第173話 侵入者逮捕

統一歴九十九年四月十七日、朝 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 この世界ヴァーチャリアでは火薬と言えば黒色火薬か、その派生である褐色火薬であり、その主原料は硝石だ。天然の硝石は採掘できる場所も量も限られるため、人工的に作られた硝石が大部分を占めている。

 その硝石を効率よく作り出すハーバー・ボッシュ法は《レアル》から伝えられていて知識としては知られているが、高温高圧を作り出す必要のあるハーバー・ボッシュ法は実験レベルでしか成功例が無い。


 《レアル》から降臨者たちによって文明や知識をもたらされたこの世界ヴァーチャリアでは科学技術は《レアル》とは比較にならない程の速度で発達してきた。しかし、ある時期からその発展速度を大きく減じている。

 科学技術の発展を阻害している要因・・・それは精霊エレメンタルの存在と『精霊仮説』によるものだった。

 強すぎる火、大きすぎる火には精霊エレメンタルが宿り、《火の精霊ファイア・エレメンタル》と化して人間の制御を離れ暴れ始める・・・そして《火の精霊ファイア・エレメンタル》が顕現化しない範囲の火では鉄の加工すらままならず、ガラスや磁器の製造など不可能だった。強い魔力と精霊エレメンタルとの親和性の高い人物が、顕現けんげんした《火の精霊ファイア・エレメンタル》を使役して制御しなければ、強い火も大きい火も扱えないのである。

 このため、この世界ヴァーチャリアにおける冶金学やきんがくと製鉄技術の発展はひどく遅滞せざるを得ないのだった。


 そしてもう一つの『精霊仮説』・・・これはこの世界ヴァーチャリアにおける精霊エレメンタルの存在と作用に関する仮説で、この世界ヴァーチャリアでは一つの定説として信じられている。それは、精霊エレメンタルとは一定以上の強いエネルギーそのものに霊魂が憑依ひょういしたものだとする説だ。

 この世界ヴァーチャリアには『霊素』というものが満ちている。それは魂魄こんぱくの元となる存在であり、この世界に顕現けんげんする事を望んでいるが、身体もエネルギーも無いそれらは顕現けんげんする事が出来ない。そこで、顕現けんげんに必要なエネルギー量を有し、なおかつ他の魂魄こんぱくの宿っていないエネルギー源を見つけると、最寄りの霊素がそのエネルギーに宿って精霊エレメンタルとして顕現けんげんする・・・というものだ。


 その仮説は証明はされていないが、その仮説を最初に唱えたのがとある古い滝に宿る《水の精霊ウォーター・エレメンタル》であったこともあり、かなり信ぴょう性が高いと考えられている。

 もしもその仮説が真であるならば、ハーバー・ボッシュ法は小規模な実験以上の事は出来ない。ハーバー・ボッシュ法で必要となる温度自体は精霊エレメンタルが宿るほど高温ではないが、そこに高圧という条件が加わるとなると温度以外のエネルギー要素が加わる事となる。つまり見かけ上の熱量以上のエネルギーがそこに存在するはずなのだから、高圧環境下では低い温度でも精霊エレメンタルが宿るのではないかという懸念が生じるのだ。そしてそれがどういう性格を持った精霊エレメンタルなのか、誰なら、どれほど魔力があれば制御できるのか、誰にも予想できない。


 このため、この世界ヴァーチャリアでの硝石生産にハーバー・ボッシュ法は使われておらず、硝化菌に頼った昔ながらの方法を用いている。すなわち、家屋の下の土を採取して煮詰めてつくる「古土法こどほう」と呼ばれる方法である。

 しかし、人の家の軒下から採取できる硝石の量などたかが知れているし、住民とのトラブルも絶えない。特にアルトリウシアは気温がそれほど高くもなく、湿度が高くて雨も多いということもあって、家屋の下から採取できる土の硝石の含有量は他地方に比べて多くは無かった。

 古土法こどほうでは硝石の必要量をまかなえない。

 その解決策として採用されたのが、人畜の糞尿を集めて専用の小屋の中で発酵・熟成させて硝石を作ろうという・・・いわゆる「硝石丘法しょうせききゅうほう」という生産法だった。アルトリウシアもそうだが、硝石丘法しょうせききゅうほうで硝石を作る多くの地方では、各家庭に対し大小便の供出きょうしゅつが義務付けられている。だからアルトリウシアのどの家でも玄関先には大小便の入った壺やかめが置かれていて、回収業者が毎日回収に来る。


 奴隷の仕事の一つはその家庭の大小便を家の外へ運び出すことだ。

 ガラスや磁器の普及していないこの世界ヴァーチャリアで液体を入れる容器は木の樽かテラコッタ(素焼きの陶器)が一般的で、ちょっと贅沢なものになると青銅や真鍮で作られるものもある。しかし、青銅や真鍮は高価で素材目当てで盗む者もいる。屋外に放置するため盗まれやすい回収容器を金属で作ろうという者はそうそう多くない。安いテラコッタで使い捨てにした方が貴重な金属製容器を使いまわすより安いのだ。

 だから今、ネロが抱えている大きな尿瓶しびんもテラコッタで出来ている。そしてテラコッタは水が染み込む素材であり、テラコッタ製の尿瓶は使い続けると容器自体がアンモニア臭を放つようになる。

 小便の染み込んだアンモニア臭を放つテラコッタのかめ・・・そんなものを抱えて家の前まで運び出す仕事など誰もやりたがらない。そして誰もやりたがらない仕事をさせられるのが奴隷の宿命だった。

 だが、ネロはそれを命じられるまでもなく率先してやっている。自分の判断で仲間たちを奴隷にしてしまったという負い目からだった。



「ん?」


 奴隷用の便所から尿瓶しびんを抱えて出てきたネロがふと庭園ペリスティリウムに目をやると、そこで信じられない光景を目撃してしまった。

 半裸のヒトの若い女が庭園ペリスティリウムの真ん中の噴水ピスシーナで自分の股座またぐらを洗っていたのだ。


「あ・・・はぁっ!?」


 思わず声をあげると、女もネロに気付いたようだ。


「あっ、ちょっとアンタ!

 ここの人かい?

 ちょいと出口を教えておくれよ!」


 緋色の髪スカーレット・ヘアーをした女はネロを見ると股座を洗うのをやめて声をかけてきた。さらに「やぁだ、みっともないトコ見られちゃったね。拭いたと思ったんだけど歩いてたら出てきちゃってさぁ。」とか照れ臭そうに笑いながらネロの方へ歩いて来る。


「女!そこを動くな!!」


 ネロは叫ぶと抱えていた尿瓶しびんを床に置いた。


「え!?」


「お前は誰だ、どこから入った!?」


 思わず立ち止まった女にネロが駆け寄り、その腕を掴んで捕まえる。


「痛っ!ちょっと、何すんのさ!?」


「うるさい!大人しくしろ!!」


 ネロはそのまま女を地面に引き倒して掴んでいた腕を捻り上げた。さっきまで微笑んでいた女の表情は一瞬で驚きに替わり、今は苦痛に歪んでいる。


「痛い!ちょっと、乱暴しないどくれよ!」


「黙れ!静かにしろ!」


「どうした!?」


 騒ぎに気付いた他の奴隷たちがわらわらと出てきた。


「侵入者だ!カッシウス・アレティウスクィントゥス様を呼んで来い!!」


「侵入者!?」


「いいから早く呼んで来い!」


「けど、この時間じゃまだ来てねぇんじゃ・・・」


「だったら他の百人隊長ケントゥリオでもいい!

 早く呼んで来い!!」


 叫ぶネロの下で女がし掛かるネロの重さに呻くように口を開く。


「ちょっと、勘違いしないどくれ、アタイは別に泥棒なんかじゃないよ。」


「黙れ、静かにしろ。」


 間を置かずに奴隷たちが駆けつける。


カッシウス・アレティウスクィントゥス様は?」


「今、カルスの奴が呼びに行ってまさ。

 コイツぁ何ですか?」


「侵入者だ、庭園ペリスティリウム噴水ピスシーナのところにいたんだ。」


 奴隷たちがネロと女を取り囲んであれやこれや言い出す。


「女だ、ヒトの女」

「こいつ、娼婦か?」

「ああ、トゥニカが透けてて短ぇし脚が丸出しじゃないか。」

「こいつ、下に何も履いてないぞ?

 ケツが透けてまる見えだ。」


「もぅっ、そんなに見ないどくれよ!

 そうだよ、アタイは娼婦だよ!!放しとくれよ。あイタたたたた!!」


 女が周囲の奴隷たちに文句を言うとすかさずネロが力を込めて締め上げた。


「うるさい!黙ってろ!!」


「まあまあネロの旦那、こんだけの人数で囲んでんだ。

 もう逃げる心配はねえからチッと緩めて話を聞いてやろうじゃねぇですか。」


 年長のリウィウスに言われて渋々といった感じでネロが力を緩める。しかし、まだ解放はしていない。

 リウィウスは女の顔の近くにしゃがみ込むと、その顔を覗き込んで穏やかな声で質問した。


「娼婦が何でこんなところに居るんだ?」


「ヴホッオホッ・・・何でって決まってるじゃないか、商売だよ。

 買われたから来たんだ。」


「買われたって誰に?」


「奥の寝室クビクルム貴族パトリキ様さ。…ヴ、ヴホッオホッ、ゴホッ」


 それを聞いた奴隷たちがざわめきだす。


貴族パトリキ様?」

旦那様ドミヌスのことか?」

「奥の寝室って言ったら旦那様ドミヌスしかいねえ。」


 皆の顔を一度見回したリウィウスが再び女の顔を覗き込んで質問する。


旦那様ドミヌスがお前を買ったのか?」


「名前は知らないよ。

 名乗られなかったし、アタイも名前は訊かなかったんだ。」


出鱈目デタラメ言うとタメにならんぞ!」


 ネロが再び体重をかけて締め上げと、女は顔をしかめて悲鳴を上げた。


「イタたたた!!ちょっと痛い、痛いって!」


 リウィウスは顔をあげるとネロに困ったような表情を見せた。


「ネロの旦那、ちっと落ち着いてくだせぇや。こんなんじゃ話が聞けねぇ。」


「む?むぅ・・・」


 ネロが力を抜くと安心したのか女は激しく咳き込んだ。

 そのうち、ガシャガシャと派手に具足を鳴らしてクィントゥスたちが現れる。ちょうど出勤してきたところへカルスが駆け込んできたらしい。


「何事か?」


「侵入者を捕らえました。」


 クィントゥスの質問にネロが興奮を隠せない様子で大声で答える。


「侵入者だと?」


 クィントゥスは人だかりが出来ているそばまで来ると、ネロに押さえつけられた女を見つけ立ったまま見下ろした。


「この女がか?」


「娼婦で、旦那様ドミヌスに買われたと言っています。」


 しばらく女を見下ろしていたクィントゥスの表情は複雑だった。蟻の子一匹入る隙のない警備をいとも簡単に突破されてしまった事に対する思いもあったし、先日アルトリウスに命じられたリュウイチの女の好みを調べる件も脳裏に浮かぶ。

 いずれにせよ。目の前でかなりな面倒が起こっている事は間違いなかった。


「ネロ、放してやれ。」


 クィントゥスはようやく溜息まじりに指示を出す。


「し、しかしっ!」


「このままじゃ話もできんだろ?

 いいから放せ。で、そっちの椅子にでも座らせてやれ。

 それから、こちらの女性に飲み物を用意して差し上げろ。

 さあ、お嬢さんこちらへどうぞ。」

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