第187話 平行線

統一歴九十九年四月十七日、午前 - 《陶片》満月亭・応接室/アルトリウシア



 チューア産の香茶に使われている茶葉はこの世界ヴァーチャリアの固有種であり、わざわざ「香茶」と呼ばれるに値するほど香りが良いのが特徴である。その香りには緊張をやわらげ、気持ちを落ち着かせる効果があるとされ、商人や貴族ノビレスたちの間で珍重されている。

 『満月亭ポピーナ・ルーナ・プレーナ』の応接室タブリヌムには、その最上級とされる香茶の芳醇な匂いに満たされていたが、その空気は香茶の効能を疑いたくなるような殺伐とした緊張感に溢れていた。クィントゥスとラウリが黙ったまま睨み合い、同室している三名もその雰囲気に飲まれてしまったように身動き一つしないでジッとしている。


 たしかにラウリはクィントゥスを信用できないとして話を突っぱねたが、席を立つところまではしていない。ラウリの側としてもまだクィントゥスに、そしてクィントゥスとの会談に何か期待するものがあるということだ。

 それは何か?

 もちろん、リュキスカの事だろう。さすがにアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアとまともにぶつかり合って勝てるわけはないし、ぶつかるつもりもラウリには無かったが、しかしだからといって自分たちが庇護している娼婦が不当に扱われるのを黙って見ているわけにはいかない。


 奴隷が当たり前に売り買いできていた頃なら、借金漬けにして奴隷にした女に身体を売らせる事もできた。だが、今はそれは出来なくなっている。夜の街のビジネスを成功させるには、今や娼婦と信頼関係を築くしか無いのだ。

 しかも、ラウリはリクハルドの街づくりの一環として《陶片テスタチェウス》の風俗業界を取りまとめる立場にある。彼がしているのはただ単に金を儲けるための風俗業経営ではなく、治安と秩序を維持するための風俗業経営だった。


 法律でどれだけ縛ったところで売春を社会から根絶させることは出来ない。無理にそれをやろうとすれば、却って治安が悪化し秩序が乱れる。これは歴史を振り返れば明らかな事だ。人間の自然の摂理を無視した社会など実現するはずが無いのだ。

 だからこそ、為政者として売春を認めたうえで秩序を保たせる。それをリクハルドヘイム《陶片テスタチェウス》の街で統括しているのがラウリだった。

 そうした立場からすれば娼婦の安全が脅かされる行為、娼婦たちとの信頼が壊れるような事件など、絶対に認めることは出来ない。


 そして、そうだからこそ、ラウリはここで席を立つ事が出来ないのだ。今、クィントゥス以外にリュキスカに繋がる手がかりが無いのだから、たとえここで交渉が決裂したとしても、クィントゥスを逃がすことは出来ない。

 リュキスカは何としても取り戻さねばならないし、そのために引き出せるヒントは引き出せるだけ引き出さねばならない。こうしている間にもラウリの手下たちが《陶片テスタチェウス》各所でクィントゥスの部下たちの動静を見張ったり、その身元を確認すべく動き回っているのだ。


「私の身元につきましては、軍団レギオーでも要塞カストラにでも問い合わせていただければ即座に判明するでしょう。」


 クィントゥスは静かに言った。


「自信たっぷりだな?」


「私の大隊長ピルス・プリオル就任は軍団長閣下レガトゥス・レギオニスの決定によるもので、子爵閣下ルキウスの承認も得たものです。

 当然、軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムたちもすべて承知していますし、要塞司令官プラエフェクトゥス・カストルムも御存知です。

 どなたにお問い合わせられたとしても、確認は出来る筈です。」


「言われなくてもここに来る前に手下を確認に走らせてる。」


「ではどうしましょう?

 身元確認が出来るまでこのまま待ちますか?」


「俺ぁ急がねぇぜ?」


 せせら笑うようにラウリは言うが、実は既に彼は七割がたクィントゥスが身元を偽っていないだろうと考えていた。大隊長ピルス・プリオルかどうかはともかく、少なくとも本物の軍団兵レギオナリウスであることは間違いないだろうと。


「しかし、私の方は急いでいます。

 リュキスカの息子フェリキシムスにお乳と薬を与えねばならない。

 フェリキシムスの様子の確認だけでもしたいのですが?」


 ラウリは「フンッ」と小さく鼻を鳴らして両眉を持ち上げた。

 クィントゥスの口からまだ誰も教えていない筈の赤ん坊の名前が出た事から、クィントゥスが間違いなくリュキスカと直接会ったのだろうという確信を得たのだった。しかし、クィントゥス側からは、ラウリのその態度はクィントゥスを嘲笑しているように見えた。


「坊主はまだ生きてるぜ。

 マリアンヌが面倒を見ている筈だ。」


「お乳と薬は?」


 ラウリは少しうつむき、目を閉じて左手で眉間をモミながら、声のトーンを少し落として答えた。


「薬は飲ませた。

 が、お乳は乳の出る女がやろうとしたけど、今朝は飲もうとしなかったとよ。」


 実はフェリキシムスの容体は今朝から急激に悪化している。娼婦仲間では一番リュキスカと仲がいいマリアンヌが昨夜から面倒を見ていたのだが、今朝になって急にフェリキシムスがぐったりし始め、ひどく取り乱していた。

 その様子はラウリが今朝リュキスカが戻って来てない事を知らされてから、赤ん坊の様子を確認しに行ったときに目の当たりにしている。


「赤ん坊をリュキスカに会わせたいのです。」


「ならリュキスカを連れてくるこった。」


「それは出来ません。」


「じゃあ、無理だ。」


 ラウリはそう言い捨てると再び上体を背もたれに預け、見下ろすようにクィントゥスを睨む。

 このままでは平行線だ。クィントゥスは攻め方を変える事にした。


「リュキスカには借金があるそうですね?」


「ああ、それがどうかしたか?」


「八百セステルティウス、彼女に代わって清算する用意があります。」


「利子ってもんがあるからな、八百よりちょいとあるぜ?」


「構いません。即金でお支払いいたします。

 おいくらですか?」


「さあな、細けぇこたぁ帳簿係に訊かねえとわからねぇ。」


「では確認を・・・」


「おい!」


 ラウリがクィントゥスを遮った。


「言っとくが、金の問題じゃねぇ。

 アンタがいくら積もうが、リュキスカを返してもらわにゃなんねぇって事に変わりはねぇんだぜ?」


 ラウリがグイッと前のめりになり、ドスの効いた声で釘をさす。

 クィントゥスは騎士エクィテスの家系出身で百人隊長ケントゥリオを務めるだけあってホブゴブリンにしては体格が大きい方だ。だが、それはラウリも同じでブッカの割には大柄な方で、単純に身体の大きさならクィントゥスに負けていない。それでいてコボルトの伝六でんろくや、ハーフコボルトとはいえ並のコボルトよりも大柄なリクハルドと普段から接しているだけあって、自分よりガタイの大きい相手でも物怖じしない肝っ玉の太さがある。

 並の相手ならその一睨みで怖気づくだろう。

 しかし、クィントゥスも実戦経験のある軍団兵レギオナリウスである。しかも軍団レギオーで最も死亡率の高い百人隊長ケントゥリオという立場で実戦をくぐったのだ。豪胆さでは海賊やギャングごときに決して負けはしない。



「私がここに来て身請けの手続きをし、赤ん坊を連れ帰るのはリュキスカ自身の依頼でもあります。」


 クィントゥスの口調は変わってはいないが、その視線と声色は先ほどより低く冷たいものに変わった。


「だからそれを確認するためにリュキスカを連れて来いっていってんだろうが?」


 ラウリも決して退かない。海賊時代からリクハルドについてきた彼は逃げるべき場面での逃げっぷりこそ見事なものだが、同時に退いてはいけない場面では死んでも退かないという粘り強さも持っている。まして、今回の件は相手に非があり、自分の側には退くべき理由が何もない。それで親子ほども若いであろうクィントゥス相手に簡単に引き下がるわけがなかった。

 両者はまさに一触即発というところまでヒートアップしてしまう。


 見かねたヴェイセルが割って入った。


「オホンッ!

 ま、まあお二人とも落ち着いて。

 カッシウス・アレティウスクィントゥス様、我々としても筋道さえ通していただければ決して対応しないというわけではありません。リュキスカが本当に高貴な御方に身請けされるというのなら、それは喜ばしい事だと思います。

 ですが、我々も色々と責任を抱えていて、それを果たさねばなりません。

 娼婦の身の安全を保障するのも、我々が果たさねばならない重大な責任の一つです。リュキスカの子供のこともね。

 しかし、リュキスカは結果的に連れ去られてしまった。彼女の子供を置き去りにして。

 それでアナタが来て事情も知らない我々に身請けしたいと言われても、お話の真偽を確認できませんし、確認もできないのにああそうですかと受け入れてしまっては、我々は責任を果たした事にはなりません。」



 ヴェイセルの話を聞きながら、ラウリは再び上体を背もたれに預け、クィントゥスも胸を張って軽く肩を回し姿勢を正す。



「私の身分にも話の内容にもウソ偽りはない。」


「それを証明しろって言ってんじゃねぇか。」


「まぁまぁ」


 お互いの立場は理解したが、それでも話は一向に進まないまま時間だけが過ぎて行った。

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