第130話 瀕死の負傷兵

統一歴九十九年四月十四日、午後 - リクハルドヘイム/アルトリウシア



 あったかい・・・。


 ちょっと寒いけど、あったかい・・・。


 重たいけど、あったかい・・・。


 あったかくて重い・・・で、くさい。


 くさい?


 くさい・・・クサッ!何このにおい!?クサッ!!!



 ファンニはドブのようなにおいに驚き、目を覚ました。

 が、起きようとしても身体に被せられた毛布が重くて動かない。


 え、なにこれ!?

 こんな毛質の硬い毛布なんてウチにあったっけ?


 何とか起きようともがいていると、毛布がスッと動いて離れて行った。

 周囲を見回すと・・・見た事ない景色だった。明らかに屋外である。

 低く厚い雲に覆われた陰鬱な空からは今にも雨が降ってきそうだ。どうやら水路らしく、ファンニの身長の倍ちかくありそうな壁が挟み込むようにそびえ立っていて、近くに水が流れている。

 この酷い臭いはこの汚水の臭いだった。


 え、どこココ?さっきの毛布は?


「ヒッ!」


 そこにダイアウルフを見つけたファンニは思わず息を飲んだ。巨大なダイアウルフがファンニの顔に鼻を押し付け、スンスンと鼻を鳴らしながらファンニの臭いを嗅いでいる。

 壁を頼りに立ち上がろうとしたが、手足に思うように力が入らず、一度ずり上がった身体はそのままドシャッと地面にくずおれた。

 それを見てダイアウルフが一歩二歩と再び近づき、おびえるファンニの臭いを嗅ぐ。


 た、食べられちゃう・・・。


 思うように動かない手足をそれでも動かして、這うようにダイアウルフから離れようとするファンニ。再び立ち上がろうとして、またコケる。

 そして再びまた立ち上がろうとした次の瞬間、ファンニは移動しようとした方向にもう一頭のダイアウルフがいるのに気づいた。


 背後には壁、正面には汚水の流れる水路とその向こうに壁、左右にダイアウルフ。その二頭のダイアウルフが揃って左右からファンニに鼻面を押し付けて臭いを嗅ぐ、そして突如生暖かくなる下半身・・・ファンニは失禁してしまった。

 異変に気付いた二頭のダイアウルフの鼻は下へ移っていき、ダイアウルフたちはファンニの股間から立ち昇る臭いを盛んに嗅ぎはじめる。


 自分が失禁した事にようやく気付いたファンニは思わず手でダイアウルフの鼻を押しのけると、意外にもダイアウルフはすぐに鼻を引っ込めた。

 手をそのまま隠す様に股間に充てると、早くも冷たくなり始めた濡れた服の感触がファンニをさいなむ。


 もうヤダあ・・・。


 思わず涙が溢れ出す。涙と共に嗚咽がこぼれ始め、やがてファンニは泣き始めてしまった。

 ダイアウルフたちは一、二歩離れたところからその様子を眺めていたが、小さく尻尾を揺らしながら近づいて来てファンニの顔をベロベロと舐め始める。

 二度、三度舐められ、ファンニは放っといてよとばかりにダイアウルフを跳ねのけると、ダイアウルフたちは再び数歩さがってその場に伏せ、尻尾を小さく揺らしながら交互に遠吠えを始めた。その吠え声は小さく抑えられていたが、間欠的に、数秒置きに交互に遠吠えをしては顎を前脚の上に乗せるくらいに身体を小さくして上目遣いでファンニの様子をうかがうことを繰り返した。



 しばらくしてファンニは泣き止んだ。そんなに長い時間では無かったと思う。

 やたら図体の大きい犬が伏せて尻尾を揺らしながらこっちファンニの機嫌を窺っているのを見てようやく落ち着いた。


 ファンニを食べるつもりはないのかしら?


 ファンニの嗚咽と涙が止まって自分たちを見ている事に気付いたダイアウルフはスッと立ち上がって再びファンニの顔を舐め始めた。

 自分の手の平よりも大きな舌でベロベロと舐められる気分は、悪意が無かったとしてもあまり気持ちのいいものではない。泥と涙でグチャグチャに汚れていたファンニの顔はダイアウルフの唾液でピカピカのテカテカにされてしまった。


「ううん・・・もういい、もういいってば」


 ファンニはそう言いながらダイアウルフの鼻面を押しのけつつ、ようやく立ち上がる事が出来た。ダイアウルフは立ち上がろうとするファンニを、一歩下がって見下ろしていたが、立ち上がってもなおファンニよりダイアウルフの方が背が高い。


 ファンニとダイアウルフたちは少しの間、お互いの顔を見合わせていたが、そのうち一頭がフンッ鼻を鳴らすとノソノソと身体をひるがえして離れていく。

 どこか行くのかと眺めていると、もう一頭が鼻でファンニの上腕をグイっと押した。


「何?行けって言うの?」


 ファンニがそう言うと、鼻でファンニを押してたダイアウルフがフンッと鼻を鳴らす。


「行けって言うのね?」


 先に離れて行った方のダイアウルフがいる方へ行くと、その向こうに誰か倒れていた。ダイアウルフは倒れている人間の臭いを嗅いでは、クンクンと鼻を鳴らしながら顔を舐めている。


「大変!」


 ファンニは駆け寄った。

 それはゴブリン騎兵だった。体格はファンニよりちょっと大きいくらいの男のゴブリンだったが、顔色にもはや生気は無い。左の手首が変な方向に曲がってまるでカボチャのように大きく膨らんで紫色になっており、右の太腿も怪我をしているようだ。出血は既に止まっているが、傷口が膿んでしまっていてそこから変な臭いが立ち昇っている。


「・・・まだ、生きてる。でも、このままじゃ死んじゃう。」


 ゴブリン兵の口元や胸の辺りも血と肉片で汚れているが、それはどうやらダイアウルフがこのゴブリン兵に生肉を食べさせようとしたもののようだった。周囲には狐、兎、ネズミ、そして子羊の死骸が転がっており、どれもダイアウルフが食いついた痕跡がある。


 それはドナート率いるマニウス要塞カストルム・マニ襲撃部隊の生き残りだった。マニウス要塞からの帰りに《陶片テスタチェウス》に立ち寄った際、『巽門たつみもん』からの銃撃を脚に受け、排水路を飛び越える際に乗っていたダイアウルフから転落してしまった兵士だった。

 転落する際に左手首を骨折し、右足の銃創じゅうそうもあって身動きがとれなくなってしまっていたのだった。

 彼が乗っていたダイアウルフは騎手を落としてしまった事に気付き、慌てて戻ったらこの状態だった。しかし、ダイアウルフには彼を治療する手段などない。応急手当すらしてやれず、せめて何か食って元気出せと周辺で動物を狩って来てはゴブリン兵に食べさせようとした。

 しかし、ダイアウルフがもってくるのは新鮮ではあるが生のままの肉である。食べるわけがない。

 兎の肉はダメか、じゃあ狐は?羊は?と毎日色々狩ってきたがどれも食べてくれない。そしてどんどん衰弱していく。

 ティトゥス要塞カストルム・ティティ襲撃部隊の生き残りのダイアウルフと合流したが、やっぱり事態は改善しない。

 もう限界だ、これ以上は死んでしまう。


 そこで、ファンニをさらって来たのである。


 人間なら治療してやれるかもしれない。

 羊を狩る時に見つけた人間のメスで、体格もこの騎手と同じくらいでちょうど。しかも一人きりで周囲に誰もいない。実に丁度いい。



「この人を助けたいの!?」


 ファンニが振り返ってダイアウルフに訊くと、ダイアウルフは小さく遠吠えをするように声を絞り出しつつ尻尾を振った。ダイアウルフは言葉を話せないが理解するだけの知能は持っている。


「でも、私じゃ助けられないわ。

 助けを呼ばないと!」


 今度はダイアウルフはブフンッとクシャミでもするように鼻を鳴らすと下を向いて首を大きく左右に振り、前脚だけで足踏みをした。

 如何にもそれはダメだと言わんばかりである。

 彼がの手に渡って捕虜になるのを避けたいのだ。


「でも、このままじゃ絶対に助からないわ!

 死んでもいいの!?」


 再びクシャミをするが、今度は前脚を前に投げ出すようにして前半分だけ姿勢を下げ、尻尾はゆっくり振れている。


「助けを呼ぶか、ここで死なせてしまうか、そのどちらかよ!

 私じゃ治せないもの!」


 ダイアウルフは今度は伏せてしまった。尻尾を揺らしながら顎も前脚に乗せて上目遣いで甘えるように鼻を鳴らす。


「ダメよ!

 この人を助けるなら人を呼ばないとダメ!

 私は呼びに行くわ。」


 ファンニが強い口調で言うと、ダイアウルフは前脚は投げだし頭の位置は低くしたままだがお尻を高く持ち上げる。そして大きく欠伸あくびをするようなしぐさをしながら右の前脚だけを持ち上げてをおねだりするみたいに何回か上下に振って見せた。

 まあ落ち着けよというメッセージだ。


「ダメったら駄目よ!

 止めても私は行きますからね!」


 ダイアウルフは困ったように伏せて身体を小さくしてしまった。尻尾は小さく揺れている。

 だが、ファンニの決意は変わらない。このゴブリン兵を助けるには誰かを呼ばなければならないのだ。何でダイアウルフたちがここまで拒むのかはわからないけど、助けを呼ばなけれ絶対に助からない事だけは間違いない。


 ファンニは立ち上がった。そして周囲を見回した。



「帰り道はどっち?」

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