第213話 リュキスカ移送

統一歴九十九年四月十八日、昼 - マニウス街道/アルトリウシア



 レーマ帝国に雨傘というものは存在しない。傘が無いわけでは無いが、貴人の日除けのために使われる日傘が基本である。

 ではレーマの人々はどうやって雨を凌ぐのか?

 パエヌラ(主に男性用のフード付きマント)やサガム(男性用マント)、パルラ(女性用マント)などの外套を被るか、濡れるのをガマンするかだ。馬車や輿に乗れるのなら、それに屋根を付けるという手もあるが、それができるのは貴族ノビリタスだけである。


 昨夜来、静かに振り続けていた雨は既に止んでいる。

 空は雲が覆いつくしていて日の光は差し込まないが、風が穏やかな今日は雨が降っていないというだけでも、アルトリウシアでは「良い天気」といえる。しばらく降り続いた雨によって洗い流された空気はこの上ない程澄み渡っており、丘の上を走るマニウス街道からは遠くアルトリウシア湾口にポツンとそびえるエッケ島の山影も、その付近を航行する船影も、いつもよりハッキリと見る事が出来た。

 これで湾上に雲の切れ目でもあれば、そこから日の光が差し込んで光の柱を作り出し、キラキラと輝く海面と相まってとても幻想的な絶景に作り出すのだが、生憎と今日の雲はアルトリウシア湾上空どころか遠く大南洋オケアヌム・メリディアヌムの辺りまで広く空を覆っているらしい。

 《陶片テスタチェウス》の街並み越しにアルトリウシア湾の遠景を眺めながら、雨が止んでもイマイチ冴えない風景にリクハルドは嘆息する。



「カシラぁ、ちゃんと手伝ってくださいよぉ」


「お、おう」


 ラウリに言われてリクハルドは作業に戻る。


「めんどくせぇなぁ。

 兄弟ぇラウリよぉ、なにもホントにカカシ立てなくても良いじゃねぇか?」


「そう言うなよ兄弟ぇデンロク。俺らぁここに居ちゃいけねぇんだから、ここにいるためにゃあ偽装するっかねぇだろ?

 農夫に化けるために今日は本物の農夫どもを休ませてんだ。休ませてしまってる分、今日やる筈だった仕事を俺らがしてやんなきゃなんねぇんだよぉ」


 リクハルド、ラウリ、伝六と彼らの御供たち・・・彼らがやっているのは、撒いたばかりの種を鳥に食べられないよう、麦畑にカカシを設置する作業だった。

 体格のゴツすぎる彼らは農夫姿が全く似合っていない。これほどおかしな偽装も無いだろうが、作業に当たっている全員が体格に優れた人間ばかりなためか、遠目には意外と不自然な感じがしない。

 彼らが何でこんなことをしているかと言えば、今朝マニウス要塞のクィントゥスから早馬で届けられた手紙を受けての事だった。曰く、本日昼頃に馬車でリュキスカをティトゥス要塞へ移送する。

 同じ手紙の中で遠くから見るにとどめる事、間違っても話しかけない事、目立たないようにしてほしい事などの要望が書かれていた。


 だからといって何もここまで凝る必要はないとは思うのだが、一応情報の秘匿に協力する約束をした上に工作資金まで貰っている以上、無視する事も出来ない。確かに馬車の一行をリクハルド達がわざわざ見に行っていたとなれば、それだけで何かあると噂を広める事になってしまう。《陶片テスタチェウス》内の事なら住民たちに口止め出来るかもしれないが、マニウス街道は《陶片テスタチェウス》以外の街の商人たちの往来もあるため、注目を集めないようにするにはリクハルド達も変装して身元を隠さねばならないのだった。


「おう、来たみてぇだぜ。」


 南から石畳の路面のところどころに水たまりの残るマニウス街道を軍団兵レギオナリウスに守られた荷馬車が近づいてくるのが見えた。ほろの無い無蓋むがいの荷馬車が一台、その前に荷馬車を先導するためであろう騎馬が一騎、さらに荷馬車のすぐ横に護衛隊の隊長らしき騎馬が一騎、さらにその周囲を完全武装の重装歩兵ホプロマクスが取り囲んでいる。

 荷馬車の荷台には目の冴える様な真っ赤なパエヌラに身を包んだ人物が一人乗り、それを囲むように軍団兵レギオナリウスとは明らかに異なる緑色のマントサガムまとった兵士が荷台に三人、御者台の御者の隣に一人乗っていた。

 荷馬車の脇を進む馬上の隊長は、昨日 《陶片テスタチェウス》にリュキスカの身請けに来た大隊長ピルス・プリオルに間違いなかった。


「何が目立たないようにしてくれだ、お前ら自身が目立っちまってるじゃねぇか」


 ラウリが毒づくのも無理はない。

 アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア軍団兵レギオナリウスロリカガレア以外の衣装は全て赤色で統一しており、今も彼らのまとっているマントサガムは軍神マルスを象徴する赤で彩られているのだが、あの荷馬車に乗せられた人のパエヌラに比べるとかなり見劣りする。パエヌラの赤が本物の赤なら、軍団兵レギオナリウスのサガムのは赤じゃなくて茶色って感じだ。同じ血の赤だとしても動脈を流れる鮮血と、どす黒い静脈血くらいの差があった。

 そして、それを取り囲む四人の兵士がまとっている緑のサガム・・・春の若葉を思わせる瑞々しいまでの緑色は、すでに秋の色に染まったアルトリウシアの風景の中では異常なくらい悪目立ちしている。周囲を赤茶けたサガムで統一した兵士が歩いている中で、緑色のサガム姿の兵士が荷馬車の上に乗っているのだ。赤大理石の床の上に落としたエメラルドのように簡単に人目を惹き付けてしまうだろう。


「そう言うなラウリ、分かりやすくっていいじゃねぇか。」


 リクハルドが半分笑うようになだめると、ラウリはケッと舌打ちする。


兄弟ぇラウリ。てことは、あの馬車の赤いパエヌラがリュキスカって娼婦か?」


「まだ遠くてわかんねぇが、多分そうだろうぜ。

 フードとって顔でも出してくれりゃあ、この距離でもわかるんだろうけどよ。」


 伝六でんろくの問いにラウリは面白くなさそうに答えると、屈みこんでカカシの脚を杭に縛りつける作業を再開する。


「もうちょい近づきてぇな」


「こいつを縛ったら、この列は終わりだ。次は一番街道沿いの列にしやしょう。

 だからカシラぁ、動かさねぇでちゃんと支えてくだせぇ」


「おう、悪ぃ」



 雲が無ければ太陽はそろそろ真北に昇るであろう頃になって、軍団兵レギオナリウスに守られた荷馬車はそろそろ十字路に差し掛かろうとしていた。

 マニウス街道のほぼ中央にあるこの十字路は、右に曲がれば『花嫁の家ドムス・ノヴス・スポンサ』…アルトリウスの家族が暮らす屋敷があり、左に曲がれば《陶片テスタチェウス》の『ノ門』へ通じる『卯ノ門街道ウィア・ウノモヌム』だ。


 馬に乗って隊列を先導していた百人隊長ケントゥリオが合図をして隊列を停止させると、護衛を務める百人隊ケントゥリア連絡士官テッセラリウスが『花嫁の家ドムス・ノヴス・スポンサ』へ走って行った。

 ここで、馬車を乗り替える予定なのだ。


 乗り替える馬車を待つ間にクィントゥスは馬上から周囲を見回し、街道に一番近い畑でやたらゴツイ体格の農夫がカカシを立てているのを見つけた。

 カカシを立てている農夫の内二人は明らかの他の農夫より頭三つか四つ分ほども背が高い。間違いなくコボルトだろう。アルトリウシアでもコボルトは決して珍しい存在ではないが、畑仕事をしているコボルトなんて見た事が無い。コボルトは優れた体格を活かすべく木こりや荷役作業、大工といった力仕事に着くのが普通だからだ。農業に従事したとしても、果樹園で果樹の世話をするぐらいだ。

 クィントゥス自身、軍務でアルトリウシアのあちこちを移動するが、コボルトが畑仕事をしているのは見た事が無かった。


 わざわざ農夫に化けたのか・・・


 クィントゥスは最初驚き、次に呆れ、そしてこれを彼らに強いたのが自分であることを思い出して申し訳ない気持ちになり、最後に感心し、ため息をついた。そして己の役目を思い出し、わざと少し大きめの声でリュキスカに話しかける。


奥方様ドミナ、お加減はいかがですか?」


「え!?ああ、大丈夫だよ。

 クッションのおかげでお尻も痛くならなかったしね。

 にしてもどうしたんだい?

 アンタまでアタイのこと奥方様ドミナなんて呼んでさ。」


 リュキスカが尻の下に敷いてるクッションはオトとネロが気を利かせて用意した物だった。


「さあ、立ちあがってフードを取ってごらんなさい。

 雨があがった直後の馬上からの眺めは最高ですよ。」


「?」


 妙に芝居がかったクィントゥスの物言いに何か腑に落ちないモノを感じ、リュキスカは周囲の奴隷たちの顔を見るが、彼らも事情を理解しているわけでは無かった。だが、彼らは事情は分からないなりにも、クィントゥスの言う事を聞いたほうが良いと判断し、リュキスカに頷いていみせる。

 仕方なくリュキスカは立ち上がってフードを取った。

 リュウイチから貰った真っ赤な『アンブレラクローク』は雨を完全に防ぎ、染み込むことなく丸い球のままの形を保っていた水滴は大部分が馬車の振動で転がり落ちていたが、残っていたわずかの水滴もこの時残らず床へ落ちて行った。

 リュキスカは雨を防ぐためにあわせていた『アンブレラクローク』の前を開いて赤ん坊を出すと、自分の顔の高さまでもちあげてキスをし、再び胸に抱いてユサユサとゆっくり揺らしてあやしながらクィントゥスに言われた通り周囲を見回した。


「ホントだ、確かに良い眺めだねぇ。

 アタイ、コッチ来てからほとんど《陶片テスタチェウス》から出た事なかったから知らなかったよ。」


「雨上がりは空気が澄んで遠くまで見渡せるのです、奥方様ドミナ


 風は冷たいが、穏やかなのでむしろ心地よく感じる。特に雨を防ぐためにパエヌラを着込んだせいで、中にこもっていた熱く蒸れた空気が取り除かれていく感じはすがすがしくすらあった。

 雨上がりの瑞々しく清浄な空気を吸うと、胸の中からキレイになって行くような心地よさがある。


 やがて『花嫁の家ドムス・ノヴス・スポンサ』の方から一台の四頭立ての馬車が近づいてきた。


奥方様ドミナ、お乗り換えの馬車が来ました。

 今からアレに乗り替えていただきます。」


「え、あ、アレって子爵公子様のだろ!?

 アタイ一回だけ見たことあるよ!

 アタイ、アレに乗るのかい!?」


 それを目にした途端、リュキスカは興奮し始める。

 それはアリスイ氏からアルトリウスの縁談を持ち掛けられた際、父であり先代のアルトリウシア子爵であったグナエウスが将来の息子夫婦のために造らせ、アリスイ氏側から派遣された職人によって装飾を施された逸品だった。

 キャビンに掛かる折り畳み式の幌こそはオーソドックスな無地の黒だが、フレームは漆で黒く塗られ、船型の車体は上品なエンジ色に染められている。そしてその車体細部、車輪のスポークとリムには金箔が張られ輝きを放っていた。それだけでも十分まばゆいほどなのに、更に至る所に螺鈿らでん細工がほどこされ、金とは異質の細やかな光が遠目にもキラキラと輝いて見えた。


「そうですよ奥方様ドミナ、さあ御降りください。」


 リュキスカは終始興奮を抑えきれない様子で、クィントゥスや奴隷たちに支えられながら荷馬車から降り、アルトリウスの馬車へ乗り込んでいった。

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