母と女と

第212話 火災現場

統一歴九十九年四月十八日、昼 - ティトゥス要塞ルキウス邸/アルトリウシア



「悪魔の呪いですって!?」


「シッ!」


 思わず驚きの声を上げるルクレティアにエルネスティーネは慌てて口に人差し指を当て静かにするようサインをだす。

 ルキウスが邸宅として使っている陣営本部プラエトーリウム応接室タブリヌムにはエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人とルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵、ルクレティア・スパルタカシア、そして子爵家の衛兵隊長ゲオルグとカール付きの侍女クラーラの五人しかいない。だが、それでも話はどこからどう漏れていくか分かったものではなかった。


「昨夜のことを知る使用人たちの中には、そのように言う者もいるのは事実です。

 もちろん、緘口令かんこうれいは敷いていますが、このようなこといつまでも隠しきれるものではありませんわ。」



 昨夜、カールの部屋で起きた火災は短時間で鎮火できていた。当初、カールの部屋の戸や窓から噴き出た炎は見る者に恐怖と絶望を植え付けたが、その爆炎とでも呼ぶべき火勢は一瞬だけだった。

 勇敢にも室内にいると思しきに立ち向かうため、衛兵隊が突入しようとした矢先のことだっただけに、爆炎に巻き込まれた衛兵の中には手や顔に大火傷を負った者もいたが、幸いなことに死者は一人も出ていない。

 一瞬の爆炎のあと、室内はいたるところが炎に包まれてはいたが、燃えている暗幕や絨毯などをハルバートや鍵付きの槍を使って強引に庭園ペリスティリウムまで引きずり出すと、建物自体にはまだ火災が及んでいなかったと見え、比較的短時間で消化する事が出来たのである。

 しかし、建物が無傷で済んだわけでもなく、壁も柱も天井も黒く焼け焦げていて当面は使えない状態になっていた。


 建物の被害がこの程度で済んだのは不幸中の幸いと言って良いだろう。だが、問題の核心はそこではない。



 カール様に悪魔がいている…



 使用人たちの間でそのような噂がささやかれ出していた。

 もともとアルビノのカールは生まれた時からその異様さを問題視されていた。日の光に当たるとたちまち皮膚がただれ始めるカールを、けがれている、悪魔にかれている、神の呪いを受けていると言う者は昔からいたのだ。かつてはアルビオンニウム司教座大聖堂の司教や司祭がそのような事を言うので、父であるマクシミリアン侯爵と教会の関係が酷く悪化した事さえあった。これがキリスト教会が絶大な影響力を持つ敬典宗教諸国連合側であったなら、カールはとっくに生きてはいなかっただろう。


 しかし、幸いにもレーマ帝国ではキリスト教会の影響力はさほど大きくなく、むしろ敵である敬典宗教諸国連合の主要な宗教であることから立場が弱い。ハッキリ言ってしまうと嫌われていると言って良いだろう。


 もちろん、キリスト教以外の諸宗教でもカールのようなアルビノの存在は異質そのものであり、受容しがたい点には違いがない。だが、本来熱心なキリスト教徒であった侯爵家は非キリスト教の諸宗教との付き合いはあまり深くはなかった。あくまでも宗教団体の代表者と領主という関係でしかなく、カールの身体のことについて相談したりすることは無かった。だが、対称的にキリスト教会の司教や司祭には頻繁に相談していた。だからキリスト教会関係者は早い段階からカールと頻繁に接していたし、逆に非キリスト教の宗教関係者はカールの体質のことなどほとんど知らない状態だったのだ。

 このような状態であったため、キリスト教会の関係者が真っ先にアルビノであるカールについて「呪われている」「悪魔が憑いている」などと言い出したのは必然だったと言えるだろう。


 しかし、キリスト教嫌いの人間が多数派であるレーマ帝国において、キリスト教の権威である司教が率先してカールの存在を「呪われている」だの「悪魔がいてる」だの言いだしたものだから、非キリスト教徒の領民たちが「領主様の子になんてことを!!」とキリスト教会に激しく反発し、愛する我が子を守ろうとするマクシミリアンを一斉に擁護しはじめた。


 事態は宗教対立に発展し、おかげで一時はアルビオンニウムでキリスト教対非キリスト教の宗教戦争が勃発する寸前のところまで行ってしまうのだが、マクシミリアンは自身の私兵でありキリスト教徒が多数を占めるアルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアを前線に近いズィルバーミナブルグへ送ってしまうことでアルビオンニウムのキリスト教側勢力を大幅に殺ぎ、逆に非キリスト教勢力であるアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアを呼び寄せて演習を繰り返させたことでキリスト教徒側の暴発を未然に防いだ。

 そして時を同じくして司教が急死したり、司祭が異動になったりしたことで事態は急速に鎮静化へ向かう。


 以後、領内の情勢は安定しカールの特異な体質が言及されることもなくなった。だが、カールの政治的・宗教的立場がその体質ゆえに不安定なものにならざるを得ないのは現在でも変わりがない。「呪われている」「悪魔が憑いている」と吹聴する輩は鳴りを潜めたが、そうした騒ぎはいつ再燃してもおかしくないものだったのである。

 そして、昨夜の事件が起きた。



「ですが、悪魔だなんてにわかには信じられません。

 そのようなものが本当に実在するのですか?」


 ルクレティアが声を潜めて問いかける。


「ええ、エルネスティーネも信じたくはありません。

 ですが、確かにあの時、あの部屋にはがいました。

 それは事実だと思います。」


「そのが悪魔だと?」


 悲嘆にくれるエルネスティーネを気の毒に思いつつも、ルクレティアはエルネスティーネの説明を受け入れがたく感じていた。


「ルクレティア、現場は一応御父上ルクレティウスに無理を言って今朝調べていただいたのだ。

 だが、そのような高位の存在を感じる事は出来なかったそうだ。

 ただ、御父上ルクレティウスルクレティアも知るようにあの御身体になってから、魔力が随分と衰えられておられる。御父上ルクレティウスルクレティアなら何か分かるかもしれないとおっしゃられた。

 今日、ルクレティアに来てもらったのはカールを診てもらうためだったのだが、もしよければついでに現場を見てはもらえないだろうか?」


子爵閣下ルキウス、そういうことでしたらそれはルクレティアの役目と心得ます。

 喜んでお引き受けいたしますが、しかしルクレティア聖貴族コンセクラータとしての力は強くはありません。お力になれない可能性の方が高いと思います。

 それでもよろしければ…」


「かまいませんわ。

 今は貴女ルクレティア以上に力を持った神官など、どのみちここには居ないのですから、エルネスティーネたちが頼りに出来るのは貴女ルクレティアだけなのです。

 どうか、力を貸してください。」


かしこまりました、侯爵夫人エルネスティーネ

 微力を尽くさせていただきます。」



 侯爵家の家族が昨夜来避難しているルキウス邸から、現場となった隣のエルネスティーネの陣営本部プラエトーリウムまではそれほど時間はかからない。二つの陣営本部プラエトーリウムは裏口がつながっているからだ。

 現場となったカールの寝室は真っ黒に焼け焦げており、噴き出した炎が残したのであろう煤やコゲで建物の外壁も窓や戸口の上の部分が黒く醜く汚れている。部屋の前の庭園ペリスティリウムには部屋から引きずり出された暗幕や絨毯などの真っ黒な燃えカスが散らばり、昨日まで華やかな雰囲気に彩られていた筈のこの場所を、まるで戦禍にみまわれた廃墟のような様相を呈していた。

 それらはいずれも夜半から今朝にかけて降り続いた雨に濡れており、現場の惨状に物悲しい雰囲気を添えている。


 部屋の中はもっと悲惨で、壁も天井も床も煤で汚されるか、あるいは焼け焦げるかして真っ黒に染まっており、しかも消火用に撒かれた水や砂によってすべてがぐちゃぐちゃに汚れていた。屋内だというのに床には水たまりさえできている。


「足元にお気を付けください。」


 ゲオルグに案内されてルクレティアは室内に入った。エルネスティーネとルキウスは外で待っている。別に入りたくないからとかではなく、室内はガレキのため大人数が一度に入る事が出来ないからだ。当時室内に持ち込んだ数十本の燭台が、焼け焦げて床に散乱しているのである。

 本来は上履きソレアに履き替えるべき場所であるはずなのだが、状況が状況でもあるため外履きサンダルカルケウスのまま室内に踏み込んでいく。


 よくこれで消火できたものね…現場を見て最初に思い浮かんだ感想はそれだった。普通は、ここまで炎が燃えひろがれば建物全体が燃えていておかしくないはずだ。昨夜雨が降り出したのは鎮火した後だったというし、人力だけで消火できたのは奇跡と言って良いように思える。


「これでよく鎮火できましたね。」


「燃えていたのは主に暗幕や絨毯でしたから、ハルバートや鍵付きの槍を使ってそれらを先に引きずり出したのです。

 それらさえ出してしまえば、あとは楽な物でした。

 壁や天井に火が燃え移る前に消せたのは、まさに…僥倖ぎょうこうでした。」


 説明するゲオルグはキリスト教徒らしく神を讃えようとしたが、目の前にいるのが異教の神官であることを思い出し、単に「僥倖ラッキー」と言い換えた。


 室内のすべてが水に濡れて重く湿っているため決して煙たいわけではないが、それでも空気は焦げ臭い。その焦げ臭い空気に咳き込みそうになるのを堪えながら、ルクレティアは目を閉じて深呼吸を数回繰り返した。


「いかがですか、スパルタカシアルクレティア様?」


「やっぱり……何も、何も感じないわ。」

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