第206話 不安を残しての出仕

統一歴九十九年四月十八日、朝 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 ルクレティアは上級貴族パトリキではあるが神官でもあるため、その身なりは身分の割に質素な方だ。服は神官である以上、伝統に則った白いストラしか着なかったし、髪型も装飾品もこまごまとした制約がある。

 神官の場合は身に付ける装飾品というと単なるファッションというよりは宗教的な意味合いのある物が基本であり、神官としての階級や役職や資格を示す徽章きしょうが殆どである。である以上、それらと重複するような物や紛らわしい装飾品は身に着ける事が出来ない。

 身分が高いとはいえまだ若いルクレティアは当然身に着けられる徽章のたぐいは多くは無く、必然的に身にまとう装飾品の数も少なくなり、質素な恰好にならざるを得ないのだった。


 それでもやはり貴族パトリキであり女である以上、身を飾ることにはそれなりに気合を入れている。特にリュウイチに仕えるようになってから、毎朝の、そしてお昼の入浴後の身だしなみには半時間以上はかけている。

 だが、この貴婦人の身だしなみのための時間として半時間というのはかなり短い方である。しかし決してルクレティアの恰好が簡素だからというわけでもないし、手を抜いているわけでもない。少しでも長い時間をリュウイチと過ごすために時間を限定しているのだ。その分、ルクレティアの身だしなみを整えるために投入される侍女は多く、一度に四人が一斉にとりかかっている。

 普通の貴婦人は専属の美容師が二人がかりで一時間ちかく掛けるが、ルクレティアは強引に四人を投入して半時間ほどで仕上げているのである。それはもはや戦場の様相を呈していた。


 そんなふうにメイクをバッチリ決めたルクレティアがリュウイチの朝食の給仕をするためにはリュウイチが目覚める前にメイクを仕上げねばならない。更に身だしなみを整える前に自身の朝食も済ませなければならない。

 リュウイチは今の季節だと日の出より少し後ぐらいの時間に起きてくるので、その一時間か一時間半くらい前にルクレティアは起きなければならない事になる。ちなみにこれは普通の貴族ノビリタスに仕える使用人や奴隷たちが起きる時間だ。

 悲惨なのはそのルクレティアに仕える侍女たちである。侍女たちはそのルクレティアの朝の世話を焼かねばならないのだから、ルクレティアよりも・・・つまり普通の使用人や奴隷たちが起きだす時間よりも更に一時間以上早く起きねばならないということになるからだ。

 それは朝の漁にでる漁師たちと同じ時間に置きだすことを意味している。漁師たちは漁から帰ってから昼寝が出来るが、侍女たちにはそんな余裕は保証されているわけでは無い。

 

 しかし、彼女たちは耐えていた。自分たちが仕えるルクレティアが巫女となり、聖女となるかもしれない。それは途方もなく名誉なことであり、逆にその機会を自らの失態でふいにするような事にでもなれば、失業程度では済まされないだろうからだ。である以上、彼女たちもまた自分たちが仕えるルクレティア以上に必死であった。そして彼女たちの日々の苦労は着実に実を結ぼうとしている。

 リュキスカが登場した時はどうなるかと彼女たちも肝を冷やしたものだが、幸いなことに彼女たちが伝え聞いたところによれば、らしい。

 この話が彼女たちの間で広まった時、彼女たちもまたルクレティアと同様に歓喜し、興奮し、そして涙した。


 こうして、リュウイチの知らないところでリュウイチの外堀は着実に埋め立てられていくのであった。



 さて、ライバルリュキスカの登場にも拘わらず、ルキウスやアルトリウスの働きかけによって却って地歩を固めたルクレティアであったが、今朝の彼女の表情はそれほど明るくはなかった。

 理由はリュキスカの存在ではなかったし、昨夜半から静かに降り続いている雨のせいでもなかった。またもやティトゥス要塞カストルム・ティティへ呼び出されたことによるものである。


 昨夜、ルキウスと会談したエルネスティーネは早速今日、リュキスカと面談することを希望した。そして昨夜のうちに早馬を走らせ、朝起き次第渡すようにと手紙が届けられていたのだった。

 エルネスティーネがリュキスカと会うだけならリュキスカだけ呼び出せばいいではないかと思うのだが、ルクレティアも共に来いとハッキリ書かれてあり、しかも迎えのために子爵家の馬車まで送られてきていた。



 昼までに到着すればよいとのことだったので、リュウイチの朝食の給仕はしっかり勤め上げ、朝食後にリュウイチに報告した。


『また、ティトゥス要塞って大変だね。』


「はい、リュウイチ様にはご不便をおかけしますが、これも務めですので。」


『まあ、こっちは何か予定があるわけでもないし、気にしなくても大丈夫ですよ。

 お仕事頑張ってきて下さい。』


「はい、ありがとうございます。

 その・・・留守中のことですけど・・・」


『あ、えっと、一応奴隷たちがいるから大丈夫でしょう。』


「そうではなく、その、侯爵夫人エルネスティーネ子爵閣下ルキウスがリュキスカ様とお会いしたいとの事で、彼女も御連れします。」


『え、ああ、まあ・・・そうなるだろうねぇ・・・』


 リュウイチも昨日のルキウスとアルトリウスから聞かされた話で、どうやら自分が女を抱くという事がこの世界ヴァーチャリアでは凄い意味を持つらしい事に気付かされていた。となれば、実際に抱いちゃった女に領主たちが興味を持つのは仕方のない事だろう。

 昨日のルキウスたちの話しぶりからするとリュキスカが謀殺されることはさすがにないだろうけど、庶民としての感覚が骨の髄まで染み込んでいるリュウイチとしてはいきなり貴族と対面することになるリュキスカに同情を禁じ得なかったし、それ以上に申し訳ない気持ちになってしまう。


「それでですね・・・私か、せめてリュキスカ様だけでも、必ず今日中に戻るようにしますので・・・」


『あ、はい・・・お待ちしてます・・・?」


「ありがとうございます。

 えっと、万が一どちらも帰れなかったとして・・・その、一応、こちらにヴァナディーズ女史を残していきますので・・・」


『はい?』


「いえ、その、何と言ったらよいかわかりませんが・・・また、その・・・」


『何でしょう?』


「いえ!か、必ず帰ります!!」


『はい・・・???』


 一昨日はルクレティアが留守をしていた。ヴァナディーズもいなかった。だからこの陣営本部プラエトーリウムにはが無かった。だからリュウイチは女を買いに行ってしまった・・・ルクレティアは「若すぎる」という理由を聞かされた後の今でもそのように思っていた。自分が留守にしなければリュウイチは女を買いになど行かなかったはずだと・・・。

 今日、ルクレティアはまた留守にしなければならない。しかも、リュキスカも一緒に留守にする。一応、今日中に帰ってくるつもりだが、帰ってこれるという保証があるわけでもない。この状態で再びリュウイチが、また女を買いに行ってしまうのではないかと、ルクレティアは不安を感じていたのだった。


 しかし、リュウイチ自身の口から『もうしない』と聞いている以上、今重ねてもう女を買いに行かないでくれと言うのは失礼というものだ。だから言えない。言えないが言いたい。言いたいが言えない。

 その葛藤の末に、今回はヴァナディーズに残ってもらう事にした。


 それを何とかリュウイチに伝えたかったのだが、上手い言い方が思いつかなかった。何故上手く言えなかったか?

 ヴァナディーズが残る・・・それが「ヴァナディーズが見張ってるから」という意味になるとリュウイチを信用していない事になるし失礼になってしまう。じゃあ何でヴァナディーズが残るのか?「ヴァナディーズなら代わりに抱いてもいいから外へ行かないでくださいね」という意味にとられてしまうのではないか?

 誤解の無いように伝えたい・・・だが何が誤解なのか?自分はどうしてヴァナディーズを残すのか?

 リュウイチを前にしてどう言ったら良いか考えているうちにルクレティアは自分でも分からなくなってしまったのだった。



 かくして、一抹の不安を残しつつルクレティアは子爵家の馬車に乗り込んだ。リュキスカには既にティトゥス要塞へ行くことは侍女を遣わして伝えてある。彼女はルクレティアより半時間ほど遅れてアルトリウスの所有する馬車に乗って行くことになっていた。

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