第223話 スパルタカシウス父娘

統一歴九十九年四月十八日、午後 - ティトゥス要塞ルクレティウス邸/アルトリウシア



 レーマ軍の要塞カストラには駐留する軍団レギオーの将兵のための宿舎が一通り設けられており、その最大のものは軍団長レガトゥス・レギオニス用の宿舎プラエトーリウムであるが、それとは別に軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥム大隊長ピルス・プリオルのための宿舎プラエトーリウムも併設されている。

 軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥム用の物は軍団長レガトゥス・レギオニス用の物に比べれば一回り小さいが、軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムには貴族ノビリタスが就任することもあってそれなりの建物が用意される。


 アルビオンニウムから避難してきた大神官ポンティフェクス・マクシウスルクレティウス・スパルタカシウスの邸宅に宛がわれた軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥム用の宿舎プラエトーリウムもそうしたものの一つであった。

 間口が十六ピルム(約三十メートル弱)、奥行きが四十二ピルム(約七十八メートル)ほどの敷地に建てられた《レアル》ローマのドムス様式の建物の最も奥に、ルクレティウスの主寝室クビクルムは存在した。


 手入れの行き届いた庭園ペリスティリウムでは本格的な秋の深まりとともに植え替えられた晩秋の花々が、清らかな水を流し続ける中央の噴水ピスシーナとともに小さな楽園を現出させている。それを囲う回廊に下げられた吊り下げ円盤オスキッルムと午前の雨に濡れたままの草花はやわらかな陽光を浴びてキラキラと輝き、幻想的な風景を作り出していた。


 晩秋の肌寒さの中であえて開け放たれた窓越しにその光景を楽しんでいた主寝室クビクルムの主は今、ベッドに横たわったまま愛娘とのやけに遅い昼食ブランディウムをともにしていたが、その表情は複雑であった。


「そうか…ではやはりリュウイチ様の聖女を目指すのだな?」


 娘から報告を聞いたルクレティウスは長く静かに息を吐いてから言った。その視線の先には固焼きパンパニス・ビーケンティーノの盛られた皿があったが、ルクレティウスは別にそれを見ていたわけではなかった。


「はい、リュウイチ様はルクレティアを御傍に置いてくださると、お約束してくださいました。」


 血統の由緒だけを言えばレーマ帝国どころかこの世界ヴァーチャリアでもトップクラスの格式を誇る聖貴族コンセクラトゥムスパルタカシウス家ではあったが、聖貴族コンセクラトゥムは血統が古くなればなるほど、代を重ねれば重ねるほど、血が薄くなり、聖貴族コンセクラトゥムとしての実際的な力は失われていく。スパルタカシウス家はその典型であり、今や精霊エレメンタルを使役するどころか存在をかろうじて感じられる程度の力しか残されていない。

 かといって、力の回復を志向して別の降臨者の血筋をもつ聖貴族コンセクラトゥムと交われば、降臨者スパルタカスの血を受け継ぐ聖貴族コンセクラトゥムとしての血統の純粋性が失われてしまう。

 もちろん、スパルタカシウスの氏族の中には他の血統の聖貴族コンセクラトゥムと結んで力を維持している分家も存在しているが、曽祖父の代で政争に巻き込まれ敗れてからはそうした分家との付き合いも疎遠になっていた。スパルタカシウス家は没落している真っ最中だったのである。


 そんな中で男子を残せなかったルクレティウスは、スパルタカシウス氏族の中で唯一家族名コグノーメンを持たないスパルタカシウス宗家として末代になるであろうことは既に避けられなくなってしまっている。

 年齢的には頑張れば子供を作れない歳でもないのだが、被災によって下半身不随となってしまっている以上、もはやそれは望めない。

 一人娘ルクレティアにスパルタカシウス氏族の中から誰かを婿養子に迎え入れ、スパルタカシウス氏族宗家を何とか存続させたいと思っていたルクレティウスではあったが、相手が降臨者本人というのであればそれに反対することなどできなかったし、さすがに降臨者を婿養子に迎え入れることもできないだろう。

 降臨者へ嫁ぐことに反対するのは、降臨者との血の繋がりを権威の根拠とする聖貴族コンセクラトゥムにとっては自己否定以外の何者でもなかったし、降臨者を婿養子に迎え入れるとすればその降臨者の権威を否定することになるので、やはり間接的な自己否定へとつながってしまう。


「やれやれ、まさかルクレティウスが末代になってしまうとは思わなかったよ。」


 ルクレティウスは力なく笑いながら言ったが、その心境は複雑であった。決して失望しているわけではなかったが、スパルタカシウス氏族宗家が自分の代で絶えてしまうという事実に何も思わないわけでもない。


「ごめんなさい、お父様パテル


「いや、いいのだよルクレティア。

 むしろ、聖貴族コンセクラータとしては一大快挙だ。胸を張りなさい。」


「・・・・はい・・・・」


 ルクレティアの目に映る父の顔は慈愛に満ちていた。しかし、次代のスパルタカシウス…すなわちルクレティアの婿をどうするかに心血を注ぎ続けていた父の姿を見てきていた彼女の心情もまた複雑である。

 父から祝福してもらえはしたが、ルクレティアの立場はあくまでも聖女候補であって聖女になれたわけではない。実質的には巫女と同じであり、巫女よりは若干優位な立場にあるという程度である。しかも、あと二年間は手を付けてもらえないことが確実になっているのだ。そこに後ろめたいものを感じないわけにはいかない。

 娘のわずかに曇った笑顔からそれを察したルクレティウスは、手に持った酒杯キュリクスを振り、中で回るワインを眺めながら小さく笑った。


「たしかに、来年か再来年には見れると思っていた初孫がお預けになるのは残念だがね。

 お前ルクレティア自身が待つというのに、父であるルクレティウスが待てんわけが無いさ。」


「待つ・・・そうね。待つつもりだけど、でもやっぱり二年は長いわ。」


 ルクレティウスは固焼きパンパニス・ビーケンティーノを一つ摘まみ、酒杯キュリクスのワインを静かにかき回すように浸す。


「二年なんてあっという間さ。

 お前ルクレティアはリュウイチ様の一番近いところで仕えるのだ。御傍に二年も居れば、情も湧くだろう。心配はいらない。」


「一番近いところに仕えるのはルクレティアじゃないわ。」


「リュキスカか・・・だが、お前ルクレティアの席を守ると言ってくれたのだろう?」


「そうだけど・・・」


「信じられないかい?」


「・・・不安・・・です。

 リュウイチ様がリュキスカに夢中になっちゃったら、ルクレティアのことなんて目に入らなくなるんじゃないかって・・・」


 眉を寄せ、辛そうに膝に乗せた自身の手を見つめるルクレティアは何よりもリュキスカに嫉妬している自分自身の姿に苦しんでいた。理性の上ではリュキスカが聖女であることも理解しているし、尊重しなければならないと思っている。ルクレティアはリュウイチに仕える巫女なのだから、その御意に沿わないわけにはいかない。だが、理性と感情は別物である。


 ルクレティウスは酒杯キュリクスを口元まで持ってくると、ワインが垂れないようにワインのしみ込んだ固焼きパンパニス・ビーケンティーノにかじりついた。

 甘いワインが半分ほどしみ込み、外側はふやけているが真ん中の部分だけ硬さを残している…それがルクレティウスの好みだった。


「・・・リディア様も、先にメデナ様という聖女がいた。

 お前ルクレティアにはリュキスカ様という聖女が先いる。

 それだけではないか。

 だがリディア様はメデナ様と競い争ったわけではないよ。

 少なくとも言い伝えでは・・・お二人は手を取り合って協力したのだ。」


 一般にはリディアとメデナは降臨者スパルタカスの愛を争ったライバル同士として語り継がれているが、スパルタカシウス家には巷間こうかんに広まっているのとは別の言い伝えが語り継がれていた。ルクレティアはもちろん、その両方を聞いて育っている。


「それは・・・わかっています・・・」


 たしかにルクレティウスの言うようにルクレティアの状況はリディアに似ている。だが、決定的に違う部分もある。

 先にリュウイチの傍に仕えていたのはルクレティアの方なのだ。わずか一週間ほどとはいえルクレティアはリュウイチに一番近いところに仕えていたのに、リュキスカは一夜にしてルクレティアの立場を奪ってしまった。悔しさもあるし、うらやましくもあるし、妬ましくもある。

 自分がここまで嫉妬深いとは思ってもみなかった。初めて直面する自分の負の感情に、ルクレティアは本当に戸惑っていた。だがこれを飼いならせなければ、リュキスカとの協力関係なんか築けるわけもない。果たして自分にそれができるんだろうか?その不安がルクレティアから昨日までは確かにあったはずの自信を奪っていた。


「まずは、そのリュキスカという女性と仲良くなってみることだ。

 どういう人物かがわかれば、協力もできるようになるだろう。」


 ルクレティウスは固焼きパンパニス・ビーケンティーノの残りの欠片をワインに浸しながら言った。それはアルトリウスたちにも言われたことだった。正直言って「他人事だと思って!!」という反発を覚えないわけにはいかないが、しかしその助言が正しいのも事実だった。


「そのつもりです。それでお父様パテル・・・リュキスカのことを調べたいのです。」


「調べる?」


 今まさに固焼きパンパニス・ビーケンティーノを口に入れようとしていたルクレティウスは手を止めて娘の顔を見た。


「そうは言っても、《陶片テスタチェウス》の神官を通して話を聞くぐらいしか・・・」


 治癒魔法を使える神官が何人かアルトリウシアを巡回している。この間まではルクレティアもその活動に参加していた。ルクレティウスが誰かを調べるとすれば、その神官たちから巡回中に聞いた話を聞かせてもらうぐらいしかない。だが彼らは治療活動が忙しく、自分から特定の情報を探すような余裕は無いだろう。

 スパルタカシウス家は並の貴族パトリキよりはよほど庶民に近く、世情にも明るいほうではあるが、しかし何かはかりごとを巡らせることができるほど情報収集能力に優れているわけでもなかった。


「わかっています。

 実はリュウイチ様の降臨について、インニェルさんとメーリさんには話してあるんです。」


「セーヘイムの?」


「はい…今、あのお二人にはリュウイチ様の秘匿に協力していただいています。」


「で、今度はリュキスカについて調べてもらおうということかね?」


「ええ、本当は今日これからお伺いして直接お願いしたかったんですけど、今どうやらセーヘイムにハン支援軍アウクシリア・ハン軍使レガティオー・ミリタリスが来ているらしくて・・・」


「わかった。ルクレティウスから頼んでみるよ。」

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