第155話 ダイアウルフ暴走

統一歴九十九年四月十六日、昼 — リクハルドヘイム/アルトリウシア



「いやっ!いやぁぁぁぁぁぁ!!止まってぇぇぇぇぇ!!とまれぇぇぇぇ!!」


 ファンニは精いっぱい叫ぶが彼女を乗せたダイアウルフは聞いてくれない。

 驚くべき速さで風を切って駆け続けるダイアウルフの背中は信じられない程揺れが少なく乗り心地はむしろ良いくらいだったが、今のファンニにそれを楽しむ余裕などなかった。これまで経験した事の無いスピードで移動し続ける事にただ恐怖し、ダイアウルフの背中にしがみつく事しかできない。



 ファンニは今日もダイアウルフの散歩を命じられた。

 嫌だと言ったが誰も聞いてくれなかった。

 今、《陶片テスタチェウス》には・・・いや、アルトリウシアには彼女の他にダイアウルフに言う事を訊かせることのできる人間は存在しないのだから仕方がない。

 そして、ダイアウルフもイヌ科の動物である。散歩させないとストレスが溜まって暴れ出す危険性があった。大人しくさせるには十分な餌と散歩は欠かせない。

 誰かがダイアウルフを散歩させてやらなければならない。

 だが、ファンニ以外にダイアウルフの面倒を見れる者が存在しない。

 ならば、ファンニがダイアウルフの面倒をみるしかないではないか・・・


 昨日は散々だった。

 ダイアウルフはちっとも言う事を聞いてくれず、その巨体で思いっきり遊びまわってくれた。力もスピードも体重もポニー種の馬を上回るその狼たちのにまともに付き合える人間など存在するはずがない。

 追いかけても追いつけず、追いかけられれば逃げきれず、抑え込もうにも抑えられず、抑え込まれれば逃れようがない。そしてスタミナもダイアウルフの方が圧倒的に上なのだ。

 ファンニも牧羊犬のゼンも昼前までには泥まみれのボロボロになっていた。

 ファンニは農家の生まれ育ちゆえか、同年代の子に比べて辛抱強い女の子だったがさすがに声をあげて泣いてしまった。

 ダイアウルフたちはそれを見て遊ぶのをやめて慰めてくれたが、ファンニはそれがまるで他人事のような気がして無性に腹が立った。


 お前たちが悪いのに、お前たちのせいで自分がこんな目にあってるのに、何でお前らは慰めてんだ!?まず謝るのが先だろ!!反省するのが先だろ!?


 半時間にも及ぶファンニのお説教タイムが終わってからというもの、ダイアウルフは大人しくするようになってくれた。おかげで午後は楽だったが、そんなことどうでもいいくらいに彼女は疲れ切っていた。

 帰ってから泥だらけの姿を見た母親に怒られそうになったが、から付き添ってくれたラウリがとりなしてくれたので特に何も言われなかった。

 その夜は泥のように眠った。


 今朝、いやだったがラウリにどうしても頼むと言われて仕方なくダイアウルフの散歩を引き受けた。

 意外にもダイアウルフは大人しく、昨日みたいにはしゃぐことは無かったが、やはりファンニの歩く速度に不満があるのか《陶片》を出た途端に背中に乗せられた。


 まあ、これくらいならいいか・・・


 そう思った。だがそれは間違いだった。


「いやぁぁぁあ!!もう止まってぇぇえ!!!」


 ダイアウルフはファンニを乗せたまま突然走り始めたのだ。

 走り出した原因は多分分かっている。

 ダイアウルフが走り出す前、馬の蹄の音が聞こえた。振り返ると騎馬兵エクィテスが沢山こっちに駆けて来るのが見えた。


 まずい、ダイアウルフから降りなきゃ怒られる!


 そうファンニが思った瞬間、ダイアウルフが駆けだした。

 それからというもの何を言ってもダイアウルフは聞いてくれない。もう振り落とされないように必死にしがみつきながら、ただ止まってくれと叫び続ける事しかできなかった。

 ダイアウルフの疾走はもはや風のようで、一緒に来ていた筈の牧羊犬ゼンも置き去りにし、迫って来ていた騎馬兵たちをも引き離しつつある。


 何で!?何で止まってくれないの?

 どこへ行く気なの!?



 ダイアウルフたちはもちろん騎兵から逃げるつもりだった。

 接近してくる騎兵たちに不穏な空気を感じたから、とりあえず距離を開けようと走り出した。

 そしたら背中のファンニが高い声をあげ始めた。


 ダイアウルフにとって低い声は敵意、悪意、恐怖といった感情を表す声だ。逆に高い声は好意、善意、歓喜を表す声だった。


 つまり、ダイアウルフは走り出したことで背中に乗せた可愛い少女が喜びの声をあげていると勘違いしたのだ。

 走れば走るほど少女は高い声をあげる。

 そんなに喜んでくれるのならと、なおも速度を上げる。

 もう、何で走り出したかも忘れてしまったダイアウルフは、気づけば走ることが嬉しくてしょうがないというような状態になってしまっていた。ファンニは気づいていなかったがダイアウルフはこの時、尻尾を振りながら走っていたのである。



 しかし、いつだって楽しい時間は短いものだ。

 彼らの目の前には排水路が迫って来ていた。


 ファンニを乗せていない方のダイアウルフは軽々とその排水路を飛び越えてしまったが、ファンニを乗せている方のダイアウルフは急減速してその手前で停止した。

 ファンニを乗せている方のダイアウルフは、つい先週ここを飛び越えた時に乗せていた騎手を振り落としてしまった経験を思い出したのだった。


 ここを飛び越えるのは簡単だが、この娘ファンニを落としてしまうかもしれない。


 そう思ったダイアウルフは飛び越えるのをやめた。

 そして立ち止まってじゃあどこへ向かおうかと思っていると、背後から蹄の音が近づいてくるのが聞こえ、ようやく何で自分たちが走り出したのかを思い出した。

 ダイアウルフが振り返ると騎兵たちが全力で駆けてくるところだったが、その速度は(彼らからすれば)遅く、まだまだ距離がある。だが、もうすぐ銃の射程圏内には入りそうだった。


 川へ逃れるか、《陶片》の方へ行って柵沿いに戻って騎兵あいつらか・・・


 ちょっと考えてると背中のファンニが暴れ出した。


「もう!何で走るのよ!!

 止まってって言ったでしょ!?

 何で止まらなかったの!?

 もう降ろして!降ろしなさい!!」


 ダイアウルフにしたら何で怒られてるのか分からない。


 え?止まったから怒ってるの?


 一瞬そう思ったがそうでもないらしい。ファンニは迫りくる騎兵に気付くと降りようとしはじめた。

 ダイアウルフは仕方なく姿勢を低くしてファンニが降りるのを手伝う。



 しかし、そうしている間に騎兵たちはダイアウルフらを短小銃マスケートゥムの有効射程に収めるまで接近するとそのまま左右へ広がって半包囲態勢を敷く。銃自体は鞍にくくり付けたホルスターに入れられたままだが、弾が装填されているかどうかは分からない。もし、装填されていたら、ダイアウルフたちであっても容易には逃げられないだろう。

 排水路の向こう側へ渡ってしまったダイアウルフは相棒を心配そうに見ており、時折じれったそうに前脚を投げ出して姿勢を低くしながら小さく遠吠えをし、こっちへ渡って来るように呼び掛ける。

 だが、肝心の相棒は背中のファンニを降ろすと騎兵からファンニを守るように身構え、こちらへ逃げて来るつもりはないようだった。



 ダイアウルフから降りたファンニは騎兵たちにむかって唸るダイアウルフをなだめ、「ダメよ、大人しくするのよ」と言い聞かせてから騎兵の方を見た。

 そして見つけた。

 ひときわ大きい馬に乗ったひときわ大きい体格の兵隊。その顔も頭も手も真っ白な体毛で覆われ、アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア共通の赤いトゥニカとズボンブラカエまとっている。


 あれは『白銀のアルトリウスアルジェィントゥム・アルトリウス』!?

 貴公子様だ!!


 ファンニも自分のとこの領主一家についてある程度は知っている。ましてコボルトの血を引く子爵公子はその容姿から『白銀のアルトリウス』の二つ名で知られ、アルトリウシアはもちろんアルビオンニア全域やサウマンディアでは知らぬ者の無い有名人であり、ゴブリン系種族の女性たちの人気を最も集めるアイドル的な貴公子だった。その評判はレーマにすら鳴り響いていると聞く。

 ファンニもその姿を何度か遠くから見たことがあった。


 その貴公子様がこんなに近くまで来て自分を見ている・・・という思いが決してないわけでは無かったが、それ以上にファンニの心を占めていたのは焦燥だった。


 まずい!ダイアウルフに乗ってるとこを上級貴族パトリキ様に見られた!?

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