第196話 クリエンテス

統一歴九十九年四月十七日、午後 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



『これを飲ませるんだ。』


 リュウイチが屈んでガラスの小瓶に入った紫色の液体を赤ん坊の口へ注ぎ込むと、赤ん坊が今度は白い光に包まれた。


「リュウイチ様!それは!?」


『エリクサー』


「エリッ!?」


 それは最早歴史上にしか存在していない伝説の薬。如何なる病、如何なる怪我さえも瞬時に治してしまうと言われているが、現物は当の昔に無くなっている。ゲイマーガメルの遺した少量のエリクサーは、ヒールポーションやマナポーションのように複製の研究が進められていたが、その過程で起きた事故ですべて失われたとされていた。

 寿命さえ伸ばすと言われるエリクサー・・・もし、実物があれば金貨を山ほど積んででも手に入れようとする者がいくらでもいるだろう。その価値は最早推測することすら不可能だ。


「え!?何だい?何を飲ませたんだい!?」


 絶句して一、二歩後ずさったルクレティアの様子に不安を覚えたリュキスカがリュウイチに問いかける。


『何にでも効く薬だ。心配しなくていい。』


 リュウイチがそう言いながら赤ん坊のステータスを確認すると、すべての状態異常が解除され、HPヒットポイントMPマジックポイントのゲージが完全に回復していく。


「アア・・・ゥバァァ・・ァウ」


 先ほどまでのグッタリした状態がウソのように赤ん坊はパチッと目を開けた。体温保持のため幾重にもくるまれていたため手足は動かせないが、それでもモゾモゾと芋虫のように動き始める。その様子にリュキスカは驚き、その表情には笑顔とともにそうではない何かが浮かぶ。


「ああ!フェリキシムス!?フェリキシムス!!!

 ああ私の可愛い坊や、フェリキシムス!

 ねぇ、治ったのかい!?この子、助かったのかい!?」


 涙と鼻水とよだれでグチャグチャになった顔でリュキスカがリュウイチを見上げる。


『ああ、その子はもう心配ない。だが君も「労咳」だな?

 この余った分を飲むと良い。』


 リュウイチが差し出した小瓶にはまだ九割ちかくエリクサーが残っていた。


「アタ・・・アタイ・・・うぅ・・・あぃがとぉ・・・うぐぅんっ・・んっ」


 リュウイチが差し出した小瓶に右手を添え、口を付ける。リュウイチはリュキスカの手が震えているのを見て、あえてエリクサーを手渡さずに手ずから飲ませてやった。

 リュキスカの身体も青く光り、ステータスから「労咳」の状態異常が消える。


「ゥブゥ・・ァ・・ァアアッ・・アアッ・・アアアアッ・・・」


 赤ん坊が泣きだした。


「ああっ!フェリキシムス!!

 フェリキシムスが!フェリキシムスがこんなに元気よく泣くなんて!!

 何だい!?どうしたんだい?」


 リュキスカは自分の子がこれほど勢いよく泣くのを聞くのはほぼ半年ぶりだった。生後三か月ほどでたってから体調が崩れ始め、それからは衰弱していく一方で夜泣きすらしなくなっていたのだったのだ。だから、自分の子供の泣き方から泣く理由を察することがイマイチできない。


『オッパイかもしれないし、オシメかもしれないが、続きは自分の部屋でやると良い。』


「ああ、そうする。そうするよ。

 そうだ、兄さん、アンタ、リュウイチって言うのかい?」


 リュウイチに言われて立ち上がろうとしたリュキスカだったが、何かを思いついたように跪いたままリュウイチの方へ向き直った。


『あ?ああ・・・』


「ありがとう、この子を助けてくれて、アンタ恩人だよ!」


 そう言う間にもリュウイチを見上げるリュキスカの目から大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。


『あ、ああ・・いや、うん・・・』


「絶対にこの恩は返すからね。アタイに何が出来るか分からないけど、絶対返すからね。

 フェリキシムス!ああ、アタイの子!お前は本当に幸運に恵まれた男フェリキシムスだよ。」


 リュキスカはリュウイチに感謝の言葉を告げると再び泣き続けている愛しい我が子を抱きしめ、身をかがめてキスの雨を降らせ、そして頬ずりをしはじめる。

 ヘルマンニを助けた時もそうだったが、リュウイチからすると本当に何かをしたという意識はない。もちろん結果の重大性は理解している。やった事の意味も価値も分かっているつもりだ。だが、その結果を導き出すために何か苦労したのか?貴重な何かを費やしたのか?というと、明確に否と言う事が出来る。というか、否としか言えない。

 自分は何も大したことをしていないのに重大な結果をもたらし、とんでもなく感謝される・・・そのギャップに、リュウイチは戸惑いを隠せなかった。


「さあリュキスカの奥方様ドミナ・リュキスカ、お部屋へどうぞ。」


 戸惑うリュウイチの様子に気付いたオトが気を利かせてリュキスカに立つよう促すと、リュキスカはまだ何か言い足りなかったのか、慌てて顔をあげた。


「ま、待っとくれ、そうだ。ねえアンタリュウイチ

 アタイを、アタイをアンタの被保護民クリエンテスにしとくれ!!」


『ク、クリエン・・何!?』


被保護民クリエンテスです、旦那様ドミヌス


 すかさずオトがフォローする。


『何それ?』


 クリエンテラ・・・つまり保護民・被保護民という相互扶助関係はレーマ帝国社会を形成する重要かつ一般的なシステムだ。常識と言って良い。

 だが、《レアル》日本にそれに対応する社会システムは存在しないし、中学や高校の世界史の授業で古代ローマ史を習う際にわずかに触れる機会があるくらいだ。そしてリュウイチは高校を卒業してから二十年以上経っている。言われれば思い出せるかもしれないが、まあ用語自体は忘れていたとしても仕方がないだろう。そして実際にリュウイチは忘れていた。

 オトはさすがに常識に該当する知識を持たない相手と接する機会はあまり無いので、リュウイチから『何それ?』と訊かれた事で思わず思考停止してしまった。


「こ、子分とか手下みたいなもんだよ。

 アタイのこと面倒見ろとか、つまんないこと言わないからさ、ね?

 アタイ、絶対アンタの役に立ってみせるよ!」


『あ、ああ』


 リュキスカが赤ん坊を抱え膝立ちのまま二歩ほど歩み寄りながら縋るように必死に頼み込むと、リュウイチは思わず相槌を打った。それを聞いたリュキスカの顔がパァっと明るくなる。


「ホントかい!?

 やった・・・絶対、絶対アンタの役に立つからね!絶対恩を返すからね!」


『ああ、うん』


「さ、さあ奥方様ドミナ、お部屋へ」


「ああ、わかったよ。ごめんね。

 ああ、アンタオトもありがとう、さっきは悪く言っちゃってごめんね。

 アンタネロもありがとう。」


「いや、いいんですよ、さあ赤ちゃんが泣きっぱなしです。」

「荷物はお部屋まで御運びします。」


 二人に促され、リュキスカはようやく歩き出した。

 その目からは涙がまだとめどなく溢れていたが、表情は笑顔そのものである。我が子の泣き声を聞き、どうにかしてやろうという気が無いではないが、今までほとんど聞いたことの無いくらいの元気のいい泣き声をもっと聞いていたいという気持ちが今は強かった。


 こうしてリュキスカはリュウイチの奴隷二人を従えて自分の寝室クビクルムへ戻って行った。その様子を庭園ペリスティリウムから目で追うルクレティアの顔には焦燥のようなものが浮かんでいる。そしてこれまでの様子を公的エリアに通じる通路から眺めていたアルトリウスとクィントゥス、そしてルクレティアと共に庭園ペリスティリウムに残されたリュウイチ、さらにそれらの様子を遠巻きに眺めていた奴隷たち・・・彼らは一様にその顔にバツの悪そうな表情を浮かべていた。

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