第179話 新たな秘匿対象

統一歴九十九年四月十七日、朝 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 軍団長レガトゥス・レギオニス用の宿舎プラエトーリウムとして造られたこの屋敷ドムスもそうだが、レーマ帝国である程度大きい屋敷ドムス邸宅ヴィラでは食堂トリクリニウムが用意されている。客人を招いて正餐ケーナ酒宴コミッサーティオを開く際、身分の違いすぎる客を異なる部屋で食事をさせるのはレーマ貴族にとって常識だったし、男性用と女性用で食卓を分ける必要もあるからだ。

 このため軍団長レガトゥスの家族用と客人用、さらに男性用と女性用で、この陣営本部プラエトーリウムには私的エリアだけで四つの食堂トリクリニウムが設けられている。公的エリアにある分も含めれば十ほどもある。


 リュウイチはその内の一つにまだ泣き止まないリュキスカを宥めながら連れて行き、リュキスカに着替えを用意することを申し出た。



「服?

 そりゃ今こんな格好だし、貰えるんならありがたいけどさ。」


 リュキスカは商売用のスケスケのトゥニカを着ていて、男の視点からすればお色気満点だが、秋も深まった今となっては見ている方が寒くなるような恰好だった。

 レーマでは娼婦は髪の毛を青かオレンジに染めるか、今リュキスカが着ているような身体が透けて見える服を着なければならないことになっている。季節的に寒い時期はみんな髪を染めて厚手の服を着るのが普通で、リュキスカもそうするつもりだった。しかし、出産後初めて仕事に復帰するリュキスカは髪の染色に失敗してしまった。ホントは髪をオレンジに染めるつもりだったのに、染髪料が古くて変質してしまっていたために緋色スカーレットに染まってしまったのだ。仕方なくリュキスカは寒いのを我慢して薄絹のトゥニカを着る事を余儀なくされていたのだった。

 今のリュキスカは精神的ショックと寒さで顔色が真っ青だ。口紅を塗って無ければ唇も真っ青になっていた事だろう。


『あんまり大した物は用意できないんだが、どんなのがいいかな?』


「別に今着てるよりマシなモンなら何だっていいけどね。

 アタイは娼婦だからストラは着れないけど、別に男物だってかまやしないよ?」


 何がしか選択肢があってどれを選択しても何らかの都合/不都合が生じるわけでは無い場合、こういう風に「何でもいい」と答えられるのが一番困る。特にセンスが問われるようなファッションや食事なんかだと余計だ。何でもいいんだなと言葉通りに受け取ってホントに何も考えずに「じゃあコレ」といい加減な決定を下すと間違いなく後でボロクソに批判されたりするのだ。


『いや、「何でもいい」っていうのが一番困るんだけど・・・』


 実を言うとリュキスカはホントに何でもいいと思っていた。

 リュキスカはアルビオンニウムにいた頃はそこそこ稼げる踊り子サルタトリクス兼娼婦だったが、娼婦としてデビューする前はハンナみたいに皿洗いや雑用で辛うじて食べていけてるような状況だったし、火山噴火後は妊娠してしまって長らく休業を余儀なくされ、その間に膨大な借金を重ねてしまったのだ。夜の街で働く典型的な貧民パウペルそのものなのである。

 持っている服だって商売用を除けば。粗末な貫頭衣トゥニカ肩掛けパルラぐらいしか持ってない。商売ではさすがに男に目を惹かねばならないから少しでも魅力的に見えるように気を使いはするが、プライベートではファッションに気を使おうと思えるほど金銭的な余裕は無かったのである。


「そうは言ってもアタイだって、兄さんが何を用意できるのかわかんないしさ。

 てか、兄さん。こっち見て話しなよ!?」


 実は庭園ペリスティリウムにいた時から今もずっとリュウイチはリュキスカの方をあまり見ない。チラッチラッと視線は送ることはあるが、すぐに目をそらしてしまう。話をするときもずっとそっぽを向いたままだ。

 それはそうだろう、全裸の上にスケスケのノースリーブ・ワンピースを着ただけの姿は刺激が強すぎる。そういう店でそういう遊びをするつもりでいる時ならともかく、そうではない時に裸同然の女性の姿はリュウイチの罪悪感を刺激するのだ。

 昼間から酒を飲むことに抵抗を覚えてしまうのと同じだ。気にしない人物は気にすることなく昼どころか朝からでも酒を飲むが、リュウイチは気にする性質だった。


『えっ!?あ、いや。そうなんだけど・・・』


「何照れてんだい!?

 昨夜ゆんべ、散々見たろ?

 だって舐めるしさ。」


『あんなトコ?・・・え、変だった!?』


 思わず驚くリューイチに逆に驚くリュキスカ。


「あ、当たり前だろ!?

 アタイ、舐められたの初めてだったよ!」


『マジか・・・』


 《レアル》古代ローマの文化を色濃く引き継ぐレーマ帝国ではクンニリングスはタブーであり、変態的な行為とみなされている。セックスによる快楽は女神ウェヌスからの贈り物であるとされ、それを享受きょうじゅするための性行為にはレーマ人は寛容だ。

 しかし、身分社会である以上、セックスの主導権は常に身分の高い者が握り、身分の低い方は奉仕者でなければならない。同時に男尊女卑社会であるため、女性が男性に奉仕する側でなければならないとされている。

 ゆえに、男性が奴隷の場合はともかく、自由民の男性が女性に口で奉仕する行為などあってはならないし、そういう行為を行う男性を指す言葉「フェッラートル」は男性に対する最大の侮辱とされていた。


「ア、アタイも商売だからさぁ。

 別に兄さんのこと言いふらしたりはしないよ。

 ただ、ちょっとビックリしただけさ。」


『ああ・・・はい・・・いや、でもその恰好見てるとやっぱし』


「別にアタイは娼婦だし、金くれりゃいくらでもシてくれていいけどね。

 できれば赤ん坊連れて来てからにして欲しいね。」


『それについてはクィントゥスさんが行ってるから。

 ひとまずコレでも羽織って。』


 リュウイチはひとまずストレージからバスローブを取り出してリュキスカに渡した。


「あの百人隊長ケントゥリオさん、クィントゥスって言うんだ?

 えっ、ちょっと兄さん今どこから・・って、コレ何だい!?

 ダルマティカ!?」


 バスローブを受け取ったリュキスカが驚きの声をあげ、バスローブを広げたりひっくり返したりしてまさぐりはじめた。


『バスローブだけど?』


「え、これ毛皮ウェッルス!?・・じゃないね。

 毛布みたいじゃないか、すごいモコモコしてるよ。」


『え、コットンだと思うけど?』


綿ボンバシオ!?

 へぇーっ、ホントだフサフサしてんのこれ毛じゃなくて糸だねぇ。

 小さい輪っかがいっぱい作ってあって・・・

 はぁーっ、こんなの見た事ないよ。」


 リューイチがリュキスカに渡したのコットン製のタオル地のバスローブだった。

 この世界ヴァーチャリアでも自動紡績機や自動織機は一部で導入されているが、青銅で作られたそれらは耐久性と信頼性に未だ問題があり、コストパフォーマンス的に手工業を上回るところまではいっていない。なので、衣類のほとんどは手作業で作られている。

 毛布や絨毯が存在するぐらいなのだから、タオル地を作り出すためのパイル織りは当然この世界ヴァーチャリアにも伝わっていて、ベルベットもベッチンも作られている。ただ、それらは贅沢品に属するもので、毛布や絨毯ならともかく衣服に使うのは富裕層に限られていた。ましてやアルビオンニアのような辺境の貧民パウペルには縁がない。

 

『とりあえずそれを着てくれる?

 で、今から適当に服を出すからそれを選んでもらうってことで。』


「え!?これじゃないのかい?

 なんかアタイ、これで十分なんだけど。」


『いや、さすがにそれ着て外を出歩けないでしょ?』


「そうなのかい?

 アタイ、こんな立派な服見た事ないよ?」


『ああ、その・・・それは風呂上りに着るためのものだから。』


「へぇ!それだけのためにこんなの着るのかい?

 はぁーっ、上級貴族パトリキ様ってのぁ贅沢だねぇ。」


「失礼しやす。

 旦那様ドミヌス、お二人分の朝食イェンタークルムの御用意ができやしたが、こちらへお持ちしやしょうか?」


 リュキスカが騒いでいる間にリウィウスが食事の用意を整えた事を伝えに知らせに来た。


『ああ、ありがとう。いや、場所は別の部屋でお願いします。』


 リウィウスが「かしこまりやした。」と言って退出する。


『着替えの服を選ぶのは朝食の後にしよう。

 とりあえず君はそれを着てくれ。』



 一方、時を少し遡ってリュウイチとリュキスカが去った後、庭園ペリスティリウムに残されたクィントゥスは奴隷たちを集めて言った。


「いいかお前たち、大事なことだ。

 これから私はあの女リュキスカの子供を引き取りに行く。なるべく早く帰ってくるつもりだが、交渉が長引けば夜になるかもしれん。

 もしも、私が帰って来る前にスパルタカシアルクレティア様が戻られたら、あの女リュキスカに絶対会わせるな。いいな?」


「そいつぁ一体いってぇどういうこって?」


スパルタカシアルクレティア様はリュウイチ様の巫女になることをお望みだ。

 それなのにリュウイチ様の御傍おそばに他の女がいてみろ。

 どうなるかわかるだろ?」


「「「「「「「「ああ・・・・・」」」」」」」」


 奴隷たちがなるほどと納得する。


「で、でもアレティウスクィントゥスの旦那、さっきの話だと旦那様ドミヌスあの女リュキスカ御傍おそばに置くつもりのようですぜ?

 だとすると、今だけ隠したところで・・・」


「皆まで言うな。

 それは私も分かっている。

 だが、いきなり知られるより、軍団長閣下アルトリウス子爵閣下ルキウスあたりから御説明を受けてから会せた方がショックは少ないだろう?」


軍団長閣下アルトリウスに頼むおつもりで?」


「私だって平民プレブスだ。

 貴族パトリキの事は貴族パトリキに任せた方が良いだろ。

 お前たちだって、これ以上面倒な問題は起こしたくないだろ?」


「わかりやした。」


 リウィウスが代表してそう言うと全員が頷いた。


「お前たちの中で子供を持ったことのある者は?」


 奴隷たちは顔を見合わせた後、オトがおずおずと手を挙げた。

 オトは火山災害の前はアルビオンニウムの印刷工房で働いており、普通に家庭を持って妻子を養っていた。彼の家族は火山災害後に降った雨が引き起こした土石流で家ごと流されてしまったが・・・。


「よし、ネロとお前は私について来てもらう。

 受け取った子供の面倒を見てもらうぞ。

 他はいつも通りの仕事プラス、あの女リュキスカの世話だ。

 スパルタカシアルクレティア様やヴァナディーズ女史が帰って来ても見つからないように部屋を用意し、あの女リュキスカをそこへ案内しろ。そしてなるべく出歩かせないように。

 絶対にスパルタカシアルクレティア様には見つからないように、いいな?

 リュウイチ様にもお願いし申し上げておいてくれ。」

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