第222話 二人の母

統一歴九十九年四月十八日、午後 - ティトゥス要塞司令部/アルトリウシア



「なんでさ!?

 アンタ、息子が大事じゃないのかい?」


 リュキスカにはエルネスティーネが拒否する理由が理解できなかった。子供が苦しんでいて治せる方法があるのなら治してやるのが母親だと、リュキスカは当然のように思っている。

 リュキスカは貧乏だから金がかかる治療法には手が出ないが、エルネスティーネは貴族パトリキで金に困ってるはずはないし、リュウイチに頼んでエルネスティーネが払えないほどふんだくられるとも思えない。なら、断る理由など無いのではないのか?


「リュキスカ!」


 思わずルクレティアが声を上げ、リュキスカを制した。ルクレティアの顔に怒りなどの悪感情は浮かんでいなかったが、切羽詰まったような真剣さはうかがえる。リュキスカは自分が言い過ぎたことに気づいてハッとなった。


「いいのです、ルクレティア。」


「ですが侯爵夫人エルネスティーネ!」


「大丈夫です…そうですね。リュウイチ様にお願いするのが一番良いのでしょう。

 エルネスティーネも母親ですからもちろんカールのことは大事ですよ。

 でも、エルネスティーネは母親であるのと同時に、属州領主ドゥキッサ・プロウィンキアエなのです。一家の母親マテル・ファミリアースとしてではなく、属州の母マテル・プロウィンキアムとして振舞わねばならないのです。」


 エルネスティーネは誰の目も見ずに厳かに言った。その顔に表情らしいものは浮かんではおらず、ヘソの下あたりで左手に隠された右手が強く握りしめられていたことにリュキスカは気づかなかった。


「なんだか難しくしちゃってさぁ…領主ドゥキッサだか何だか知んないけど母親なんだからさぁ、子供のためならそんなの…」


「リュキスカ!」


 なおも納得できないリュキスカをルクレティアが再びたしなめる。


「大丈夫ですルクレティア。

 そうね、貴族パトリキには色々と面倒が多いのよ。」


 エルネスティーネはルクレティアを優しく制すると、小さく笑いながら言ったが、その目はどこか悲し気でリュキスカに罪悪感を覚えさせた。

 ここはエルネスティーネにすべてを任せようと思っていたルキウスだったが、話の流れがおかしな方向へ流れはじめたので場を治めるべく介入を試みる。


「リュキスカ…そう呼んでも良いかね?」


「ああ、いいよ?どうせアタイは名前一個しかないんだし…あっ!そうだ!!

 アタイ、リュウイチ様の被保護民クリエンテスになったんだからリュキスカ・リュウイチアになるのかい!?」


「なっ!なんでそうなるのよ!?」


 リュキスカの能天気な物言いにルクレティアが思わず噛みついた。突然思わぬ方向から噛みつかれた上、そのあまりの剣幕に思わずリュキスカもタジタジになる。


「え!?だ、だって、被保護民クリエンテス保護民パトロヌス氏族名ノーメンを貰うんじゃないのかい?

 解放奴隷リーベルトゥスとかみんな元主人の被保護民クリエンテスになって氏族名ノーメンを貰うって聞いたよ?」


 奴隷は解放されると自動的に元主人の被保護民クリエンテスになり、元主人の氏族名ノーメンを名乗るようになるのが慣例になっている。解放奴隷リーベルトゥスではなくても被保護民クリエンテス保護民パトロヌス氏族名ノーメンを名乗るのは珍しいことではない。実際アルトリウシアに住んでいる貴族ノビリタスの約三割はアヴァロニウス氏族を名乗っている。

 保護民パトロヌス被保護民クリエンテスに自分の氏族名ノーメンを与え、被保護民クリエンテス保護民パトロヌスと同じ氏族名ノーメンを名乗るのは、両者の関係が通常の庇護関係クリエンテラよりも堅い結束で結ばれていることを示すものだ。当然、被保護民クリエンテス全員が保護民パトロヌス氏族名ノーメンを名乗っているわけではなく、そういう者は全体からすればむしろ少数である。


「そ、そういうこともあるけど、そういうのは御本人のお許しを得てからでしょ!?」


「そうなのかい!?

 アタイ…誰かの被保護民クリエンテスになるのって初めてでさ…そっかぁ…せっかくこの子に二つ目の名前上げられるかと思ったのに…」


 リュキスカは残念そうに赤ん坊の顔を覗き込んだ・・・赤ん坊はさっきから寝たままだ。


「あそっか!!」


 話の腰を折られたルキウスが再び口を開こうとした瞬間、リュキスカが突然顔を上げる。


「アタイ、スパルタカシアルクレティア様より前にリュウイチアを名乗っちゃいけなかったんだね!?」


「なっ!?」


 この一言にルキウスとエルネスティーネは唖然とし、ルクレティアは絶句して顔を赤くする。そして次の瞬間、ルキウスとエルネスティーネは思わず吹き出してしまった。笑うのを堪えようとしながらも肩を震わせて笑い続ける二人にリュキスカも思わずつられ笑いする。


「あれ、アタイなんか変なこと言ったかい?」


「こっ、侯爵夫人エルネスティーネ子爵閣下ルキウスも!!」


「ごめんなさいルクレティア」

「いや、すまん、悪かった」


 二人の貴族パトリキに笑われてショックを受けたルクレティアが抗議すると、二人は素直に謝った。


「さあ、話を戻そうか?

 …ああ、何だったかな…あれ、忘れて…そうだ!思い出した。

 リュキスカ、さっきの話だが…」


「えっと、貴族パトリキの面倒がどうとかって話かい?」


「そうだ…我々は既にリュウイチ様から借金をしているのだよ。」


「借金!?」


「この間のハン支援軍アウクシリア・ハン叛乱事件があったろう?

 あれの復興事業に必要なお金をリュウイチ様から借りているのだ。

 そしてこれからもっと借りねばならん。」


「い、いくらくらい借りてんだい?」


「さあな…まだ使ってはいないが、あのポーションもお借りしている。

 事件の翌日、ポーションが配布されたのは知っているかね?

 あれはリュウイチ様からお借りできたからこそ、今ある備蓄分を放出できたのだ。

 それでお借りした分も含めれば、あわせて何百万セステルティウスになるか…いや、すでに何千万セステルティウスという金額になっているのかもしれん。」


「何千万!?」


 それはリュキスカにとってあまりにも途方もない金額だった。

 事件の翌日、何万本にも及ぶポーションが二人の領主とアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアから配布された話はもちろんアルトリウシア中に広まっているし、被害をほとんど受けなかった《陶片テスタチェウス》で暮らしていたリュキスカももちろん聞いていた。

 なんと太っ腹で慈悲深い領主様だろうと領民たちは誰もが感謝し喜んでいる。何せまともな品質のものを普通に買えばどんなに相場が安い時を選んでも一本で三セステルティウスはするであろうポーションを、怪我人にはタダで与えられたのだ。そのおかげで本当なら命を落としていたはずの被災者が何千人も助かっている。

 しかし、まさか背景にそんな話があるとは全く思ってもみなかった。


「もちろん、簡単に返せる金額ではない。たとえ我々でもだ。

 お返しするのに何年かかるかわからんほどだ。

 しかもこの上さらに現金で数十万とお借りせねばならんのだ…

 焼け出された領民たちがこの冬を乗り越えて、無事春を迎えるためにね。

 だからもう、これ以上無理をお願いすることはできないんだよ。」


 ルキウスはそう話を締めくくった。

 今の時点ではまだリュキスカはリュウイチが降臨者であることを知らない。いつ話すかはまだ決めていないが、もしも彼女の人格に問題があってリュウイチが心変わりをすれば、リュキスカを別の場所に移す必要性が今後出てくるかもしれない。そうなったときに、リュキスカの口から降臨の事実が漏洩する可能性がある以上、今の時点ではまだリュウイチが降臨者であることを打ち明けない方がよいだろう。


 リュウイチが降臨者であることを秘したうえで、リュウイチから恩を着るわけにはいかないことを説明するには借金をしているという事にした方が一番都合がよい。何せ、金や物を借りているのは事実なのだから話に無理がない。しかも美談だ。愛する領民のために無理して金を借りる領主…今現在金銭的に困窮こんきゅうしているという通常なら貴族にとって最も都合の悪い事実を、貴族としての体面や名誉を守ったうえで正当化できている。

 いかな平民プレブスのリュキスカとて納得しないわけにはいかないだろう。そして、実際にリュキスカはその説明で納得したようだった。


「そうか…ごめんよ侯爵夫人エルネスティーネ様。

 アタイ、何も知らない癖になんだかとんでもないこと言っちまって…」


「いえ、いいのですよリュキスカさんフラウ・リュキスカ

 アナタは親切で言ってくださったのですから。」


 ひどく罪悪感に苛まれたリュキスカはエルネスティーネの顔を見上げ、唇を震わせて何か言おうとしたが結局何も言わず、顔を伏せて抱えている赤ん坊の顔を覗き込んだ。

 その時、ドアがノックされた。扉を開けて入ってきたのは侯爵家の衛兵隊長ゲオルグだった。

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