第185話 交渉決裂?

統一歴九十九年四月十七日、午前 - 《陶片》満月亭・応接室/アルトリウシア



 『満月亭ポピーナ・ルーナ・プレーナ』の応接室タブリヌムはハンナがお茶を持ってきた事で休戦状態になったが、緊張状態が解消されたわけでは無かった。

 クィントゥスとしてはなるべく誰にも話を聞かれたくなかったし、ヴェイセルにしても十二歳の少女にリュキスカの売り買いともとれるような話を聞かせたいとは思っていなかった。

 扉を開けたハンナはティーセットを載せたカートを押して部屋に入り、扉を閉めると「失礼します」と一言断ってからお辞儀する。そしてカートを押しながらヴェイセルの傍まで来ると再び「失礼します」とクィントゥスに向かって一礼してからヴェイセルに小声で「旦那様ドミヌス」と話しかけた。


「ん?」


「ラウリの親分さんがおいでになられました。」


 ハンナが小声で耳打ちする。

 ヴェイセルは少し考えてからクィントゥスに向かって問いかけた。


「どうやら、《陶片ここいら》の娼婦の面倒を見ている顔役の方が参られたようです。

 彼女も彼が面倒を見ていた。ここへ御通ししてもかまいませんかな?」


 クィントゥスとしてはなるべく話を広げたくない。しかし、リュキスカの面倒を見ている人物となると、話を通さなねばならないかもしれない。リュキスカは借金があると言っていたから、それが彼女に金を貸している人物だとすれば会わない訳にはいかないだろう。


「その顔役の方は、話を通さねばならない相手ですか?」


「もちろん」


「彼女はラウリという人物に借金をしていると言っていた。その方ですか?」


「ええ、そうです。

 御存知なら話は早い、よろしいですね?」


「ええ」


「では、失礼して私が呼んでまいります。

 お前ハンナはお茶を御用意なさい。ラウリの親分さんの分もだ。」


 クィントゥスが渋々承諾するとヴェイセルはそう言って席を立った。


 ハンナが持ってきたカートはコンロが据え付けられた、お茶を淹れるための専用のカートだった。素焼きテラコッタのコンロの中には砂と灰が敷かれ、その上に既に木炭が赤く燃えている。コンロの上にはコンロとセットになっている土鍋が乗せられていて、中には既にお湯がクツクツと煮立っていた。

 既にお湯で満たされている混酒器クラーテールにお茶専用のスズ製のデキャンタオイノコエを浮かべる。デキャンタオイノコエの口にし袋をセットするとたっぷりと茶葉を入れ、土鍋から柄杓でお湯を掬っては丁寧に注ぎはじめる。

 要領としてはコーヒーのネルドリップと同じだ。ただ、コーヒーサーバーとして使われている容器オイノコエがお茶の風味に影響しないスズで出来ているため、お茶を煮出す前に冷めてしまわないよう、湯煎の要領で保温するのである。

 茶葉からお茶が染み出すのを待っている間に、ハンナはゼルコウァの木から削り出し、拭き漆で仕上げたカップホルダーにスズコップポクルムをはめ込む。これも磁器や釉薬を塗った陶器が普及していないこの世界ヴァーチャリアで、器にお茶が染み込むこともなく、ポクルムがお茶の風味に影響する事もなく、なおかつお茶が冷めにくく、同時にポクルムを持つ手が火傷しないようにするために考え出された方法だった。

 お茶の染み出した頃合いを見計らってハンナは茶葉をし袋ごと取り除き、デキャンタオイノコエ混酒器クラーテールから持ち上げて外側の水滴を拭きとると、コップポクルムにお茶を注いでいった。


 ハンナがお茶を注ぎ始め、室内に香茶の香りが満ちた頃に扉が開き、ヴェイセルがラウリを伴って戻ってきた。それを見てクィントゥスが立ち上がる。


「お待たせしましたカッシウス・アレティウスクィントゥス様、こちらがラウリ様です。

 ラウリ様、こちらが先ほどご説明したカッシウス・アレティウス様です。」


アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアのクィントゥス・カッシウス・アレティウスと申します。」


「リクハルドヘイムの郷士ドゥーチェリクハルド卿の配下、ラウリです。」


 ヴェイセルの紹介で互いに自己紹介した二人だったが、そのまま睨み合いが始まってしまう。

 その雰囲気にハンナは怯えてしまったが、なんとかお茶をテーブルメンサの上に並べ、クィントゥスの背後に立っていた二人の奴隷にも勧めるが、奴隷たちは無言のままハンドサインで遠慮した。

 ハンナはどうしたらいいか分からずヴェイセルの方を見ると、ヴェイセルは無言のまましょうがないという表情を作ると、ハンナに軽く微笑みながら頷いた。


「さあ、ちょうどお茶が入ったようです。どうぞおかけください。

 ハンナ、お前は下がっていなさい。ああ、それは置いて行っていい。」


 ヴェイセルに言われてハンナが出ていくとラウリとクィントゥスはようやく席に着いた。ラウリとヴェイセルはお茶を取って軽く啜ったが、クィントゥスは手を付けない。

 最初に口を開いたのはラウリだった。


「さて、リュキスカの奴を預かってるって聞きやしたが?」


「身柄は確保されています。」


「身請けしたいって?」


「その通りです。」


「そのためには一度リュキスカを返してもらわなくちゃなりやせん。」


「申し訳ないがそれは出来ません。」


「理由は?」


「すみませんが言えません。軍機に触れます。」


「言っときやすが、リュキスカは自由人だ。奴隷じゃねぇ。

 仮に奴隷だとしてもアンタ方のじゃねぇ。

 こいつぁ立派な誘拐ですぜ?」


「そちらからはそのように見えるのは理解します。

 結果的にそうなってしまったのは、私としても残念に思っています。」


「軍機に触れるってことは軍団レギオーが関わってんですかい?」


「答えられません。」


 ラウリはクィントゥスが胸にぶら下げている、金属円盤ファレラエに目を留めた。


「アンタぁ百人隊長ケントゥリオじゃねぇな?

 アンタが付けてるファレラエは大隊長ピルス・プリオルのだ。」


 レーマ軍では下士官セスクィプリカーリウス以上になると首飾りトルクを付け、それにファレラエと呼ばれる直径四インチ(約十センチ)から五インチ(約十三センチ)の金属製の円盤をぶら下げる。それらの多くは勲章だが、大隊長ピルス・プリオル以上の役職に就くとそれを示すファレラエも取り付ける。

 ラウリは大隊長ピルス・プリオルを示すファレラエを見つけたのだった。


「え?ええ、よくご存じで。」


「ふむ・・・だが、俺ぁはアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア大隊長ピルス・プリオルは全員知ってる。

 その中に、カッシウス・アレティウスなんて名前の奴はいねぇ。

 アンタぐれぇ若ぇ大隊長ピルス・プリオルもだ。」


 ラウリはクィントゥスの身元を疑い始めていた。


「三日前に、昇進したばかりでしてね。」


「ふーん、今までの大隊長ピルス・プリオルの誰かが昇進するか引退でもしたんですかい?」


「いえ、誰も。」


「てことはアンタが率いてんなぁ新設の大隊コホルスですかい?

 アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアが増員したなんて話は聞いてねぇが?」


「増員はしてません。

 既存の大隊コホルスから抽出した兵士で再編した大隊コホルスです。」


「なんでそんなことを?」


「申し訳ありませんが、軍機ですので。」


「アンタぁ昇進したって言ってたが、今までは?」


百人隊長ケントゥリオでした。」


第二大隊コホルス・セクンダ?」


「いえ、第一プリマです。」


 第二大隊コホルス・セクンダは水道工事のために西山地ヴェストリヒバーグに駐屯していてこちらに残っているわけがない。ラウリもそんなことは知っている。


「てことは、アンタの率いている兵隊も元第一大隊コホルス・プリマなのかい?」


「・・・答えられません。」


「ふーん、だが、どのみちアンタの素性が知れねぇのは変わらねぇ。

 素性の分からねぇ人間の言う事を軽々しく信じるわけにゃあいかねぇな。」


 ラウリはそう言うとそれまで前のめりにしていた上体を背もたれに預けた。

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