第226話 ドランカード・チェスの始まり

統一歴九十九年四月十八日、夕 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 リュウイチは夕食を一人で摂った。

 ルクレティアは結局帰ってこなかったし、アルトリウスとクィントゥスは急に早馬で呼び出されたとかで、あわただしくティトゥス要塞カストルム・ティティへ行ってしまった。リュキスカは帰っていたが、ちょうどこれから夕食という時間に赤ん坊の授乳が始まってしまった。

 ヴァナディーズは自室クビクルムに引きこもったままだ。


 今日昼過ぎに軽く昼食に誘ったところ、ヴァナディーズは喜んで飛び出してきた。実はいつ声がかかるかとソワソワしながら待っていたのだそうだ。

 それを聞いて「ひょっとしてコイツも“聖女”狙いか?」と警戒したリュウイチだったが、彼女の狙いはまったく別のところにあった。


「もしよろしければ、雨を降らせる技術についてお話をお聞かせください!」


 ヴァナディーズは不美人ではない。むしろ顔立ちは整っていて美人と言える。目は大きく瞳は黒い。髪はややウェーブがかった黒髪で、肌は薄い褐色。インドとか中央アジアあたりに居そうな顔立ちで目鼻立ちはくっきりしており、太い眉毛と強調し過ぎのアイラインは御愛嬌といったところだろうか・・・体つきは太ってはいるわけではなく、どちらかと言えば細い部類で服を着ている分にはスマートだが、運動する習慣が全くないので実は服を脱ぐとあちこちだらしない。


 目鼻立ちのくっきりした美人にありがちなことだが、微笑んでいる時はすごく魅力的に見えるのに、無表情の時は本人が自覚している以上に怖い印象を周囲に与えてしまうタイプだ。リュウイチ自身、最初のころは怖い人かと思っていたくらいだ。

 だが降雨技術の話をねだる彼女は目を輝かせ、愛想のいい笑顔を浮かべている。リュウイチがギャップ萌えタイプでヴァナディーズがそのつもりなら、一発で落ちていたかもしれない。


 だがリュウイチの中の人はそういう夢見る年ごろでもなかったし、ヴァナディーズの方にもその気はなかった。

 たっぷり三時間近くもかけて人工降雨や灌漑かんがいについて話をすることになった。とは言っても、話すリュウイチも話を聞くヴァナディーズも専門家ではない。リュウイチの知識はテレビやラジオで聞きかじった程度のものだったし、おそらくいくつかの知識は既にムセイオンに伝わっているモノも含まれていただろう。それでもヴァナディーズにとっては初めて聞く情報が多く含まれており、彼女の故郷では試されていないが使えるかもしれない知識も少なからず含まれていた。

 あらかた話を聞いて満足したヴァナディーズはそのまま自室クビクルムへ引き込んでしまい。聞いた話を整理してまとめるのに夢中になってしまった。



 まあ、この国レーマ帝国じゃ男女は別々に食事をとるらしいから、どのみち誘っても無駄だったかもしれないが・・・



 テレビもラジオもなく、それでいて一緒に食事を共にする誰かがいるわけでもない状況での食事というのは御馳走であってもどこか味気なく感じてしまうものだ。

 一応、ネロが給仕を務めてはくれていて、料理の名前も教えてくれるが・・・どうもネロ自身は食材がどうの料理法がどうのといった知識は疎いらしく、料理人から聞いた料理名の単語をそのまま口にしているようで、何を言っているのかリュウイチに伝わってこない。

 どのような言語だろうと『ソロモン王の指輪リング・オブ・キング・ソロモン』は相手が伝えようとしている意味をちゃんと訳してくれる。だが、話をしている本人が伝えようとする意味を意識していない言葉は訳してくれないのだ。意味も分からず唱えているだけの念仏は単純な音としてのみ伝えられるので、ネロの言う料理名はただのラテン語の羅列にしか聞こえない。そして、ラテン語を解さないリュウイチには音から意味を探ることもできない。

 おかげで味気無さに拍車がかかってしまうのだが、だからといってネロはネロで一生懸命にやっているので文句も言いづらい。


 その食事を終えると益々暇になる。

 レーマの夕食時は早いのだ。日没前に正餐ケーナを終え、日の光のあるうちに片づけて寝る準備をするのが一般的なレーマ人の生活習慣だ。贅沢な貴族ノビリタスなら、その後の余った時間で酒宴コミッサーティオに興じるのだが、今のリュウイチは金はあっても一緒に酒宴コミッサーティオを楽しむ相手がいない。おまけにリュウイチはいくら酒を飲んでも酔わないから一人で飲んでも楽しくない。

 だが、寝るには早すぎる・・・


『ネロってチェスできる?』


「は?はい、たしなみますが・・・?」


 片づけてる最中に突然訊かれ、ネロは驚きながらも答えた。


『ルクレティアやヴァナディーズも出来たけど、こっちの世界ヴァーチャリアでチェスってみんな打てるの?』


「レーマの貴族ノビリタスならおそらく皆、打てるのではないでしょうか?」


『ネロ以外の奴隷は打てる?』


「オトとヨウィアヌスは打てたと思います。他は、もしかしたらリウィウスも打てるかもしれません。」


『ネロは強い?』


「人並だと思います。」


『一番強いのは誰かな?』


「ヨウィアヌスは賭けで打ってたと聞いてますがどの程度かまでは・・・」


『相手してもらっていいかな?』


「かまいませんが、旦那様ドミヌスはお打ちになるのですか?」


『昨日ルールを覚えたばっかり。』


 これにはさすがに呆れざるを得なかった。


「その・・・私は上手に手加減できるほど上手くはありませんよ?

 楽しむのでしたら同じくらいの者が相手の方がいいでしょうし、上手くなりたいのでしたら上手な相手と打った方がいいでしょうし・・・まして、旦那様ドミヌスは今、お酒を召し上がられたばかりでは?」


 リュウイチは時間を潰したいだけなのだから勝ち負けなんかどうでもいいのだが、どうもネロは真面目に考えすぎるようだ。もっと気楽に考えてくれればいいものを、妙に重大なことのように捉えている。

 まあ、ネロからすれば自分のせいで打ち筋に変な癖がついたと言われたくもないし、酔っ払い相手に下手に勝ってリュウイチの機嫌を損ねるようなこともしなくないというのが本音だった。相手が自分の生殺与奪権を持つ人物で、その性格もまだ把握しきれていないのだから尻込みするのは当たり前だろう。


『私はお酒には酔わないから大丈夫だよ。

 時間を潰したいだけだから勝ち負け関係なしに何だっていいんだ。

 何なら、勝ったら銀貨を一枚あげよう。』


 このリュウイチの提案にはさすがの堅物のネロも笑みを浮かべた。


「ありがたくはありますが、銀貨の無駄使いになりますよ?」


 リュウイチが持ってる銀貨はデナリウス銀貨だけだ。一デナリウスと言えば今のネロにとっては大金である。陣営本部プラエトーリウムの向かいに開業した酒保で飲んで食って女を抱いても半デナリウスしか使わない。一昨日の夜に奴隷たち全員が貰った二デナリウスは結局返さなくて良いことになっていたが、まだ誰一人として半分も使ってないのだ。


『じゃあ、三回勝ったら一枚あげよう。』


「では早々に片づけさせていただきます。」


『盤と駒は私が用意するよ。』


 ネロが嬉々として片づけを終えて戻ってきたとき、他にも奴隷を連れてきていた。付いてきていたのはリウィウス、ロムルス、ヨウィアヌス、ゴルディアヌスの四人だ。オトはリュキスカの世話をしていて、他の二人は酒保へ遊びに行っていたから、ここに残っていた手すきの奴隷が全員来たことになる。


旦那様ドミヌス、アッシらも見学させてもらっていいですか?」


 どうやらネロから一部始終を聞いて興味がわいたらしい。チェスに三回勝てたら銀貨を貰えると聞いて興味を持たない者など居ないだろう。


『え?ああ、いいよ?』


 リュウイチはさっそくチェス盤と駒を出し、四人が見ている前でネロと対戦…そして三回連続で惨敗した。

 四人は勝負に口を挟まないが、リュウイチが負けるたびに「あちゃあ」とかため息をついている。どうやら、彼らは心の中でリュウイチを応援してくれていたらしい。


旦那様ドミヌス、こいつぁいけねぇや。」

「金の無駄ってもんですぜ。」

「ネロなんかに負けちゃ話になんねぇや。」


 ネロがリュウイチから約束通り銀貨を受け取るのを見て、四人は羨ましいやら悔しいやらで、口々に残念そうに不満を口にする。


『君らは打てるの?』


オレロムルスは下手の横好きだけど、さっきのネロよりはマシでさぁ。」

「こんな中じゃヨウィアヌスが一番強ぇですぜ。」

「ネロがたぶん一番弱ぇ」

「いや、お前ぇゴルディアヌスはネロとどっこいだ。」

アッシリウィウスぁネロと同じくれぇかなぁ?」

旦那様ドミヌス、ネロに銀貨やるくれぇならアッシヨウィアヌスとやらせてくだせぇ!」

「いや、ヨウィアヌスじゃ強すぎて勝負にならねぇ。

 アッシゴルディアヌスとやりやしょう。」


 意外にも全員が打てるらしく、やけに盛り上がってきた。


『みんなそんなに強いんならハンデ貰わなきゃなぁ?』


「ちゃんと手加減しやすよ!」

「そんなこと言って勝ちに行くんだろ!?」

「当ったり前ぇじゃねぇか!」

「目に見えるハンデじゃなきゃ不公平だぜ。」

「いいですぜ!

 じゃあナイト抜きでやりやしょう。」

「いや、ナイトとルークだな。」

「クイーンだろ?」

「ポーン全落ちは?」

「いや、さすがにそれは・・・」


『いやいや、駒の動かし方とか覚えたいしなぁ…』


「駒抜かないでって・・・じゃあどんなハンデで?」


 リュウイチはニヤッと笑った。


『一手打つごとに酒を一杯ってのは?』

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