身請け交渉

第181話 不吉な来客

統一歴九十九年四月十七日、午前 - 《陶片》満月亭/アルトリウシア



 元々のレーマ人やアルトリウシア先住民であるセーヘイムのブッカたちは昼食を摂る習慣はない。朝と夕の一日二食が基本で、昼食は間食のような扱いになっていて習慣的に食べる事はないが、たまに小腹が空いた時に軽く食べる程度だ。

 アルトリウシアにはごく少数しかいないがチューア人や南蛮人サウマンは朝昼晩の一日三食を食べる習慣がある。ただ、南蛮人サウマン貴族パトリキは朝と夕の一日二食を基本とし、複数回の間食を摂るようだ。

 アルトリウシアのヒト種の中で最大勢力を誇るランツクネヒト人は少し異なる食文化を持っている。聖職者は昼と夜の一日二食、貴族パトリキは聖職者にならって昼夜の一日二食の場合もあれば、変則的だが午前・午後・晩の一日三食を摂る例もある。ランツクネヒト人の平民プレブスは朝昼晩の一日三食が基本だが、人によっては朝、午前、昼、午後、夕の一日五食を食べる者もいる。


 ランツクネヒト人聖職者と貴族の一部が一日二食なのは古いキリスト教の習慣に従ったものだった。前日の夕食サパーから翌日正午の礼拝が終わるまでの間は「食絶ちファースト」せねばならず、昼の礼拝が終わったら正餐ディナーをたっぷり摂る。そして日没後に軽い夕食サパーで仕上げて、また「食絶ちファースト」が始まる。

 ただ、この食習慣は普段ろくに働かない聖職者や貴族は問題ないとしても、朝から晩まで働かねばならない庶民には耐えられるものではない。

 ゆえに肉体労働者を中心とした庶民たちは「食絶ちファースト」を中断ブレイクして朝食ブレイク・ファーストを摂るのが一般的になっている。

 庶民にとっては朝食を摂るのは当たり前だが、キリスト教の教えにそぐわぬ食習慣は浮世離れした一部の聖職者や貴族パトリキたちからは冷ややかな目で見られており、一日の食事の回数の多い者を「食欲を御することもできぬ卑しい人間」として見下す貴族パトリキも稀にいた。


 ともかく、こうした雑多な食習慣を持つ人々が集まっているアルトリウシアでは、飲食店はそれぞれのニーズに対応するため営業時間がどうしても長くなる。すべての家庭にキッチンがあるわけではないので、庶民の多くが外食にたよっているから、それらのニーズに対応しなければならないからだ。

 だから売春宿ポピーナであるはずの『満月亭ポピーナ・ルーナ・プレーナ』も早朝から深夜まで店は開きっぱなしだ。さすがに朝っぱらから女を買うような元気者な客はいないが、朝食を求めて来店する客には事欠かない。


 それも第四時ホーラ・クアルタ(だいたい午前九時半ぐらい)も過ぎると朝食客は一気に減り、昼食客が訪れ始める第六時ホーラ・セクスタ(だいたい午前十一時過ぎくらい)ごろまでの二時間は一気に暇になる。

 普通の店なら客足が一気に途絶えてしまう時間帯だが、それでも人気店だけあって『満月亭』のフロアには四、五名程度の客の姿が残っているのはさすがと言えよう。

 厨房では朝食後の洗い物の片付けがまもなく終盤に差し掛かっていて、料理担当は昼食客用の料理と午後からのために店頭に立ち始める娼婦たちのためのまかない飯について、仕入れ担当が持ち込んだ材料を吟味しながら検討しているような状態だった。

 言ってみれば、今は営業時間中で一番暇な時間帯であった。今日は朝から天気が良く、窓からは眩しいくらいに陽光が差し込んでいて、フロアは実にのどかな雰囲気だった。

 そんな中、フロアで給仕を務めるスタッフがこの日何度目かになる欠伸あくびを噛み殺した直後、彼らはやってきた。



 ガチャガチャという不規則で連続した金属音と共にドカドカという足音が急に大きくなると唐突に店の扉が開かれ、ホブゴブリンの軍団兵レギオナリウスが踏み込んできたのだ。


「邪魔をする、店主ドミヌスにお会いしたい。」


 明らかに他の兵士たちより立派ないでたちの隊長らしき男が給仕に言うと、呆気に取られていた給仕は口をぽかんとあけて驚いた表情のまま二、三度無言で頷いて厨房の方へ引っ込んで行く。

 店長はそれほど間を置かずに出てきた。


 雇われ店長のヴェイセルは軍団兵たちの威容に少し圧倒されたような雰囲気で、おずおずと挨拶を口にする。


「私が当店の店長ドミヌスですが、百人隊長ケントゥリオさん、ウチの店に何か御用でしょうか?」


「うむ、自分はアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアのクィントゥス・カッシウス・アレティウスという者だ。

 店主と折り入って話があるのだが、ここで話すははばかられる。」


「で、では店の応接室タブリヌムへ御案内します。

 ですが、御連れの皆さまは・・・」


 クィントゥスは護衛のための部下を引き連れて来ていた。店内に八名、店の前に八名が待機し、さらに《陶片テスタチェウス》の『たつみ門』の前には馬車と十八名の部下が待機している。さらにそれとは別に武装していないが顔を布で隠したホブゴブリンらしき男が二人同行していた。

 かなり物々しい雰囲気で、店の外には「こいつぁいったい何の騒ぎだ」と野次馬が集まって遠巻きに店の様子をうかがい始めている。

 クィントゥスは従者らしき顔を隠した二人を指して言った。


「彼ら二人だけ同行させる。他は待たせたいが・・・」


「ちょっと、店の前に兵隊さんに立たれちゃ商売の邪魔になるんですがね?」


「ふむ、では彼らは店の中で待たせてもらっていいかな?

 無論、何か飲み物くらいは人数分頼もう。」


 クィントゥスはそう言うと腰のポーチを開いて財布を取り出す。


「そうしていただければ、こちらとしては文句はありません。」


「十六人だ、これで足りるだろう。

 何か適当な飲み物を人数分頼む。

 あぁ!酒以外でな?」


 クィントゥスはそう言いながらセステルティウス黄銅貨を二枚取り出して近くにいた給仕に渡した。

 給仕は受け取るとニコッと微笑んで会釈すると、兵士らの方へ駆けて行って席へ案内し始めた。

 それをみてヴェイセルは小さくため息を一つ付いてから息をスッと胸いっぱい吸うと愛想笑いを作った。


「ではカッシウス・アレティウスクィントゥス様でしたね。御案内いたします。

 どうぞこちらへ・・・ああ、せっかく上履きソレアをお持ちいただいたようですが大丈夫、不要です。」



 外で履いた靴等を履いたまま屋内に入ると、靴底に付着した泥などを屋内に持ち込んでしまい屋内が汚れる。

 それを嫌って《レアル》日本などでは玄関で靴を脱ぐ習慣があるわけだが、《レアル》古代ローマでは裸足にはならないが屋内用の履物に履き替える習慣があった。そしてその文化はレーマ帝国にも引き継がれており、他人の家に訪れる時には自分用の上履きソレアを持って行くのがマナーになっている。

 もっとも、二間しかない狭い集合住居インスラに家族がすし詰めになって暮らしているような平民プレブスの家だと履き替える意味があまりないので、そうした習慣やマナーはあまり厳密なものでは無いのだが、訪れる先が大きな屋敷ドムスなどであるならば必須だった。

 逆にそれなりに広い屋敷ドムスであるにもかかわらず、上履きソレアに履き替えなくて良いと言われると、その屋敷ドムスの清潔さや主人の衛生観念に疑問を持たれることもある。


 これが住居ではなく食堂タベルナ軽食屋バールなどの店舗の場合は客にイチイチ履物を替えろなどとは言えないので、店内は普通は土足のままである。

 しかし、高級料亭ケーナーティオになると微妙で、客ごとに個室で食事を摂ってもらうスタイルが一般的なため、客に上履きに履き替えさせている店舗も珍しくはない。

 売春宿ポピーナの場合はそれらの中間のような感じで、客に部屋を貸すという都合上、店内の清潔は保ちたいがイチイチ上履きに履き替えさせる事も出来ない。このため、客は土足のままだが店で働くスタッフや娼婦たちは上履きを履いているという妙な方針をとっているところが少なくなかった。『満月亭』はそうした店舗の一つである。


 クィントゥスも結婚する前はそれなりに遊んでおり、『満月亭』にも客として来たことがあった。さすがに店の裏方の様子まで熟知するほど入れ込んだことはないが、店員たちが上履きソレアを履いているという程度の事は知っていたし、今回は裏方で店主らと話をするつもりで来たので、一応自分の上履きソレアを持参していたのだ。



 土足のままで良い・・・というから、小汚い粗末な部屋へ通されるのかと思っていたが、案内された応接室タブリヌムはかなりな調度品で飾られた豪華な部屋だった。

 こうした部屋は直接利益を生み出すことはないが、やはり商売をする上ではハッタリというのはかなり重要になる。『満月亭』ほどの有名店ともなればそれなりに商談も多く、商談を優位にすすめるためにはこうした一見無駄でしかない豪華な部屋も必要になるのだ。

 もちろん、今のアルトリウシアで最も豪華に飾り付けられているリュウイチの住まう陣営本部プラエトーリウムとは比べ物にならない。それでも粗末な部屋へ案内されるという思い込みがあったせいか、クィントゥスは驚きを隠しきることは出来なかった。

 その様子に自信を取り戻したヴェイセルは営業スマイルにも余裕が出来る。


「さあ、どうぞこちらへおかけになってください。

 今、お飲み物を御用意しましょう。少しお待ちを・・・」


 綿の入った赤いラシャのクッションを座面に張った背もたれ付きの椅子を自ら引いてクィントゥスを座らせると、ヴェイセルは部屋の入口まで戻った。


「熱~いチューア香茶を御用意しろ。一番上等なヤツだ。」


 入口のところまでついて来ていた従業員の一人にヴェイセルは室内のクィントゥスたちに聞こえるようにわざと大きな声で命じる。そして、アス銅貨二枚を握らせ、今度は室内には聞こえないように小声で「誰か走らせてラウリの親分を呼ぶんだ。大至急な。」と指示を出す。

 従業員が「はい、旦那様ドミヌス」と返事してサッと駆けて行くのを見届け、ヴェイセルは部屋へ戻る。


「さあ、今お飲み物を御用意させておりますので少しばかりお待ちください。」


「いや、おかまいなく。」


「いえいえ、私が飲みたかったのですよ。

 どうぞお付き合いください。」


 ヴェイセルはそうにこやかに言うとクィントゥスの対面の椅子に腰かける。


「それで、お話しと言うのは何でしょうか?」

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