第177話 ニグルム・コリウム・スブリガークルム
統一歴九十九年四月十七日、朝 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア
リュキスカの言ってることは間違っちゃいないし、こっちも手荒なことはしたくない。リュキスカの怒りは至極もっともだけど、次善の策を講じるためにも一度落ち着いてもらう必要がある。
リュウイチとしても不本意ではあったが、奴隷たちが暴れるリュキスカを取り押さえるのを看過せざるを得なかった。
「暴れるな!おとなしくしろ!!」
「ふざけんじゃないよ!これが大人しくしてられるもんかい!放しなよ、畜生!!
うぐっ!?ううううーーーっ!うううっ!」
どれほど暴れようと力の差は歴然としている。彼女はあっという間に取り押さえられ、口も手で押さえられて封じられてしまった。
『クィントゥスさん、私が全面的に悪かった。
彼女は悪くない、彼女を帰してはやれないか?』
「残念ながら、先ほども申しました通り帰すわけにはいかないと思います。」
『彼女には赤ちゃんがいるんだ。なんとかならないか?』
「そうは申されましても・・・
誰か赤ん坊の世話をしてくれる者はいないのか?」
クィントゥスがリュキスカを見る。彼にも家庭があり、家に帰れば可愛い妻と愛する子供がいるのだ。子を思う親の気持ちが決して分からないわけでは無い。
必死でもがき続けていたリュキスカだったが、二人の会話からもしかしたら帰してもらえるようになるかもしれないとわずかな期待を抱き、リュキスカはもがくのをやめた。それを見てリュキスカの口を押えていた奴隷が手を放す。
「ヴハっ・・・いないよ。
ちょっと様子を見ててくれるくらいなら誰か娼婦仲間か店の誰かがやってくれるけど、さすがにオッパイや薬をやったりはしちゃくれないさ。」
答えながら赤ん坊の事が心配になったのだろう、顔を伏せ再び泣き始めてしまった。地面に向かって大粒の涙がポタッポタッと零れ落ちていく。
まずい・・・こんな展開は予想外だ。ちょっとスケベ心だしたせいで赤ん坊が一人生命の危機に陥るなんて誰が想像できるっていうんだ!?
いや、想像できようとできまいと、やっちゃいけないことをやっちまった以上は弁解のしようもない。まして命の問題となったら弁解でどうにかなるわけもない。
「だったら何でこんな
ネロがまた余計な口を挟む。
「うるさいね!アタイだってこんな
赤ん坊のために薬が要るんだ!
薬を買うお金が要るんだよ!
借りたくてももうこれ以上借りられないくらい借金があるんだ。
女が生きていこうと思ったら、男に股開かなきゃ生きてけないんだよ!!
人妻なら旦那相手に股開いて、娼婦なら客相手に股を開くんだ!
それだけさ!!
それが悪いってのかい!?ふざけんじゃないよ!!」
取り押さえられたままのリュキスカが顔だけネロの方へ向けて罵声を浴びせた。目に涙を
『なら、せめて赤ちゃんの方をこちらに連れてこれないか?
な、それならいいだろ?』
「それはできますか?」
「ヴフッ!グフッゲフッ・・・無理だよぉ、アタイにゃ借金があるんだ。
店の男衆が渡しちゃくんないよ。」
それを聞いてネロが
「借金の型に赤ん坊を人質にとって自由民の女に売春を強要してるのか!?」
「違うよ!ラウリの親分はいい人さ!ゴホッヴホッゴホッ」
「現にお前に売春をさせてるんだろ!?」
「身体を売るのはアタイが自分で決めたんだ!
もともと娼婦だったしさっ・・ゴホゴホッ
親分は金を貸してくれるって言ってたけど、返せないほど借りるわけにはいかないからさ。
赤ん坊の症状が治まってきたから、仕事に戻ることにしたんだ。」
『借金はどれくらい?』
「・・・だいたい・・・八百・・・」
「「「「「「「「八百ぅ!?」」」」」」」」
その金額にホブゴブリンたちが目を丸くする。
驚くのも無理はない。八百セステルティウスと言えば
周囲の奴隷たちが次々とリュキスカに質問を浴びせ始める。
「まて、
「いないよ!」
「
「名前も知らなきゃ、見たこともないや!」
「赤ん坊の父親は!?」
「知らないよ!客の誰かさ、アンタらにゃ関係ないだろ!?」
「じゃあ、
「そうだよ!だから借金があるって言ってんじゃないか!!」
「女に金を貸す奴がいるのか!?」
「ラウリの親分は女にでも貸してくれるんだよ!」
「八百セステルティウスもか!?」
「うるさいね、まだ
だいたい薬が高いんだよ!」
彼らにしてみれば衝撃的な事実だった。
人権とか平等主義とかといったものは、所詮はある程度発達して余裕を持った社会でしか実現できないのが現実だからだ。余裕の無い社会ではどうしたところで弱者救済を諦めて弱肉強食を受容せざるを得ない。
そして
『わかった!
じゃあその借金は肩代わりしよう。
すぐに赤ちゃんを引き取ってきてくれ。』
「お待ちください!本当にこの女を御傍に置くおつもりですか!?」
『仕方ないでしょう?
無関係な赤ちゃんを死なせるわけにはいかないし、帰すことができないんならここに居てもらうしかありません。』
「ですが、このような卑しい者を・・・」
「ちょっと!卑しいって何だい!?」
クィントゥスの言葉にカチンと来たリュキスカが文句を言おうとすると、リュキスカを取り押さえている奴隷の一人が口を塞ぐ。
「お前は口を挟むな!」
「んんーっ!んーんーっ!!」
「その・・・高貴な御方に触れてよいのは高貴な者のみです。
お世話が必要であれば他のふさわしい者を御用意いたします。
ですが、このように素性の知れぬ者を
どうか御理解ください。」
『私の元いた国では一部の例外を除いて身分の違いなんてなかったんです。
私はこの世界でなら身分の低い者がするような仕事に就いていたし、金持ちってわけでもありませんでした。』
「そうかもしれませんがここでは違います。どうか御理解ください。」
『聞いてください。。
私が身勝手を働いて彼女を巻き込んだんです。
そのせいで彼女は何も悪くないのにここに閉じ込められる事になって、そのせいで大事な赤ちゃんを喪おうとしてます。
これは身分の問題じゃなくて、私の責任の問題です。
私には彼女に償う義務があるし、彼女の赤ちゃんを助ける義務もあります。』
「・・・わかりました。それでは
彼らの内二人ほどお借りしてよろしいでしょうか?
兵も連れて行きますが、赤ん坊の面倒を見る者が要りますので。」
『それはどうぞ。
さあ、もういいだろ、彼女を放してくれ。』
奴隷たちは一度互いの顔を見合わせ、しょうがないかとでも言いそうな顔でリュキスカを放した。
『借金が八百・・・なんとかとか言ってたな、他に赤ちゃんを引き取るのに必要になりそうなものは何かあるか?合言葉とか・・・』
「そんなものはないよ。」
『わかった。赤ちゃんのほかに持ってこなきゃいけない荷物とかは?』
「薬だよ!赤ん坊は病気で薬が要るんだ。
あとは、
『大きいのか?重さは?』
「そんな大きなものじゃないよ。
中身もボロ着だけだから、アタイ一人でも持てるさ。」
『わかった。じゃあクィントゥスさん、これで頼みます。
袋一つに銀貨百枚入ってます。』
クィントゥスがお金を受け取るために両手を差し出すと、リュウイチはその上にどこからともなく取り出した袋をドンドンと乗せていく。クィントゥスは二つ目までは普通に受け取ったが三つ目で驚き、四つ目から慌てだし、五つ目で悲鳴を上げた。
「ちょっ、ちょっとお待ちください!」
『借金は銀貨八百枚でしょう?』
「八百セステルティウスです!八百デナリウスではありません!!」
『せるてる・・・?これとは違う銀貨なんですか?』
「これは先日、両替えされた銀貨ですよね?
ならデナリウス銀貨です。デナリウス銀貨一枚でセステルティウス銀貨四枚の価値があります。
デナリウス銀貨なら二百枚です。」
『ああ・・・だが、一応持っていってください。
たぶん、借金以外にも口止め料とか余計な金が必要になるでしょう?』
「いや、そうかもしれませんがさすがにこれは・・・」
リュウイチは両手に持っていた袋二つを引っ込めたが、クィントゥスの手にはまだ六つの袋が残っていた。六百デナリウスはいくらなんでも多すぎる。
リュキスカに大事な質問をし忘れていた事を思い出したリュウイチは困った顔をしているクィントゥスを差し置いてリュキスカに向き直る。
『赤ちゃんの名前は?』
「あ、ああ、フェリキシムス」
「フェリキシムスだな?わかった。
必ず連れて来るから、君はここで大人しく待っているんだ。」
リュキスカから赤ん坊の名前を聞いたクィントゥスがそう力強く言うと、リュキスカはまだ少し不安そうではあったが黙ってうなずいた。
「では行ってまいります。」とクィントゥスが
「お、お待ちを!」
「何だ?」
「このまま金持って赤ん坊を引き取りに行っても多分、渡しちゃくれやせんぜ?」
『どういうことだ?』
「へぇ、母親の代わりに迎えに来たとか偽って、赤ん坊を盗もうとしている・・・なんて疑われちゃ向こうだって責任ってものがありやすから」
残念ながら赤ん坊泥棒はどんな世界にも存在する。ここアルトリウシアでも赤ん坊が盗まれたという話は年に何度かは聞く話だった。
『なるほど・・・どうすればいい?』
「この女を連れて行くか、間違いなく母親の代理だって証明できるモンが無ぇと」
「ふむ、だが本人を連れて行くわけにはいかない。
君、何かあるか?」
もっともな話だと納得したクィントゥスがリュキスカに尋ねる。しかし、彼女は文字通り身一つで
「こ、これしか・・・」
周囲の男たち全員の視線が集まる中、すこし躊躇した彼女がおずおずと顔を赤くして差し出したのは、
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