第125話 姿を消した羊飼い

統一歴九十九年四月十四日、午前 - リクハルドヘイム/アルトリウシア



 一昨日リクハルドヘイムでダイアウルフが目撃された翌日からヤルマリ川沿いは立ち入り禁止になっている。ダイアウルフはただでさえ人間並みの高い知能と猛獣並みの戦闘能力を誇っている。野生のダイアウルフですら人間の側が翻弄され一方的に狩られる側になってしまう事も当たり前にあるのだ。

 それなのに今回目撃されたのは軍用ダイアウルフである。

 体力的には野生のダイアウルフに劣ると思われるものの、戦闘訓練を受け鉄砲や爆弾についても人間の集団戦術についても熟知している。つまり、野生のダイアウルフなんかよりよっぽど知恵が回り、人間の動きを的確に予測し判断し行動する。

 弱兵として知られるハン族がそれでもハン支援軍アウクシリア・ハンとして一定程度の評価を得ていたのは、彼らがダイアウルフを主力として大規模に使役する騎兵部隊だったからに他ならない。

 そんなダイアウルフが人里の近くでうろついてるなど、とてもではないが放置できる問題では無かった。


 しかし、かといって対応できるかと言えば現時点では難しい。

 ダイアウルフを狩るとなれば、それこそ凄腕のハンターか軍団レギオーを投入しなければならないだろう。高い知能と戦闘力を誇るダイアウルフは、素人が鉄砲を持った程度で対処できるような存在では無いのだ。仮に素人同然のリクハルドの私兵でダイアウルフを狩るとすれば、巻狩りのように大人数で囲んで追い詰めて一斉射撃を浴びせるしかない。

 だが、人手は火災現場の死体処理に優先して充当せねばならず、広い捜索範囲を丸ごと囲い込む規模で包囲網を形成できるほどの人数を割くことは出来なかった。

 ゆえに、ヤルマリ川付近を立ち入り禁止にして被害の拡大を防ぐくらいしかできなかったのである。


 だからと言って羊を放牧しないわけにはいかない。

 おそらく安全であろうと思われる程度にヤルマリ川から離れてはいるが、既にだいぶ草が食い荒らされて本来なら再び草が生えるまで放置されるはずの放牧地で羊の群れが草をんでるのは、そうしたやむを得ない事情があったからだった。

 その場所はヤルマリ川よりも『巽門』街道ウィア・タツミモンやマニウス街道に近く、街道には人通りもあるので知恵の回るダイアウルフがわざわざ近づいて来ないだろうと思われていた。

 実際、街道上には半時間に一回は誰かが通るし、時折通りかかった知り合いから声をかけられることもあった。それに『巽門』街道の向こう側の畑では、叛乱事件のせいで中断されていたライ麦の種植えが今日から再開されている。

 大火災の復旧復興作業も大事だが、麦の種植えも時期を逸しては来年の食糧事情が悪化してしまうのでしないわけにはいかない。だから、種植え作業にもかなりな人数が割かれており、その中にはファンニの家族も含まれていた。



「はぁ・・・」


 ファンニは今日何度目になるか分からないため息をついた。

 自分の浅はかな行いのせいで大事な羊を失い、牧羊犬のカルロにも重傷を負わせてしまった事をファンニは悔いていた。

 カルロはあれから自力で起き上がれなくなったままだが、一昨日の夜から神官の見習いだという人がしばらくの間毎日通ってくれることになり、魔法の練習と称して毎日治癒魔法を使ってくれている。おかげでカルロの容体は安定している。

 それもあって、まだショックから立ち直れていないファンニが貰えた休みは昨日の一日だけだった。

 酷なようだが、ファンニの家も決して余裕があるわけでは無い。辛い出来事があったからと言って甘えていられないことぐらいはファンニも承知していた。


 ・・・それでもせめて他の人と仕事を代わってほしかった。


 ファンニは羊飼いとしてはあってはならない失敗を犯したのだ。

 大事な羊を失ったし、大事な牧羊犬も傷つけてしまった。まだ子供とはいえその責任の重大さは理解してるつもりだ。

 しかし、周囲の評価は逆だった。



「ダイアウルフに襲われたのに、無事に生きて帰ってきた! 

 獰猛どうもうなダイアウルフ相手に無傷で帰ってきただけでも奇跡なのに、牧羊犬を盾にして羊の被害を一頭きりに抑えた!!

 ファンニじゃなければきっと五、六頭は犠牲になっていたに違いない。」



 あの晩、郷士ドゥーチェの家令のパスカルという偉い人が家にやって来てファンニを絶賛したせいで、彼女の株は爆上がりしてしまったのだ。

 おかげで今日もまた羊の番をやらされている。

 いつにもまして雲が低く重苦しく垂れこめた空は今のファンニの心情をそのまま表しているかのようだ。昼間だというのに辺りは薄暗く、地面には影一つできやしない。



「ゼン!」


 ファンニは草の多い方へ・・・つまりヤルマリ川の方へ勝手に行こうとする羊を見つけると牧羊犬の名前を呼んでクルークし示した。

 牧羊犬ゼンはそれを見るとサッと駆けていき、羊の前へ回り込むと眼力で威圧して羊を群れへ追い返す。

 

 羊を追い返した牧羊犬ゼンは尻尾を振りながら意気揚々とファンニのもとへ戻って来る。

 その表情は自信に満ち溢れ、「余裕だぜ」と自分の仕事ぶりを自慢するかのようだった。


 このゼンは借りてきた犬だった。カルロの甥にあたるらしい。

 ファンニとは仔犬の頃から知り合いだったが、一緒に仕事をするのは今日が初めてだ。頭は良いがまだ若く経験が浅い事もあって、まだ息の合った仕事は出来ないものの、命令には素直に従ってくれる。

 余計なこともしないが、その代わりカルロのように状況を自分で判断してファンニの指示の先回りをして行動を起こすことは無い。


 カルロは毎日治癒魔法をかけたとしても、動けるようになるまでまだおそらく一か月程度はかかるだろうと治療した神官見習いは言っていた。

 それまではこのゼンが仕事の相棒ということになる。


「よしよし、いい子いい子。」


 ファンニは足元に戻ってきて甘える牧羊犬ゼンを褒めた。

 信頼関係をつくるのはこれからだ。

 ゼンの頭をなでるために屈めていた身体を起こすと、顔に冷たい霧が降りかかった。今日は朝からこんな風に断続的に霧雨が降っていて、周囲の景色はどこか霞がかって見える。

 頬に感じる風や吸い込む息はひんやりとして清浄な感じがするのだが、髪の毛が濡れてしまうのはいただけない。

 ファンニはパルラのように肩に羽織っていたフェルトの頭巾を頭に被った。


 西を見ると霧雨に濡れた景色はどこかぼんやりとして、《陶片テスタチェウス》より先はかすんでしまっている。ホントなら海軍基地城下町カナバエ・カストルム・ナヴァリアの無残な焼け跡が見える筈だが、音もなく漂うように降りしきる霧雨はそれらを灰色とも水色ともつかない風景の中に溶かし込み、そこでほんの数日前に起こった筈の悲劇を夢物語に替えてしまったかのようだ。



「・・・なんか全部ウソみたい。」


 そう、霧雨は全てを覆い隠し、すべてをぼやけさせ、すべてが嘘だったかのように思わせる。すべての悲惨を、すべての不幸を、そしてすべての幸福さえも・・・ファンニの心を満たした、まるですべてがウソであったかのような気分は同時にそこはかとない不安もかきたてた。

 不安ゆえか、身体が冷えたからなのか、思わずブルっと身震いして周囲を見回す。



「・・・・・」


 もちろん、何もいない。

 ただ、音もなく霧雨が降り続いている。今回の霧雨は少し濃く、そして少し長いようだ。この中では街道を人が歩いていても、影ぐらいしか見えそうにない。


 すぐに止むだろうが、この中じゃ羊がちょっと離れると見えなくなってしまうかもしれない。


 改めて羊の群れを見ると、いつの間にか羊たちは結構離れたところに移動していた。


「ゼン!」


 ファンニは牧羊犬ゼンに羊たちを集めるように指示を出した。

 霧雨に視界を塞がれた状態で羊が広がりすぎると、文字通り目が届かなくなってしまう。

 ファンニは、そして大人たちは気づくべきだったかもしれない。霧雨で隠され目が届かなくなってしまうのは、羊たちだけではないと。ファンニ自身もまた、誰の目も届かなくなるのだと。

 そして、ダイアウルフもまた霧雨の中に隠れる事が出来るのだと。

 その巨体ゆえに近づけばすぐに見つけられると思いがちだが、忍び足スニークで獲物に忍び寄るダイアウルフは気配をほぼ完全に消す事が出来る。そうでなければ狩りは成功しない。そしてダイアウルフは他の狼同様、狩りの達人なのだ。


 霧雨に紛れ、足音を消して風下から接近していたダイアウルフは、ファンニが羊に向かって歩き始めるとファンニの歩調に合わせて距離を急速に詰めていった。

 ピシャピシャと足音を立てながら風上に向かってゆっくり歩く獲物ほど襲いやすいものはない。歩調を合わせて近づいて行けば、仮にダイアウルフがうっかり足音を立ててしまったとしても、獲物自身の足音に紛れて気づかれない。

 実際、ファンニはまったく気づかなかった。


 自分の足音が二重に聞こえる・・・そんな不思議な現象に気付いたファンニがふと振り返った時、ダイアウルフはすでに目と鼻の先まで迫っていた。

 だからそれがダイアウルフだとは気づけなかった。

 ファンニの目に映ったのは自分に向かって飛び掛かるダイアウルフの大きく開かれた口だけだったからだ。

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