第171話 失踪

統一歴九十九年四月十六日、晩 - 《陶片》満月亭/アルトリウシア



「「「きゃあ!」」」


 店のあちこちから娼婦たちが悲鳴を上げ、男たちが息を飲む。



 抜き去った刃物が店中のランプの光を集めてギラリと輝いている。

 おそらくあの酔っ払いはもう禄に目も見えていない。焦点の合わない目は虚空をさ迷い、その途中で映る何かの影に向かって刃物を振り回している。その動きは誰にも予想できない。そして、酔っ払いは手加減などできないし、躊躇ちゅうちょする事もない。むき出しになった敵意は血を見ても納まるどころか気づきもせず、ただ獲物を探し求め続けるだろう。

 『満月亭ポピーナ・ルーナ・プレーナ』は今まさに血で染まろうとしていた。



「んらぁ、糞がぁ、ひくちょお、ぃとが大人ぃくしてらいぃ気になぃぁがっぺぇ」


 叫び、刃物を振り回したせいか酔いが余計に回ったようだ。何ということもなくフラッとよろけては慌ててバランスをとって立ち直る。そしてその時向いた方に向かって威嚇する。そのたびに女たちが悲鳴を上げ、男たちが狼狽うろたえる。

 そして酔っ払いが遂にリュウイチの方を向いた。


「んーだ、手めぇ、ぁでな恰好ひゃがっぺ、ひくしょお、バカにちてんなぁコラぁ」


 リュウイチの自覚なきド派手な恰好はこの薄暗い店内でも悪目立ちする。おそらく碌に見えていないであろう酔っ払いの目さえも易々と釘付けにした。



「ちょいと、そんなもの仕舞しまっとくれよ。誰も馬鹿にしちゃいないよ。」


 リュキスカがせっかくの金づる・・・もとい、大事な客を守ろうとリュウイチの前に立ちはだかって男をなだめるが蛮勇だったのだろう、その声は震え、怯えの色がありありと浮かんでいる。


「るへぇ!ふっこんでろ、このあまぁ」


 酔っ払いが激昂してそのおぼつかない足取りを前へと進め始めると、リュウイチは目の前で客を守ろうとしている娼婦の両肩に手を置いて横に退かせた。


「え、あ、ちょっと!」


『止まれ!』


 その声に今にも斬りかかろうとしていた酔っ払いがピタリと止まる。


『落ち着け、そして刃物を仕舞え。』


「あ・・・ああ・・・」


 酔っ払いは急に静かになると、いかにも酔っ払いらしいおぼつかない手つきで四苦八苦しながら手に持った刃物を鞘に戻した。間違って指してしまったのだろう、鞘口を押えていた筈の手には真新しい傷がいくつか出来ていて血が垂れている。


『今夜のことは忘れて、帰って大人しく寝ろ。』


 酔っ払いは「ああ・・・」と小さく言うと千鳥足で本当にそのまま帰って行った。

 酔っ払いが店の扉の向こうへ消えると、一拍置いて店中から安堵の声が漏れた。



「ふぅ、よかった。一時はどうなることかと思ったよ。

 それにしてもアンタすごいじゃないさ!

 ベルナルデッタといいあの男といい、簡単におとなしくさせちまうなんてさ。

 あれも魔法なのかい?

 上級貴族パトリキ様で魔術師様だなんて、しかもあんなにすごいの初めて見たよ!」


『魔法!?魔術師!?』


 『ソロモン王の指輪』の効果だとはまだ気づいてもいないし、魔法なんて使った覚えのないリュウイチにはリュキスカが何を言っているのか本気で分かっていなかった。


「隠したってわかるさ!

 こんな派手な格好してるし、うっすら瞳が光ってるしさ、聞いたこともないような言葉をしゃべってるのに、言ってることが分かるんだ。

 こんなおかしな男がいたら気づかない方がおかしいってもんだよ!」


 リュウイチの瞳がうっすら光っているのは暗視魔法のせいだった。もちろんリュウイチにその自覚は無い。暗視魔法にそんな副作用があるなんて知りもしない。リュウイチは自分が派手な格好をしているとは思ってなかったし、目立っているという自覚など全く持っていなかった。


『それで店中が俺のほうを見てたのか!?』


 酔っ払いからいつでも逃げられるように席から立ち上がっていた客や娼婦たちはまだリュウイチの方を見ていた。その目には感謝と賞賛と羨望の光に輝いている。


『なんてこった、目立たないように気を付けてたのに・・・』


 これにはさすがに店のあちこちからクスクス笑い声がし始めた。まあ、場を納めてくれた英雄をバカにしちゃいけないという遠慮のようなものはあるのだろう。そうした笑い声はあくまでも控えめで、皆笑顔は浮かべてはいたがあえて知らないふりに付き合ってやろうとでも言うようにそれぞれの席に戻り始める。


「気にしなさんな。用心棒たちが来る前に場を治めてくれたんだ。

 ありがたいったらないよ。」


『用心棒たちが来るって?』


「ああ、さっき誰か呼びに走ったからね、もうすぐ何人か来るはずだよ。」


『まいったな。』



 用心棒が来たらきっと根掘り葉掘り聞かれるだろう。用心棒は警察じゃないが、店を守るのが仕事なら荒事に関係した人間に興味を持たないわけがない。


 正体を隠しきれるだろうか?


 降臨者であることは隠せたとしても、噂になれば勝手に抜け出してしまった事実がアルトリウスたちにバレてしまうかもしれない。何となくめんどくさそうな気がする。

 どうもルキウスといいクィントゥスといい、リュウイチとルクレティアをくっつけたがっているような気がしている。さらに言うとルクレティアもやたらとリュウイチの傍に寄りたがっているような気がしている。別にルクレティアが嫌いというわけでは無いが、リュウイチからすると彼女は若すぎる。

 思い過ごしなら良いがもし彼らが本気でルクレティアをリュウイチとくっつけたがっていた場合、夜中に抜けだして女を買いに行ったと知れたらどうなるだろうか?

 いや、自分リュウイチの存在自体を隠さねばならず、なおかつ実際に隠している状況である以上、スキャンダルとして派手に騒がれてになることはないだろう。

 だが、ルクレティアくらいの年頃の女の子って・・・いや、女の子に限らないけど、人生で一番夢見がちな年頃だ。ましてやどう見ても箱入り娘っぽい。

 目の前の男が女を金で買うという事実に何の衝撃も受けず、当たり前の事として受け入れてくれると期待するのはいくら何でもナシだろう。

 いや、若い子に現実を教えるのも大事だ。だが、かといって自分が率先してそれをやるほどリュウイチは勇敢でもなければ無神経でもないのだ。そういうのはもっと彼女自身に身近な人間に任せるべきだ。



「大丈夫さ、アンタは騒ぎを治めてくれたんだ。

 連中だって悪いようにはしないさ。」


『いや、俺がここに来たってことを人に知られたくないんだよ。』



 女を金で買うという事が恥ずかしいわけじゃない。リュウイチは《レアル》では素人童貞というヤツだった。金を払って春を買うのは当たり前だと思っているし、春を売ってくれる女性には感謝のみならず尊崇の念さえ抱いている。

 あくまでも騒ぎになってほしく無いのだ。



「そりゃしょうがないじゃないか。

 派手に荒れる筈だった場を血も見ずに奇麗に治めちまったんだ。

 下手に暴れたりするより却って目立つってもんさ。」


 リュキスカにしてみれば何でリュウイチがそこまで目立つのを嫌うのか分からない。男ならむしろ武勇は誇るべきだろう。ましてこんな見事な武勇伝なら率先して吹聴するのがレーマの男というものだ。これが有力者ノビレスたちなら被保護民クリエンテスを使って町中に噂を流させるにちがいない。


『なあ、店から出られないか?』


「ええ、なんで?」


『いや、さっきも言ったけど、俺がここに来たってことを知られたくない。

 噂になって広まったりすると怒られるんだ。』


「ふーん、でも、店から出て仕事すんのは御法度なんだよねぇ。

 親分にアタイが怒られちまう。」


 娼婦は店に所属しているわけでは無い。雇用関係にあるわけでもない。名目はあくまでも対等な提携関係にある。

 娼婦は個人事業主であり、店は場所を提供しているだけである。娼婦は店で客をとる代わりに、娼婦がする時は店の部屋を有料で使ってもらう。

 店で客を探すついでに給仕もやってもらうが、給仕の報酬は娼婦が直接客からチップという形で貰う。

 ただ、『満月亭』では必ず店の部屋を使う事を条件に、娼婦にまかない飯も出していた。そうしてまで娼婦を店にしばりつけるのは、娼婦の身の安全を守ろうという店側の配慮でもあるため、そういう義理も考えると店の外へ出るのははばかられる。


『何とかなんない?』


「店から出てどこですんのさ?」


『俺の部屋。』


 リュウイチは少し考えて応えた。


「近いのかい?」


『まあ・・・だ。』


「ふーん、そうだねぇ、割増でも貰えるんなら構わないよ?」


『三倍払おう。』


 そう言うとリュウイチはリュキスカの手を取り、デナリウス銀貨六枚を握らせた。


「ちょっ、コレ!いいのかい!?」


 リュキスカは値段交渉で『銀貨二枚』の一言で二セステルティウスを要求したつもりだった。しかもそれは値切られるのを前提で金額だ。本来のリュキスカの相場は一回一セステルティウス。それにアス銅貨いくらかでも割り増しできればラッキーと思っていた。しかし、あっさり飲まれてしまった。

 そしてリュキスカにとって全く想定外だったのはリュウイチはセステルティウス銀貨の存在を知らないことだった。

 リュウイチはレーマ帝国の銀貨はデナリウス銀貨だけだと教わっていた。だから銀貨二枚と言われれば二デナリウスだと最初から思っていたし、《レアル》日本で風俗嬢・・・特にの・・・を店外デートに連れ出すためには相場の三倍を払うのが常識だと思っていた。だから当然のようにデナリウス銀貨六枚を払ったのだった。

 しかしデナリウス銀貨は一枚で四セステルティウスの価値がある。

 今日はすでにチップだけでデナリウス銀貨を一枚貰っている。本来それは給仕を手伝ってくれたみんなで分ける筈だったが、リュウイチが手伝ってくれた連中にもチップを与えたからあの一デナリウスは丸々リュキスカの物だ。

 そこへ来てこの六デナリウスだ。今日だけで合計二十八セステルティウスの売り上げ・・・ここのところの急な不景気を考えればリュキスカでは十日かかって稼げるかどうかという金額だった。



『ああ、「いいのかい?」ってことは問題ないな?』


「もちろんだよ、こんだけ貰えりゃなんだってしてあげるよ!」


 信じられないという風に目を丸くしたままのリュキスカの声はわずかに震えていた。


『ようし、決まりだ!』


「あっ!?ちょっと!!」


 言うが早いかリュウイチは身をかがめるとリュキスカをヒョイと持ち上げていわゆる『お姫様抱っこ』した。


「お、重くないかい?」


 思わず問いかける。

 踊り子サルタトリクスとして鍛えた彼女の身体は筋肉質で同じくらいの体格の女より重いという自覚が彼女にはあった。


『軽いさ。』


 リュウイチは何でもないという風に言うとそのまま歩きだす。途中すれ違った店員に『じゃ、彼女ちょっと借りてく。』と小さく言って店の出入り口まで行くと急に振り返り、店に居合わせた客や店員たちに向かっていった。


『悪いが、俺のことは忘れてくれ。』


「アハハハハ!」


 それを聞いたリュキスカが腹を抱えて笑う。

 二人はそのまま外へ消えて行った。


 それが人々が見た娼婦リュキスカの最後の姿だった。

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