第207話 聖貴族様の恋バナ

統一歴九十九年四月十八日、朝 - マニウス要塞・リュキスカの寝室/アルトリウシア



「どうぞぉ?」


 リウィウスが寝室クビクルムのドアをノックすると、中からリュキスカの声が聞こえた。

 ウッウンッと咳払いして喉の調子を整えたリウィウスは「失礼します」と一声かけて戸を開ける。


「ああ、アンタ、リウィウスさんっていったっけ?」


「へぃ奥様ドミナ、恐縮でやす。」


奥様ドミナだなんてよしとくれよぅ。

 アタイ、今はこんなナリだけどホントは只の娼婦なんだしさ。」


 リュキスカはくすぐったそうに笑いながら言った。

 髪型は自分一人で結ったので簡素極まりないが、リュウイチから与えられたドレスに身を包み、やはりリュウイチから与えられた清潔なタオルで包まれた赤ん坊を抱いたリュキスカの姿は貴婦人そのものである。


「アッシだってタダの奴隷でさぁ。

 どうぞ呼び捨てにしてやってくだせぇや。」


 子供をあやしながら上機嫌で出迎えたリュキスカに、愛想よく返すリウィウスもリュキスカに見劣りしない。『冒険者のシャツ』とかいう長袖の貫頭衣トゥニカに『冒険者のズボン』とかいうズボンブラカエを履き、足には『冒険者のサンダル』とかいう軍靴カリガ。いずれも上級貴族パトリキの衣装と見紛みまごうばかりの高品質な逸品ぞろいだ。その上にやはり貴族パトリキ用の外套のような見事な仕上げの鎧下ジャックを着込んでいる。

 リュキスカの目に映るリウィウスはまるで皇帝の近衛兵リクトルのようだ。


「奴隷!?

 そんな恰好してんのに?」


左様さいでさぁ。

 旦那様ドミヌスはアッシら全員にこんなスゲェもんくだすったんで。」


 リウィウスは見せびらかすように袖口を摘まんで両手を左右に広げ、胸を張った。


「へぇ~、大したもんだねぇ。

 アタイなんかにこんな良いべべくれるしさ。

 フェリキシムスのために、この”タオル”っていうのもくれたしさ。

 やっぱ大貴族パトリキ聖貴族コンセクラトゥスともなると違うんだねぇ」


 リウィウスは特に答えず苦笑いを浮かべる。

 実はまだリュキスカにはリュウイチが降臨者であることは伏せられていた。リクハルドらにリュキスカの無事を確認させねばならない以上、リュキスカが外部の誰かと接触する可能性はまだ残されている。そこから降臨の事実が漏れるのを防ぐため、アルトリウスがまだ秘しておくよう、リウィウスら奴隷たちに命じていたのだった。

 しかし、リュキスカも客のことは無暗に詮索しないという娼婦の習慣からか、特にリュウイチの事について訊いてくることも無く、おかげでリウィウスたちも苦労せずに済んでいる。


「で、もう出発の時間なのかい?」


「へ?何のこって?」


「あれ?

 何かアタイ、今日はティトゥス要塞カストルム・ティティへ行ってもらうとか何とか言われたよ?」


「はぁ・・・アッシらは特に何も聞いてやせんが、どなたからお聞きになられたんで?」


「えっとね、クロエリアとかいう女の人だったよ?」


「はぁ、クロエリアさんと言うとスパルタカシアルクレティア様お付きの?」


 スパルタカシアの名を聞いてリュキスカがギョッとして、そのまま喰い付いてきた。


「スパルタカシア様って、あれかい?

 る、る、ルクレティア・スパルタカシア様!?」


「他にいんめぇ?」


 リウィウスは何を当たり前の事をと呆れたように問い返した。

 レーマ人は《レアル》古代ローマと同じような人名を使っている。平民プレブス個人名プラエノーメンのみか、個人名プラエノーメン氏族名ノーメンの二つの名を名乗る。氏族名ノーメンは言わば苗字のようなものだ。


 一族が繁栄し力を持ってくると同姓同名の人間がどうしても増えてくる。力のない一族は子孫が増えたところで結束力が弱く、遠くの親戚との付き合いなんて自然消滅するから必要ないが、力のある一族だと分家と本家の繋がりがいつまでも維持されるので同姓同名の人間が身近なところに存在することになり、色々と不便が生じる。そこで、一族としての名前(氏族名ノーメン)は維持しつつ分岐していった家族を区別するため家族名コグノーメンが使われるようになった。

 このため、下級貴族ノビレス以上の力を持った一族は個人名プラエノーメン氏族名ノーメン家族名コグノーメンと、だいたい名前を三つ以上名乗る事になる。例えばアルトリウスの場合だとアルトリウスが個人名プラエノーメン、アヴァロニウスが氏族名ノーメン、アルトリウシウスが家族名コグノーメンとなり、アヴァロニウス氏族のアルトリウシウス家のアルトリウスという意味になる。


 ただ、例外的に降臨者の血を引く聖貴族コンセクラトゥスは血の濃さに権威の根拠があるため、もっとも血の濃い直系の家では家族名コグノーメンをあえて名乗らず、庶民のように個人名プラエノーメン氏族名ノーメンの二つの名前だけを名乗る事を誇りとしていた。

 ルクレティアが上級貴族パトリキであるにもかかわらず、名前が二つしかないのはそれが理由である。そして、スパルタカシアという女性形の氏族名ノーメンだけを名乗り、家族名コグノーメンを持たない人物はこの世界ヴァーチャリアで現在たった一人しかいない。

 これはアルトリウシアでは子供でも知っている常識だった。



スパルタカシアルクレティア様ぁアタイ、昨日見たよ、庭園ペリスティリウムでお会いしたんだ。」


 興奮を隠せない様子でリュキスカはまくしたてるように言うと、リウィウスはその勢いに思わずたじろいだ。


「ああ、アッシもあん時ぁ、見てやしたよ。」


「昨日、スパルタカシアルクレティア様がいて、今朝お付きの侍女さんがアタイんトコに来たって事は、スパルタカシアルクレティア様もここにお泊りになってんのかい?」


 ここでリウィウスは何か違和感を覚えていた。ただ、その違和感が何なのかにはまだ気づいて無かった。


「あ、ああ、泊まってるも何も、旦那様ドミヌスん御世話すっためにこちらにお住まいでさぁ?」


 リュキスカは目を輝かせ、くぅ~と鼻の奥を鳴らす。


「じゃ、じゃあさ、てことはさ・・・

 スパルタカシアルクレティア様がこっちにお住まいになってまでリュウイチ様の御世話をするってことはさ・・・ひょっとしてさ」


 ここでリウィウスは自分が口を滑らせてしまっていた事に気付いた。

 スパルタカシウス家はこの世界ヴァーチャリア全体を見回してもトップクラスの由緒正しい聖貴族コンセクラトゥムであり、家格においてはレーマ帝国の皇族にも決して劣らない、最上級の上級貴族パトリキである。その末裔たるルクレティアがわざわざ仕えて世話をする相手となると・・・


「・・・・ごくり・・・」


 まずい・・・旦那様リュウイチが降臨者だと気づかれたか!?


スパルタカシアルクレティア様って、リュウイチ様にお嫁ぎになるのかい?」


「・・・・・・・あ?」


「そうだよねぇ、スパルタカシアルクレティア様ももうお年頃だものねぇ。

 今から将来の夫の御世話を始めるなんて・・・くぅぅぅ!まったく、甲斐甲斐しいじゃないのさぁ。

 いやぁ、そっかぁ、あんな凄い聖貴族コンセクラトゥスならスパルタカシウス家にとっても相手に不足は無いよねぇ。

 めでたいじゃないのさ、ねぇフェリキシムス?

 アタイらさっそく親子でめでたさにあやかっちゃったねぇ?

 んーっよしよし♪」


 呆気にとられるリウィウスを他所にリュキスカは一人で舞い上がり、抱きかかえた赤ん坊にニコニコしながら話しかける。

 リウィウスは思わずフーッと安堵のため息をついて頭を掻いた。


「あ・・・てことはアタイひょっとして悪い事しちゃったかねぇ?」


「悪い事?」


 何か都合の悪いことを思い出したように突然表情を変えるリュキスカにリウィウスは身構える。

 さっきは勘違いしてもらえたが、もう口を滑らせるわけにはいかないからだ。


「いやほらさぁ?アタイ、昨日リュウイチ様と仲良くしてるとこスパルタカシアルクレティア様に見られたわけじゃない?

 未来の夫が知らない女と仲良くしてるの見て変な誤解してやしないかねぇ?

 あん時、アタイ娼婦の恰好してなかったしさぁ?」


「あ、ああ・・・」


「アンタ、何か知らないかい?

 迷惑かけちまったんならさぁ、アタイ謝んなきゃいけないしさ」


「ああ・・・それなら心配ねぇ。」


「ホントかい?」


「ああ、最初はスパルタカシアルクレティア様も随分と驚かれた様子だったが、子爵閣下ルキウスやら軍団長閣下アルトリウスやらが御慰めになったり御説明なすったりしてもう落ち着かれやした。」


「えぇ、子爵様ウィケコメス軍団長閣下レタトゥス・レギオニスだって!?

 はぁーっ、そうだよねぇ。なんかとんでもない人たちに迷惑かかっちまったんだねぇ・・・あっはっはっ」


「笑いごっちゃねぇですよ?」


「そりゃそうだけどさぁ、いやこんな話アタイがしたって誰も信じちゃくれないだろうなぁって思ってさ。

 でもまあ、確かにこんだけ大きな話ならアタイなんかを閉じ込めてまで秘密にしようってのもしょうがないのかねぇ?

 貴族パトリキ様ってのは色々大変でちゅねぇフェリキシムスぅ?」


 何だかこのままここで話し込んでると振り回されてくたびれそうな気になってきたリウィウスは仕事に戻る事にした。


「さて、ほいじゃあ、リュキスカ様ドミナ・リュキスカ、洗いもん持って行きやすが、こん中だけでやんすね?」


「ああ、ごめんね。でもホントに洗濯物も食器も全部同じ箱に放り込んで大丈夫なのかい?」


「ああ、気にしねぇでくだせぇ。」


「そうだ、ティトゥス要塞カストルム・ティティ行くときに、汗拭きスダリオおしめディアスプルム持って行きたいんだけどさ。

 何か入れもんとか無いかね?カニストルムみたいなさ?」


「へぇ!?赤ん坊も連れて行かれるんで?」


「だって、ここに置いてくわけにいかないじゃないさ。

 誰か面倒見てくれんのかい?」


「ああ、なるほど・・・こりゃ気が付きやせんで。

 じゃあカニストルムとかティトゥスへのお出かけのことについちゃあ、アッシもちょいと調べて御用意しやすよ。」


「ありがとう、お願いするよ。」

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