第214話 暇を持て余すリュウイチ

統一歴九十九年四月十八日、昼 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 今日の日中、リュウイチはすることが無かった。

 ルクレティアもリュキスカもクィントゥスもティトゥス要塞カストルム・ティティへ行ってしまって留守だったし、奴隷たちとの付き合い方もイマイチまだつかみきれてなかったし・・・そういえばルクレティアが今朝方出かける前に「ヴァナディーズは残っていますから・・・」みたいなことを言っていた。ヴァナディーズが残っているからどうなのかという話の続きをルクレティアは結局言わずじまいだったのだが、要はヴァナディーズが相手をしますよというような意味なのだろうと勝手に解釈したリュウイチは奴隷のリウィウスにヴァナディーズの様子を尋ねた。


「御自身の寝室クビクルムに閉じこもっておられるようでやすが・・・」


 八人の奴隷たちの中でリュウイチと接点が多いのはネロとリウィウスだ。ネロはもともと下級貴族ノビレスで彼らの十人隊長デクリオだったし、リウィウスは平民プレブスでただの軍団兵レギオナリウスではあったが彼らの中では一番の年上で軍歴も長く、実質的に彼ら全体をまとめていたのが彼だったという事もあって、まだ接し方の良く分からない目上の人物の相手をする役割は必然的にネロとリウィウスに回ってくるようになっていた。


『彼女はこっちに来てからほとんどずっと閉じこもってるみたいだけど大丈夫なんですか?』


「さあ、アッシにゃあ良く分かりやせんが、女ってなぁだいたい家で過ごすもんですし…」


 男尊女卑社会のレーマ帝国では女性は家で大人しくしているものという価値観が一般的であった。


この世界ヴァーチャリアではそうなんですか?』


「世界の全部がそうかって言われっとアッシもそこまで見分けんぶんひれぇわけじゃねえんで分かりやせんが、アルビオンニアじゃあ高貴な家の女ぁみんなそうでさぁ。

 貧しい平民プレブスの女ぁ働きやすが、そんでも店ん中やどこぞの工房ん中ですし、外に出るっつったら百姓の女かセーヘイムの魚売り女ぐれぇじゃねぇですかね?」


『えぇ、買い物とかしないの?』


平民プレブスの女なら買いもんはしやすが、高貴な御方なら召使に買いに行かせるか、商人の方から売りにきやすからねぇ。

 だいたい、毎日顔突き合わせてるような顔馴染み相手ならともかく、女が売り買いしようとしたら足元見られちまいやすから、女は下手に買い物とかしねぇ方がいいんでさ。

 出かけるってったら公衆浴場テルマエとか、神殿テンプルムでお祈りとか、競技場キルクス劇場テアトルムへ見物に行くかでしょう。」


 競技場キルクスと聞いて頭にローマのコロッセオを連想したリュウイチは一瞬、色めきだった。


『競技場や劇場があるんだ?』


「いや、アルトリウシアにゃ無ぇです!」


 一般論を話したつもりだったリウィウスはリュウイチに競技場や劇場がアルトリウシアにもあると勘違いさせてしまったことに気づき、慌てて否定した。


『無いの!?』


「造るってぇ話はあったみてぇですが、一昨年火山が噴火しやしてね。それで避難してきた連中のための家やら水道やらを造るのが先だってぇんで・・・

 まあ、今ぁ演習場で軍団レギオーの練兵してんの見物すんのが競技場キルクスの代わりになってるような感じでして・・・」


 アルトリウシアは新属州アルビオンニア東部防衛のために建設が開始された都市である。レーマ帝国がアルビオン島に進出して最初の都市である州都アルビオンニウム建設が始まってからまだ百年も経っていないし、このアルトリウシア地方へ本格的に進出しはじめてから半世紀も経っていないのだ。

 純粋に軍事目的で建設が始まったアルトリウシアは州都アルビオンニウムとの交通線の確保を第一に、次に防衛拠点の建設を優先してリソースを投入されており、人が住む市街地など民間用インフラの整備は後回しにされ続けていた。そのアルトリウシアが子爵領となって本格的に都市インフラが整備され始めたのは統一歴八十一年…今から十八年前のことなのである。その間も海賊退治やら南蛮との戦争やらで都市建設は遅れに遅れており、トドメに火山噴火によるアルビオンニウム放棄で膨大な難民が流入したことから娯楽施設の建設計画なんてすべて吹き飛んでしまっていた。



『散歩とかしないんですか?』


「ご友人を訪ねるならともかく、用も無ぇのに出歩きゃしませんや。

 貴族ノビリタスなら御供を連れなきゃ歩けねぇでしょうし、乗り物乗らなきゃ足元だって汚れちまう。下手すりゃ頭からクソ小便ぶっかけられちまうことだってあるんでやすからねぇ。」


『頭からクソ小便!?』


「ああ、集合住宅インスラの窓から捨てる奴がいるんでさぁ。

 さすがに表通りは心配ねぇが、裏に回るとね。」


 リウィウスはこればっかりはしょうがないと言いたげに笑いながら言った。


 ある程度以上の都市部や市街地には人が密集する。すると土地が不足してくる。不足した土地に少しでも人を多く住まわそうとすると、二階建てや三階建ての建物が増え、住居は高層化していく。その結果生まれたのが集合住宅インスラだ。倒壊防止等の観点から高層建築には高さ制限等が設けられるようになってはいるが、それでも大都市部ならば六階建てや七階建ての集合住宅インスラのきを連ねるようになっている。


 ところが、そうした集合住宅インスラは帝都レーマでさえ上下水道設備が不完全であり、建屋内に上水道が引かれていることをウリにしている集合住宅インスラであっても各部屋に引かれているわけではなく、建屋の一階や二階の共用エリアに人工の泉が設けられている程度だ。住民はそこから自分の住む部屋まで手桶や壺で必要な水を汲み上げなければならない。下水道も下層階にしかなく、各部屋に専用のトイレなんてものはない。大小便はオマルにしてから日に一回か二回、下層階の共用エリアにある下水溝に捨てるのである。

 ところが、汚物を下層階まで持って降りるのを面倒くさがり、窓から捨てる者が後を絶たないのだ。上下水道もエレベーターも無い集合住宅インスラは階が高くなるほど生活に不便であるため、上層階ほど家賃が安い。必然的に、集合住宅インスラの上層階には公衆道徳とは無縁の貧乏人パウペルが住むようになるのだから余計である。


 もちろん窓から汚物を投げ捨てる行為は法律で禁じられてはいるのだが、見つからなければ捕まるわけ無いのだし、建物の外から投げ捨てたのが誰かなんて特定するのも不可能だ。共用階段の踊り場の窓から捨てれば、誰が捨てたかなんて誰にもわからない。まさか、すべての窓に見張りを立てるわけにもいかない。

 結果、集合住宅インスラに接する路地裏では糞尿が雨のように降ってくるのが当たり前になり、そういうものを頭から被ってしまう被害も日常茶飯事となるのである。


 アルトリウシアにはまだ本格的な集合住宅インスラは少なく、アンブースティアとティトゥス要塞カストルム・ティティ周辺に十数軒が建っている程度だ。蛇足だがこのマニウス要塞カストルム・マニ城下町カストラは軍事上の理由から要塞の土塁より高い建物の建設が禁じられているため二階建て(屋根裏部屋含めて三階建て)の建物しかない。



『ひどいな』


「だから高貴な御婦人は用もないのに出かけたりしやせん。

 そのためにお庭ペリスティリウムがあるんですし。」


『でも、ここじゃ気晴らしには狭いだろうに・・・』


「この屋敷ドムス要塞カストルムん中だから仕方ありやせんや。

 普通の貴族パトリキお屋敷ドムスはこんなとこよりずっと広いんで…」


『猶更、部屋に籠ってて気が滅入らないんですか?』


「さあねぇ…ただ、あの御婦人ヴァナディーズは学者さんでらっしゃるから、どうも部屋で読み物や物書きなんぞしてらっしゃるようでやすよ。」


 他にも実はヴァナディーズは出身地がアルトリウシアなんかよりずっと赤道に近く、雨もろくに降らない乾燥した地域であったため、そもそも日中に屋外にでる習慣が無かった。もちろん、そうした地域でも労働者階級の者であれば働きに出はするが、ヴァナディーズは平民ではあったが割と裕福な家の生まれであったため外で働いた経験は無い。もっとも、リウィウスもさすがにそんな事情までは知らないのだが。


『それにしたって・・・』


「まあ、他にも旦那様ドミヌスに遠慮してってのもあるでしょう。」


『私にですか?』


「この屋敷ドムスの主人は旦那様ドミヌスでさぁ。

 あの御婦人ヴァナディーズスパルタカシアルクレティア様の家庭教師、旦那様ドミヌスたぁまるで関係の無ぇ客分にすぎやせん。つまりココは他人ん家ってヤツですから、勝手にウロチョロ出来ねぇんでさ。」

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