、ちょっと戸惑ってるだけだ。』


「ふーん・・・まあ無理にしろとは言わないけどさ。」


 身分社会であり男尊女卑社会であるレーマ帝国では、一般にセックスの主導権は男性側が握らねばならないことになっている。女がいくらやりたくても男にその気がないからといって女が男に無理やりやるようなことはあってはならない(逆はそうでもないが…)。ほかにも文化的に色々と作法というかタブーのようなものが存在していた。それらについてリュウイチは良く知らないし、リュキスカも娼婦という職業柄そうした制約を受けにくい立場にはあったが、報酬は既に約束されているし客を喜ばせるのが仕事である以上、リュキスカの側に無理に行為に及ばせねばならない理由は何もない。


『専属娼婦ってどういう契約になってるの?』


「え?…んー…侯爵夫人様エルネスティーネ子爵様ルキウスからお給料貰ってぇ、スパルタカシアルクレティア様が兄さんに嫁がれるまでするって…あと、兄さんの好みとか分かったこと教えろって言われた。で、侯爵夫人様エルネスティーネ子爵様ルキウス被保護民クリエンテスにしてもらった。」


 リュウイチの肩に頬を摺り寄せるようにしていたリュキスカが突然ガバッと顔を起こしてリュウイチの顔を見つめる。


「でも、アタイ兄さんの被保護民クリエンテスだからね!?

 兄さんが言ってほしくない事があったら言わないよ!

 アッチと兄さんがぶつかることがあったら、アタイは兄さんの味方だからね!

 領主様にウソつけって言うならウソつくし!」


『いや、それは良いよ。

 ぶつかることなんてたぶん無いだろうし…』


 盛大な二重スパイ宣言ととれなくもない。もちろん、リュキスカ自身にそういうよこしまな気持ちはまるでないのだが、気軽な気持ちで言ったことややったことがここでは酷く大げさな結果を招くことをここ数日で経験して妙に身構える癖がつきつつあるリュウイチからすると、こうも明け透けに言われると却って戸惑ってしまう。


「でもさ」


『うん?』


 リュキスカはまた頬をリュウイチの肩に摺り寄せ、身体をもぞもぞ動かして密着させる。


「アンタ、アタイの保護民パトロヌスなんだ。

 アタイとアタイの子の命の恩人だからさ、アタイ、アンタのためなら何だってやるよ?

 お給料貰えなくったって、兄さんならいくらでもしてやるよ!?

 とりあえず…今のアタイはこんな事しかできないけどさ。」


 フフッとリュウイチは小さく笑った。


『ああ…まあそのぉ…なんだ。

 そんなに気負わなくてもいいよ…。』


 リュキスカはまた頭を起こしてリュウイチの顔を覗き込んで言った。


「むっ、何だいそれ!?

 アタイのこと信用してないってことかい?」


『いや、そういうわけじゃなくて…』


「アタイだって兄さんに良くしようって色々考えてんだよ?

 そりゃ、貴族パトリキ様のことなんか分かんないけどさ。」


『んー、だからまぁ、俺も難しい事はわかんないけど、みんな仲良くできりゃそれでいいんじゃないかなぁ?』


「兄さんも、周りと上手くやりたいって思ってんのかい!?」


『え?…あぁ、そりゃまぁ…ね』


「ふーん」


『何?』


「いやさ、アタイも難しい事分かんないから知恵が回んないんだけどさ、ちょっと話を聞いてもらえるかい?」

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