第178話 『満月亭』の朝
統一歴九十九年四月十七日、朝 - 《陶片》『満月亭』/アルトリウシア
店内は朝食を食べに来た客で繁盛していた。
店舗の営業形態について取り締まるような厳格な法整備が行われているわけでは無いので、営業形態や営業時間帯について厳密な分類など無い。その店が
だから
逆に今の『満月亭』のように
なので、近所の住民が朝食を食べに『満月亭』をにぎわすのはごく当たり前な日常的風景だった。
しかし、その店の繁盛ぶりを目の当たりにしても面白くなさそうな様子の男がいた。リクハルドの手下のラウリである。
『満月亭』は別にラウリの持ち物ではない。オーナーも、雇われ店長も別にいる。ラウリはただ、この店を任されていた。店のオーナーはエレオノーラ・・・コボルトの父とブッカの母の間に生まれたハーフコボルトで、『満月亭』はリクハルドが愛人であるエレオノーラに与えた店だった。
ラウリが面白くなさそうにしているのは別に朝食客が割安のメニューばかり食べて客単価が低くなり儲けがほとんど出ないからではない。そんなのは開店当初からわかっていたことだ。
ラウリの不機嫌の原因は昨夜の事件のことだ。
その客をベルナルデッタとリュキスカが奪い合って喧嘩し始め、ベルナルデッタが負けた。そのうえにまだ宵の口だというのにベルナルデッタがその夜の営業を切り上げてしまった。
その直後、ベルナルデッタの順番待ちをしていた客が泥酔し、刃物を抜いて暴れ出したが、
そしてリュキスカは帰ってこなかった。
不可解な事にその時、現場にいたはずの客や店員のほとんどがその時の事をまったく憶えていない。当事者であるはずのベルナルデッタも昨夜早くに寝たせいか珍しく早朝から起きていたので話を聞いてみたが、そんな話は全く身に覚えが無いという。それどころか昨夜のことをほとんど憶えていないようだった。
昨夜のことを憶えていたのは厨房にいた連中と用心棒たち・・・厨房にいた連中は厨房で働いていたのだからもちろんフロアで何が起こっていたかすべてを見ていたわけでは無い。用心棒たちもベルナルデッタとリュキスカの喧嘩が終わった後、ベルナルデッタを追ってフロアから出てしまったのでその後の事は知らなかった。
あとは酒を飲んでいなかった娼婦が二人ばかり・・・
最初話を聞いた時は何かの冗談かと思ったが、現にリュキスカは消えてしまっているし、厨房のスタッフの一部はその客から貰ったというデナリウス銀貨を持っていた。
リクハルドの街にあるリクハルドの店で、間接的にとはいえリクハルドが面倒を見ている女にちょっかいを出されたとあっては、店を任されていたラウリとしては放置するわけにはいかない。
これを放置すれば街を治める
しかし、昨夜から手下を走らせて方々探させているが、リュキスカもそのド派手な金持ちも一向に見つからない。リクハルドの影響下にある店はすべて探したが、それらしい人物が利用した形跡すらなかった。
リュキスカらしき娼婦を抱えた派手な大男が走って行ったという目撃情報を頼りに足取りを追ったが、そこは行き止まりの袋小路だった上に昨夜はぬかるんでいた筈の地面には足跡一つ残っていなかった。
「ラウリさん」
ラウリが振り返ると店の帳簿を担当しているペッテルが立っていた。
「何だ?」
「これを見てください。」
ペッテルは両手に一枚ずつのデナリウス銀貨を持っていた。
「デナリウス銀貨じゃねぇか。それがどうかしたのか?」
「こっちが、昨夜リュキスカを買った客が使った銀貨です。
で、こっちが今朝使われた銀貨です。」
銀貨はどちらもピカピカの新品だった。この店で客が支払いに使う銀貨はほとんどがセステルティウス銀貨である。デナリウス銀貨を支払いに使う客は滅多にいない。いたとしても、使われるデナリウス銀貨は古くなって黒ずんでいたり、磨り減っていたり変形していたりして、こんな新品の銀貨が使われることはそうそうあることではない。
「出所が同じって事か?」
ラウリの問いにペッテルは黙ったまま頷く。
「どの客が使った?」
「あの客です。」
ペッテルが指差す先には壁際のテーブル席に一人腰かけて、そわそわしながら注文した朝食が来るのを待っている男がいた。
「豆入りの
「まるで
「はい、この時間帯に用意しているメニューの中ではフルコースに近いです。
いかがいたしますか?」
いくら金があるからって朝からあんなにガッツリ注文する奴はラウリも見た事が無かった。貴族が贅沢な朝食を摂るのは前夜の残り物を朝に食べるからであって、贅沢な朝食をわざわざ朝に料理して食べているわけではない。つまり、貴族の贅沢な朝食は、自宅に厨房があって専属の料理人がいるからこそなのだ。
自宅に厨房が無くて外食に頼らねばならない
まして、今目の前の男が
「注文通り出してやれ。」
「いいんですか?」
「こっちも商売だ。金払ってくれてんなら問題はねぇ。」
ラウリがそう言うと、ペッテルは黙ったままペコリと頭を下げて店の裏側へ戻っていく。その途中、厨房から様子を見ていた女に手で合図をすると、女は頷いて調理の準備を始めた。
ラウリは少し間をおいてその客のテーブルへ歩み寄ると、正三角形のテーブルの対面の席へ腰かけた。
「!?」
「よう、景気が良いみてぇだな?」
「ラ、ラウリの親分・・・」
男はひどく面食らった様子で椅子に座ったまま後ずさる。
「ああ、大丈夫だ。なんでもねえよ。
お前ぇが頼んだ料理はすぐに来るさ。楽しんでくれ。」
「へ、へえ」
男は一度店を見渡すと椅子に座り直し、両手をテーブルの上で組んだ。
「ただな、料理が来るまでの間、ちょいと話を聞きてえんだ。」
「な、なんでがしょ?」
男は背を丸めてうつむき加減でラウリの様子をうかがっている。
「何、お前が払った銀貨な。」
「あ、あの銀貨が何か?」
「いや何、ずいぶんと綺麗な銀貨じゃねえか。」
「へ、へえ。」
「ピカピカで傷もほとんどないデナリウス銀貨なんて、ここらじゃ滅多にお目にかかれねえ。」
男は顔も身体も動かさず、目だけを動かしてテーブルや床に視線を泳がせ、たまに上目遣いでラウリを見上げたりしている。
「あんなのどこで手に入れたんだ?」
「お、親分、俺ぁ別に盗んだわけじゃ…」
ラウリが声をわざと低くして訊くと、男はオドオドしながら口を開いた。何とか言い逃れようという態度だ。
「だが、働いて手に入れたわけでも拾ったわけでもないんだろ?」
ラウリがニヤッと笑いながらそう言うと、男は組んでいた手を放し両手をテーブルに着いて顔をあげ、ラウリを見た。
「親分、俺ぁ盗みはやっちゃぁ…」
「わかってるさ、心配するな。お前は盗んじゃいねえ。」
わざと
「あんなきれいなデナリウス銀貨なんかこのあたりにゃ無ぇ。だからお前が盗人だとしても盗みようがねえ。
同じ理由で拾ったわけでもねえ。
かといって働いてもデナリウス銀貨なんてもらえるわけがねえ。」
ラウリはうつむいてテーブルの上に視線を泳がせている男の顔を覗き込みながら続けて言った。
「別にお前ぇをどうにかしようってわけじゃねえんだ。ただ、ちょいと話を聞きてえのさ。」
「話?」
男は再びラウリの顔を見た。
「そうさ、お前にあのデナリウス銀貨をくれた男の話さ。」
「男・・・」
「ああ、俺はちょいとその男に用があんのさ。」
男は少し考えてから苦笑いを浮かべながら言った。
「親分、すまねえけど、俺ぁ・・・」
「心配スンナ、別にその男に悪いことしようってんじゃねえのさ。」
ラウリはあえて笑ってみせてから続ける。
「昨夜、この店で刃物振り回して暴れた客が居たんだがよ、俺も手下も留守にしてたんだ。
で、その不届き者に店の女が傷つけられそうになったその時、たまたま店にいた別の客がそいつを丸く収めてくれたのさ。
な?俺ぁ俺の代わりに店と女を守ってくれたその恩人に一言礼を言いてえんだ。だが、その男がどこの誰だかわからねえ。
ただ、その男が払った銀貨と、今朝お前が持ってきた銀貨が同じピカピカのデナリウス銀貨だったんだ。
あんな銀貨を持ち歩くヤツなんざここらじゃそうそう居やしねえ。たぶん、同一人物だと思うんだが・・・お前さん、その男を知ってんなら教えてくんねえかな?」
ラウリは目いっぱいの愛想笑いを作り、男の肩に手を置いてそう言った。男はラウリを見ながらひきつった笑みを浮かべて考えてる。
「す、すまねえ親分、実はその・・・憶えてねえんでさ。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます