第170話 一難去ってまた一難
統一歴九十九年四月十六日、晩 - 《陶片》満月亭/アルトリウシア
《
娼婦同士の客の取り合い・・・それは実にみっともない行為であり、ましてや客の目の前でするようなことではない。したとしても誰もそんなことに真面目に取り合ったりしないだろう。まぁまぁと店長あたりが宥めて終わりだ。それを目の当たりにした客だって見ないふりをしてとっとと忘れるものである。
だがそんな喧嘩を引き起こしたのがヒト種の中ではアルトリウシアで一番の人気を誇る売れっ子娼婦ベルナルデッタと、店の常連ぐらいしかその名を知らない自称
これはもう興味を抱かない方がおかしいだろう。
しかし、野次馬たちのその期待は予想外の展開で幕を閉じる。
『黙れ!』
娼婦同士のみっともない喧嘩に巻き込まれた客であるリュウイチが少しばかり強い口調でそう言うとベルナルデッタはビクンと反応して急に大人しくなった。
『今日はもう一人で大人しく寝てしまえ。そして今夜のことは忘れろ。』
リュウイチがそう言うとベルナルデッタは先ほどまでの怒りをウソのように納め、ボーっと眠そうな表情になって「ああ、わかったよ」と一言だけ言ってそのまま店の裏へ引っ込んで行った。
「え?」
「なんだよ、アレで終わり?」
「あっけねぇな・・・」
「アイツ何かしたのか?」
「てかベルナルデッタを振るなんて何者だ!?」
リュウイチも含め誰も気づいていないが、これは魔道具『
『ソロモン王の指輪』は言葉の通じない相手との意思疎通を可能とするとともに、相手を使役することができる。人間などはある程度魔力を込めないと相手の理性の方が勝つので使役できないが、理性の弱い動物相手であれば魔力を込めなくても使役する事が出来る。
そしてこれは後に明らかになる事だが、疲労や酒酔いなどで理性が弱まった状態であれば、魔力を込めなくても人間を使役する事が出来てしまうのだった。
リュウイチは特に魔力を込めたわけでは無かったが、ベルナルデッタが酒に酔っていた上に感情的になって理性が極めて弱くなった状態だったため、魔力を込めなくても『ソロモン王の指輪』の使役効果が発揮されてしまったのである。
店中がシンと静まり返り、唖然としたままベルナルデッタを見送る中でリュキスカがキラキラした表情でリュウイチに話しかけた。
「ちょっと、アンタ凄いじゃないか!
あのベルナルデッタを一言で大人しくさせちまうなんてさ!」
『あれがベルナルデッタ?あんなのが一番人気だって?』
ちょっとしたUMAにでも遭遇してしまったような気分のリュウイチがリュキスカを見ると、そこには眩しいくらいの笑顔と尊敬のまなざしがあった。
「そうさ、ヒトの娼婦ん中じゃ一番太ってるからね。
男は大抵太った女が好きなのさ。
アンタみたいに痩せてる女のほうが好きだって言ってくれる男なんざ半分もいやしないよ。
だからいつもベルナルデッタには男が寄ってくるんだ。
アイツはそれを鼻にかけちゃってさ、嫌な女だよ。」
歓喜と興奮が冷めないといった風にリュキスカが嬉しそうにまくしたてる。その表情やまなざしは嬉しく思うが、その勢いについ引いてしまったリュウイチの目を、リュキスカは急に真顔になってジッと見つめた。
「・・・ねえ、痩せた女が好きって、ホント?」
『え?あ、ああ・・・ガリガリなのはまたアレだけど・・・』
「アタイみたいなのが良いの?」
厄年を迎えるまで男やもめを続けてきたリュウイチには、こんな間近なところから女性に震えるような潤んだ眼差しで縋るように見つめられた経験などなかった。さすがに
『あ・・・う、うん』
その一言で真顔だったリュキスカの表情がとろけるように緩んだかと思うと、リュウイチの腕に絡ませていた腕に力を入れてギュッと自分の身体を押し付け、「んん~♡」と声にならない声をだしながらまるで猫のようにリュウイチの肩に頬ずりをしはじめた。
『え、あ、おい?』
そのあと、リュウイチの左腕に右腕をからませたまま胸の前で腕を組み、女神に感謝をささげ始める。
「あぁ!ウェヌス様、感謝します。
久しぶりにアナタの愛を実感できました。」
『ウェ・・・ウェヌス様!?』
「女神さまの事だよ。性愛を司る神様さ!」
そう言うとピョンとジャンプしてリュウイチの顔にキスをする。
『あ・・・おいおい』
「いいじゃないさ!
男冥利ってもんじゃないのかい?」
そう言いながらリュキスカはまたリュウイチの腕にぶら下がるように抱き着き、肩に頬ずりしながら上目遣いで訊ねる。
『いや、悪い気はしないけど・・・』
リュウイチは周囲を見渡すと、未だに店中の視線が集中していた。
正直に言うとこの時リュウイチは別に周囲を気にしていたわけでは無かった。リュキスカの愛嬌と、腕に押し付けられたリュキスカのオッパイの感触に対する照れ隠しで視線を泳がせただけだったが、リュキスカはそれを違う意味に出受け取った。
あ、そうか、この人はお忍びだったんだ・・・と思い出したリュキスカは周囲を威嚇し始める。
「ちょいとアンタら何見てんだい!?
見せモンじゃないよ!
見せモンだと思うんなら金払いなっ!!」
いつもリュキスカから「ちったぁチップ払いな」と小言を言われている客たちは慌てて自分の目の前の
この店の娼婦たちは
もちろん、まともにチップを払おうとしない彼らが一番悪いのだが、彼らもそれを自覚しているのでリュキスカには頭が上がらない。
店員や娼婦仲間にとって店で一番怒らせたくない相手はベルナルデッタだが、常連客にとっては店で一番怒らせたくない相手はリュキスカなのだった。
店中の視線がそれた事でようやく障害を取り除けたリュキスカは改めてリュウイチに「さあ、行こうか?」と声をかけたところで、次なる障害が現れた。
「ヴぇ・・ベルナルデッタぁあああ・・・」
店の入り口から泥酔した男が入って来る。
店の外でベルナルデッタの順番待ちをしていた客の一人だった。ベルナルデッタを買った前の客から順番が回ってきた事を告げられ、店へ戻ってきたのだった。
「あぁ…ウェルナルデッタぁどこだぁ?」
目が完全に座っていて右を見ようと思ったら右へ、左を見ようと思ったら左へ、イチイチ身体を向けねばその方向が見えない状態になってしまっている。一歩歩くごとに右へ左へと大きく身体が振れていて、いつすっ転んでもおかしくなさそうだ。
「さっき引けちまったよ」
誰かがそう言うと酔っ払いは憤慨し始める。
「あぁ!?引けたぁあ?
・・・んだよ、ょうやくぉれの番か来たってぇぉにおぅ。
ウェルナルデッタあ!ひくしょぉ」
ひとしきり店中に向かって毒づくと、何かこみあがってきたように背筋をヒョイと伸ばしながら口をキュッと結び、「ヴッ」と小さな声を漏らして頬をプクッと膨らませる。
うわ、まさかココで吐くのか!?
誰もがそう思った直後、酔っ払いは何かをゴクンと飲み込んだ。そしてヒックと一つシャックリをする。
おぉー・・・店中から低い安堵のため息が響いた。酔っぱらいはグリンと大きく身体を回して店のカウンターを見つけると、焦点の合わない目で店員を捉えた。ドッドドッとよろけるように三歩ほど歩いて叫ぶ。
「うぉい!ひゃけだあ!!」
「ちょいと、飲み過ぎだよ。もう
一番近くにいたブッカの娼婦が忠告するが酔っ払いは聞く耳など持たない。腕を大きく振って声が聞こえた方に向かって威嚇する。
「ぅるへいっ!ぉれあ飲むんら…ぉぃ、早く持っへこひ!」
しかし、男が聞き取ったのは壁に反射して届いた音だったのだろう、その方向には声の主などいない。だがその先の近くにはちょうど厨房から次の洗い物を受け取りに来た皿洗いの少女が怯えた目をして立っていた。
「んぁ、ぁに見てんあ、見せモンやぁねえどコぁ!」
ハンナは泣きそうな顔をして「ヒッ」と小さく悲鳴を上げると厨房へ逃げかえって行く。
「ぃくしょお…ろいつもこいぷもヴァカしゃあがっへ・・・
らんでヴェルナゥデッタのやふぁ居ねぇんたよぉ、くひょがあ」
暴れたせいか新たに飲み足さなくても酔いが回ってきたようだ。酔っぱらいはどんどん
「ちょっと、ラウリの旦那は?」
「今日はポピーナ・クピティダースの方へ行ってて・・・」
「仕方ないね、誰か兄さん方を呼んできとくれよ」
娼婦と店員たちが小声で相談しているのが酔っ払いの耳に入ったようだ。今度はそっちへ向き直って大声をあげる
「ぁんらあ!
へめぇあぁ、おえか危ねぇとか言う気かぁひくしょお、売女どもぉ、くほがぁ」
そして酔っ払いはとうとう腰に下げていた刃物を抜いてしまった。
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